友達と親友の定義

中国映画「共謀家族」を観た。
自分の大切な愛娘が意図せずに殺人犯になってしまった悲劇から娘と妻を守ろうとする父親。
家族に安心を与えるために完璧な隠蔽を謀り、奔走する父親。
そして、父親の主導で普段の家族らしい楽しい家族を家族全員で演じる。

見ていてふと万引き家族を思い出した。
何をしているのかはっきりと自覚しているのにその罪悪感を隠して家族のためと決め込み罪を重ねる家族。
家族を守るためという狭義で何か重なるものを感じた。

そしてさらにその行為に,、とある言葉を思い出した。
もういつ聞いた言葉か思い出せない。
その言葉の内容も誰が言ったのかすらも定かではない。
20年くらい前?何で見たんだったかな?
でもそのオリジナルはイギリスかアメリカの作家だったような・・・。
”親友の定義”を挙げる言葉だった。

「友達とは、楽しい時間を過ごせる相手であるが、親友とは、死体の入ったトランクを一緒に墓場まで運ぶのを手伝ってくれる相手だ。」
というようなセリフ。

うーん、誰が言った言葉かなあ。
調べたら出てくるかも、と検索したところ
心理学者の河合隼雄氏著作の書籍からの引用しかなかった。
似ていたけどなんか違う。
河合氏のセリフは「友達の定義とは、午前0時に家に呼ばれて、車のトランクにある死体を見せられても黙って話を聞いてくれる人」

え、全然しっくりこない。
私は当時あのセリフを知った時すごく肚落ちしたのだ。
なんて名言なのだと。
”死体”と”トランク”というキーワードが同じではあるが、
全然ニュアンスが違う。
友達って誰のことも友達と定義づけられると思うのだが、親友ってどういう人だろうと当時考えていた時に、昔聞いたあの言葉が親友の定義としてすごく納得できた。
友達と親友の違いというやつ。
河合氏のを見て、そんな友達おらんわって心の中で壮絶に突っ込んだ。

でも河合氏は京大卒だし、オリジナルが海外のものであれば翻訳に間違うはずがない。
私の方が間違っているのかも。
いや、私も日本語で見た。
解釈が異なっていた可能性はある。
しかし絶対に自分が昔聞いたセリフの方が説得力ある。(自分には。)
だからそれをもとに話すことにするが、(めっちゃ長い前置き汗)

当時は私はそれが親友なのだと思った。
長年私の中で友達と親友の定義はそれに基づいていた。
だからそうそう親友という位置づけをする人はいないし、
やたらに仲がいいだけで親友として扱うつもりはなかった。
仲がいい、大好き。でも限りなく大好きな友達。そこを超えることはなかった。
人生でもし出会える奇跡があれば私は幸運だ。
そう思っていた。

でも「共謀家族」を見て二十何年ごしに考えが変わった。
あの定義を満たす人間とは、親友ではない、「家族」だ。
家族にしか死体の入ったトランクを一緒に墓場まで運ぶなんて所業できるはずがない。
もうそこまでできる親友は家族同然だ。
他人だけど親子や兄弟のように心から腹を割って信頼できる相手。
それは家族。
夫婦だって他人だけど家族。
結婚を決めるとき、「この人と家族になりたい」と思うのは誰でもある。
夫婦は運命共同体。
人生の試練を一緒に乗り越えるパートナー。

共謀家族や万引き家族で見る「家族」という意識。

そうだな。
家族を守るという意識は、
そうやって守り通すことができれば、
家族をまだ持っていなくて独り身だった自分が、誰からも(親から)守ってもらえずいつも何かの犠牲であることを強いられていた自分の気持ちを癒してくれるのだろう。
インナーチャイルドへの癒しだ。

癒しの次は、自分が何者であるか晴れてアイデンティティの覚醒を迎え、
一緒に冒険の旅に出る仲間を見つけ大海原に旅立つことができれば、きっと、いい人生だったという気持ちで死ねるだろう。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?