なぜ表象を問題にするのか問題―RDR

表象とは、ある物、事、人を表現したものだとざっくり考えて、さらに博物館では、例えば、もう既に存在していない「縄文時代の生活」について、今の研究で考えられていることをモノやパネル、ジオラマなどで表す行為となる。

だから、その「表象」を選択した人、あるいは時代の考えや価値観が反映されている。意図的でも、意図的でなくても。当たり前だけど、男性は女性の視点を想像し得るだろうけど、女性そのものではない。だから、「むかしのくらし」という展示で、女性の生活を再現するのか、男性の生活を再現するのかも企画者の「共感しやすさ」が反映されているかもしれない。

ここまでは展示する側の話。
次は、展示される側の話をみてみよう。

文化的なステレオタイプに遭遇したとき、誰もが苛立ちやフラストレーションを感じたことがあるだろうし、自分たちの階級、文化、民族性が欠けていたり、うまく描写されていないために、特定の芸術形態から排除されたと感じたことがある人も多いだろう。表象とは私的で個人的なものであり、文化的な生活の「大きなスクリーン」に映し出される私たちの表象仕方との関係はダイナミックである。それにより、個人的に成長したり、社会の幅広い発展と連動して変化していくものです。 

RDR 20

「むかしのくらし」の展示で家事をがんばるおかあちゃんは、一つの表象でしかない。外で働く女性という表象だってあり得るはずである。なのにみんながそうだったかのようにステレオタイプとして表現してしまうことがある。

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