第6講 生涯学習とは «まとめ»

前回の授業から

 いよいよ最後の講義となりました。教育と学習の違い、知能とは何かという問題、知能はどのように発達するのか、文化とは何か、利用者とは誰なんだという問題を扱ってきました。
 さて一番最初の問題に帰りましょう、博物館は社会教育施設なのでしょうか、生涯学習施設なのでしょうか。どうですか、ここまで授業を受けてきてどのように考えますか。社会教育を考えるヒントはたくさんあったかも知れませんが、生涯学習についてはあまり触れてこなかったかも知れませんね。生涯学習について、二人ほど紹介しましょう。
 

①ポール・ラングランさん・パウロ・フレイレさん

 まずは、生涯学習っていったら必ず出てくるのがポール・ラングランさんです。山崎ゆき子さんによれば、当時のフランスでは教育・文化において大きな不平等が存在しており、生まれによって受けることのできる教育、享受できる文化が異なっていました。そこで、これを是正すべく、成人教育、公教育改革が行われ、教育と文化の民主化を目指す運動がありました。そうした背景のなかで、ラングランさんは生涯教育が必要だと考え、ユネスコで提唱するにいたったといいます。(註1)

 (ラングランは)「教育の使命も、生活の準備としてのものから、自己教育を中核として一生にわたって継続するものへと変化すべきだ」と説いた。
そこには、硬化した学校教育の構造への批判の視点があった。

堀薫夫「生涯学習の理念」放送大学教材『新訂 生涯学習と自己実現』2006

 さて、もうお一人紹介しましょう。ブラジルのパウロ・フレイレさんです。ブラジルの、とあえて申し上げているのは、彼はブラジルの貧しい農村に住む人びとに対して、文字を教えるんですね。それはなぜかというと、彼女/彼らの自由のためです。貧しさから脱するには、一方的に教えるのではなく、自分たちで問題に気づき「自由」を獲得していかなくてはならないと考えたからです。
 
 この二人がなぜ生涯にわたる教育が必要だと感じるようになったのか、そう考えるにいたった要因をみてきました。そこから、これからの日本に生きる私たちが、だれのために、なんのために、教育あるいは学習を行うのか考えるヒントが得られるように思います。


まとめにかえて ー生涯学習と社会教育は誰のため?

 まず日比嘉高研究室の2015年3月20日のブログを読んでみてください。「生涯学習は私たちの社会の新しい管理形態なのか――教育再生実行会議・ドゥルーズ・学びの両義性」というタイトルです。

 ブログによれば「生涯学習観が変化しているよね」と、2015年「教育再生実行会議第6次提言」から説明しています。「社会に出た後も、学び続けることにより、新たに必要とされる知識や技術を身につけていくことが不断に求められる」とか「一人一人の仕事以外の時間をいかに創造的、生産的に過ごすかということ」などというように、学ぶことが社会の一員として役に立つことに結びついているような印象を受けるのです。(思い出していただきたいのですけど、時間を有効に使いましょうという「時の博覧会」。有効に使わなくてはならないのは誰のため?)
 
 そして、日比さんはドゥルーズの管理社会論を引いてきます。ドゥルーズさんは、社会が「監禁」して制限を加えるのではなく、管理のなかでの制限をするように変化してきたというのです。介護を例に紹介していますが、病院や介護施設で「監禁」された状態に比べたら、在宅介護は自由に好きなところに行き、好きなものを食べられる自由をもたらすであろう、と。しかし、病院や介護施設から退院、退所できるかもしれないが、在宅介護には終わりがありません。

 このように管理された自由のなかでは「評価指標」さえ与えてしまえば、あとは勝手に個々人が努力する。大学の評価なんて、まさにそうだと思いませんか。私は別に授業アンケートでいい評価なんて必要ないわけですよ。それによって給与が変わるわけでもないですし。でも、なんとなく、DとかCとかよりはAとかSの方がいいような気がして努力してしまいます。ふと立ち止まって、それってなんのためなの?誰のためなの?って考えてみる。
 そうだ、私はAとかBとかを目指しているわけではない。ここにいるみなさん一人ひとりが何かよくわからないこと言ってる先生だったけど、博物館の紹介は面白かったなぁとか、全般的に眠かったけど紹介してくれた本は読んでみようかしらとか、思ってくれたらそれがその人にとっての学びなのではないでしょうか。私の方はみなさんに同じものを渡しているつもりですけど、そこからみなさんの方で何を学ぶのかは人によって異なります。
 また、今は何となくぼんやりと意識の奥そこに眠っている話も、ある日突然、わかるようになる時がきます。みなさんもこれまで学校の授業でありませんでしたか。「あの時、あの先生が言いたかったことはこういうことなのか」と後になってわかるというやつです。教育の効果がすぐに出ないということもあるのです。
 もちろん「評価」は必要です。ああもっとこうすればよかったとか、このあたりは伝わらなかったかなと反省するために材料は必要です。でも「評価」に管理されては意味がないのです。「評価」のための授業ではないし、「評価」のための学習でもないのです。日比さんがいいこといっているので、そのことばで本講義をしめくくるとしましょう。

「学ぶ者」は、顧客ではないし、起業家でも経営者でもない。官僚ではないし、会社員でもない。開発者ではないし、軍人でもない。

 「学ぶ者」はデータではないし、サンプルではない。「学ぶ者」は、要素ではないし、点数ではないし、番号ではないし、端末ではない。「学ぶ者」「学ぶこと」「学ぶ場」は、ランキング化できない。

 学徒は、学び、考える者だ。

日比嘉高研究室の2015年3月20日のブログ

(註1)山崎ゆき子「ユネスコにおける生涯学習概念の再検討 ―フランスの教育改革を視野に入れて」

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