おうちミュージアム・コミュニケーション ー三木順子「美術館で美術館を演じる-映画のなかのミュゼオロジー」

 緩和ケア病棟のなかで、図書館が本を病室に届けてくれるサービスを知った。果たしてミュージアムは何ができるのか、考えつづけている。

 さて、昨年4月のコロナ禍は、多くの人を外と遮断された状況をつくりだした。「行きたくても行けない」という状況を体感したことで、ミュージアムも変わるのではないか、と思った。

 すべてのおうちミュージアムを否定するつもりもないし、当時の何か緊迫した状況ではあるものを出すというのが精一杯だったというのもよくわかる。でも、ちょっと落胆したのも事実である。

 直接かかわっていないこともあり、外からの批判もなかなかしづらいのではあるが、「行きたくても行けない」に寄り添ったものではなく、「見せたくても見せれない」という状況からの発信にみえてしまったからである。

 「見せたくても見せれない」のは、コロナ禍ばかりとは限らない。コレクションや常設展もまた、話題性のある特別展や巡回展の影に隠れてしまい「見せたくても見せれない」。

配信した動画でとりあげられていたのは、必ずしも、他館から借用した作品で構成される特別展-つまり、会期が終了してしまえば、たとえ美術館が再々したとしても、もうその場所では目にすることができない作品の展示-とは限らなかった。留意すべきは、常設展やコレクション展-つまり、美術館に所蔵され、いまでなくともそのうち目にすることができる作品の展示-もまた積極的にとりあげられていた点である。

三木順子「美術館で美術館を演じる-映画のなかのミュゼオロジー」『芸術の価値創造-京都の近代からひらける世界-』2021

 そして、こうした動画配信について、問われるべきは「あとで実際に観ることができるものをいま映像で観ることが、そもそもどのような意味をもちうるのか」だと三木順子は指摘する。

 さまざまな議論ができそうだが、上述のような問題意識を持つ私としては、コミュニケーションの媒体としてほしいと願う。コロナ禍で、イギリスの美術館のオンラインツアーに参加したのだけど、何をみたか、よりもイギリスの美術館の人やほかの参加者とのやり取り、窓からは港の風景がひろがっていたことの方が私にとっては印象にのこっている。それこそ、行きたくても行けない。これから先会うこともない。それでも、あの時、あの場でしかなかったあの瞬間だと思う。


※2021/11/27追記
ちょっと誤解を招く書き方になっているので、補足します。
三木順子さんは常設展やコレクションを利活用していくことについては積極的に評価しつつ、それでもなお映像を現物に近いイメージを提供できるもの!と安易に飛びつくのはどうか、と説明されているなかでの「あとで実際に観ることができるものをいま映像で観ることが、そもそもどのような意味をもちうるのか」という指摘です。「映像」のもつ意味ってなんだろうね、という話です。

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