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ベルーナドームは何故そこにあるのか―中編・ドーム計画と西武ドーム誕生まで

前編では西武ライオンズ球場ができるまでを追ってきたが、中編では西武ドームが如何にして誕生したかをまとめていく。

西武球場ドーム化話のさきがけ

狭山丘陵の中にあり三方を狭山湖と多摩湖という2つの貯水池に囲まれている西武ライオンズ球場。貯水池があるということは雨が多く降る地域。そのため西武ライオンズ球場は当初から屋根で覆うことができるように、球場設計を担当した池原義郎は設計している。前編でも触れたように屋根をかけられるようにした方がいいと堤と池原に進言したのも、後にプリンスホテル助監督となる球場建設アドバイザー石山だった[1]。
開場から西武ドームになるまでの間、堤オーナーが屋根の敷設に言及した場面が2度報じられている。1度目は1985年の開幕直後。4月8日の試合で堤オーナーは「一刻も早く屋根を付けたい」[2]と発言。ちなみにこの試合はオリエントエクスプレス・郭泰源が来日初登板初先発で完封勝利を飾った試合だった。日本初のドーム球場である東京ドームは同年5月起工で、3年後の1988年3月にオープン。この時点で実現していたら東京ドームに次ぐ形となっていた。

堤オーナーが2度目に言及したのは1989年のオフ。10月19日に行われたシーズン報告の場での取材で答えている。堤オーナーは「ドーム球場はいいと思うが、冷房をかけた中で試合をするのはあまりよくない。屋根を架けるなら開閉式がいい。設計しているのは事実」とした上で、建設費が採算のとれる見積もりより「百億円ほど上回る」のが大きな障壁、技術的な努力で建設費用の問題が解決すれば「すぐにでも着工したい」と述べた[3]。この時点で開閉式ドームとしては同年の6月にカナダ・トロントでスカイドーム(現ロジャーズドーム)が開場、国内ではダイエーが現在のPayPayドームとなる開閉式ドーム構想を前年に表明しておりこれに続く形になった。加えて「埼玉県内の都市計画の中で提案があればそこも考える」[4]と発言しており、西武球場以外でのドーム建設の可能性も示唆していた。

ちなみにこの年のオーナーへのシーズン報告は、堤オーナーが5連覇を逃した森監督への「やりたければどうぞ」と発言したとされた場である。当時の報道を見ると、

読売新聞
題に「やりたければどうぞ」
「監督がやりたいのであれば、どうぞ。また頑張ってください」

朝日新聞
「勝負の世界は勝つこともあれば負けることもある。監督がやりたいのであればおやりなさい」

毎日新聞
「勝負の世界は勝つこともあれば負けることもある。監督も選手も一生懸命やって負けたということは、相手が強かったということ。監督に来年もやりたいとの強い意欲があるし、来年勝てば、去年以上に喜びは大きいと思う」

以上のように発言したとされており、若干の差異がある。加えてどの記事でもシーズン中に11ゲーム差が開いたことについては、厳しい指摘をしたとされている。なおこの年のV逸の原因は中ほどに11ゲーム差を離されたことに加えて、最終盤の首位争いで10月12日の近鉄とのダブルヘッダーでのブライアントの4打席連発もある。10月12日のダブルヘッダーは10月11日が雨で中止になったことから急遽組まれたものであり、もし屋根があればダブルヘッダーにならず4打席連発は幻だったかもしれない。ドーム化を具体的に示したのは、このことが念頭にあった可能性もある。
余談だがこの日のスポーツ面は日本シリーズを翌日に控えた近鉄と巨人、そして西武森監督の留任に加えて、ダイエー田淵監督とヤクルト野村監督の就任会見の記事が飾った。西武ライオンズ1期生でもある2人の監督就任と森監督の留任・ドーム構想の公表が重なったの何かの因縁だろうか。

なおこの他に1988年に「西武球場もドーム化を検討している」と言及している報道[5]もあった。

もう一つあった埼玉県のドーム計画

さてこの時期、埼玉にはもう一つドーム計画が存在した。その建設予定地は大宮操車場の跡地。
大宮操車場は大宮駅に近接するヤード式の貨物駅として利用されていた。しかし国鉄の貨物輸送量減少から1984年2月1日のダイヤ改正で国鉄におけるヤード式輸送が全廃し、利用されていた操車場も操車場機能は廃止とされた。大宮操車場も操車場としての役割を失い、広大な土地が活用されないこととなった。なお現在でも大宮操車場という名前自体は残っているが、これは東北貨物線、高崎線、武蔵野線貨物支線の運行上の分岐点として役割であり貨物の取り扱いは無い。待機線が多くあることから貨物列車や回送列車がよく停車している。
大宮操車場の跡地を活用して埼玉県は、野球を含む多目的スタジアムである埼玉コロシアムと展示場の埼玉メッセの建設を計画した。しかし大宮操車場の廃止計画が出た1982年から構想は出たものの、採算性や運営方法などの問題から何度も調査と見送りを繰り返した。その中で1986年には「プロ野球球団誘致へ 建設計画進む「埼玉コロシアム」」という記事が埼玉新聞で出た(1986年6月28日2面)。所沢にパリーグの西武ライオンズが本拠地として構えていることから、「セリーグにPR」という文言もあった。ヤクルトないし大洋を念頭に置いてるのだろうか。また1990年の基本計画委員会の計画では、埼玉コロシアムのスペックとして「コロシアムのスタンドは観客席数約三万五千席、アリーナはプロ野球、国際水準のサッカー、アメリカンフットボールなどの開催ができるよう約一万三千平方メートルの規模とする。屋根は、自然条件や多様化するイベントなどに対応する開閉式ドームが望まれるとしている」[6]とされた。野球とサッカーなどが開催できる開閉式ドームという現在のPayPayドームと札幌ドームの複合のようなものだ。
大宮操車場が埼玉県に払い下げられ1991年より一帯のさいたま新都心が着工するが、その後もさいたまコロシアムとメッセの計画も再び進展せずにいた。1992年の段階では「西武ライオンズとの間で二十試合程度の開催が約束されていた」という報道[7]もあり、西武ライオンズが利用する計画もあった。しかし1993年には「マルチイベント集客施設」という計画になり野球の文字が消され、1994年にさいたまアリーナ(仮称)に変わった。そして1997年1月に着工、さいたまスーパーアリーナとして2000年9月にオープンした。

壁や座席などが移動することで、最大37000人収容のスタジアムモードと最大22000人収容のアリーナモードに切り替えられるさいたまスーパーアリーナ。現在でも多くのアーティストがライブを開催している。もし計画通りであれば"アリーナライブ"ではなく"ドームライブ"になっていたかもしれない。

ドーム計画本格始動―移転か改築か

1995年3月16日、西武園ゆうえんちにて行われた新遊具UFOのお披露目の場にて堤オーナーが埼玉県内にドーム球場を建設するプランを明かした。西武ライオンズの東尾新監督やコーチ、1軍選手らが参加したオープニングセレモニーがこの日行われていた。堤義明オーナーは「具体的な案はまだないが、埼玉県内で二、三の候補地を検討している」[8]と発言。加えて「今の(西武)球場は屋根がない方がいいが、ドーム球場に関しては真剣に考えている」、「地方自治体などとともにやっていくこともできるのではないか」と官民共同による第3セクター方式のドーム球場の建設構想[9]も語っており、この時点では西武ライオンズ球場から移転して埼玉県内の別の場所で建設しようとしていたようだ。
その後この年のオフには移転先候補として「西武所沢駅前の操車場」「大宮」そして「臨海副都心」という3つが明らかに[10]。ソースをそのまま引用したが、「西武所沢駅前の操車場」とはおそらく所沢車輌工場のことだろう。前者2つは以前から計画され、「東京都から誘致があればとの条件付きで」臨海副都心もこのタイミングで計画に加わった。
臨海副都心案が後年言われているお台場ドーム案のことだ。「東京都から誘致があれば」とあるように、東京都の整備計画が示され誘致があれば実現していたかもしれない。堤オーナーは観客動員が減少した理由に「都心から時間がかかる」[10]を上げており、沿線人口・西武線の利用者数が増加しているとはいえ狭山丘陵では厳しさを感じていたようだ。しかしながら東京都側出方に加えて、プロ野球の地域保護権という障壁も存在する。この当時、東京都を地域保護権にする球団はセリーグの巨人とヤクルトに加えてパリーグの日本ハムもあった。そのためこれら球団の許諾が無ければ、東京都内では活動できない。仮に同じ西武グループであることから土地取得自体のハードルは低いとしまえんに球場を建てたとしても、同様の問題がつきまとう。
大宮については後の報道で大宮操車場であったとされている。前述の通り1995年時点では、現在のさいたまスーパーアリーナは着工していないがコンペは進行している。また現在さいたま新都心駅より南側にある官公庁についてもこの時点で移転も決定はしていたため用地はあまり存在せず、さいたまスーパーアリーナに乗っかろうとしていたのか大宮操車場跡内の他の場所に建てようとしていたのかは不明である。
所沢車輌工場については1974年に西武が所沢にプロ野球場を建てる構想が最初に明らかになった時点から、建設地候補に入っていたのは前編でも紹介した。しかし前編で触れた通り周辺の用地買収や駐車場、交通公害などの問題で断念しており、更にこの時点では西武所沢S.C.などが建設された所沢駅西口の整備が完了済で、所沢車輌工場は稼働中ではあったものの敷地面積は1974年時点より更に縮小していた。
その後、翌1996年3月には「年内が結論を出すタイムリミット」とした上で、「今の西武球場に屋根をかける案が有力」と堤オーナーは語った[11]。臨海副都心については「都側から区分けの具体案が出ていないから、話を持っていきようがない」[12]と消極的。加えて「雨の多い日本では屋外で野球をするのは無理」[12]とドーム化前提で話している。同年7月にはドーム化の際に天然芝に張り替えた上で屋根を開閉式にする案も報じられた。堤オーナーは「選手寿命を考えれば、天然芝は理想。費用の問題もあるが前向きに検討している」[13]と話した。実現していればエスコンフィールドのような構造が20世紀のうちにできていただろう。
同年10月1日に西武ライオンズ球場のドーム化が正式発表された。7社による設計コンペから採用された計画が用いられ、観客席を鋼製の屋根で覆い、グラウンド部分にはテフロンの天幕をかける。屋根の下端は柱状の開口部として自然の通風を利用し、スタンドは基本的に現状通りで、改装は芝の張り替えなど小規模なものにとどめるとされた[14]。ただしグラウンドの両翼が95mから100m、中堅は120mから122mにそれぞれ拡張された。また開閉式ドームで無いためグラウンドは天然芝ではなく人工芝のままだった一方、外野スタンドの天然芝は人工芝に張り替えられた。

西武ドーム誕生

西武ライオンズ球場のドーム化は1997年7月7日に着工した。この年のオフに第1期工事が行われ、1998年シーズンには西武ライオンズ球場は名前を西武ドームに改め再スタートを切った。98年シーズンは観客席のみに屋根が付きグラウンド部はまだ屋根に覆われていなかったため、10月21日に予定されていた横浜との日本シリーズ第3戦などをはじめシーズン中もドームながら雨天中止が発生した。この年のオフには第2期工事でグラウンドにも屋根がかけられ、西武ドームが完成した。

西武ドームのグラウンドに屋根がかかる様子
(2023年8月2日「ライオンズと所沢の空」展にてL-Train101内に展示されていたのを撮影)

1999年3月19日には西武ドーム完成記念の紅白戦を開催[15]、翌3月20日にはこけら落としの記念試合となる、巨人との交流試合であるサントリーカップが開催された[16]。なお両試合にはこの年のスーパールーキー松坂大輔も登板し、19日は平日の昼間にもかかわらず3万8000人(入場無料)[15]、20日は4万3000人[16]が来場した。
そして4月3日のダイエーとの開幕戦で、ドーム完成後公式戦初勝利を飾った。開幕投手は西口文也だった。
なお西武ドーム完成に合わせて、メジャーリーグの公式戦を開催する計画があった[17]。1998年の7月には翌1999年3月20,21日にドーム完成のオープニングとして業務提携しているデビルレイズとオープン戦を開催すると発表された[18]が、翌月には中止を発表[19]。しかし完成翌年の2000年、3月29,30日に東京ドームで行われたメッツvsカブスの開幕戦に合わせて、3月27日に西武vsメッツ、3月28日に西武vsカブスとの一戦が西武ドームで開催されている。また2000年11月11日には日米野球第7戦も開催された。

ドームの完成によりグラウンドも完全に屋根に覆われたことで雨天による中止は発生しなくなった。そのため試合途中でノーゲームになることも無くなったため、狭山線もノーゲームにより観客が一時的に集中することも無くなった。そのため2001年12月のダイヤ改正より、試合終了時間に合わせたダイヤパターンでの輸送から上下の臨時列車を頻繁に走らせる方式に変更された。なお西武球場前駅の名称はドーム化されても変更されなかった。

ちなみにこの自然の送風を利用したドーム化という考え方は西武ドームが最初では無かったようだ。川崎球場のドーム化する計画の中で通風ドーム式の多目的スタジアムという考えがあったようだ[20]。川崎球場はその後も何度かドーム化が検討されていた。
またドーム化着工の際の記事で工事を手掛けた鹿島は「今後、西武球場の実績・経験を基に、既存の野球場やサッカー場のドーム化を提案する」と報じられた[21]。だが、これに続く野球場は無かった。楽天球団が誕生した2004年11月に宮城球場に屋根をつける計画もあった[22]が、結果は設置されていない。サッカー場としてはノエビアスタジアム神戸が開場後に屋根が敷設されたが、これは鹿島の担当では無かったようだ。この後建てられた広島市民球場(Mazda Zoom-Zoom スタジアム広島)に屋根が付かなかったように、1990年代では珍しさからドーム志向が強かったが、建設費や維持管理の問題から以降は屋外球場への回帰が進んだようにも思える。

最後に余談だが西武所沢車輌工場について。前編で1974年時点で移転先が決まったとあったが1996年時点でも稼働していたのに触れた通り、(検修場施設としての)移転は1974年の移転先決定と報じられてからかなり先となった。1973年から西武建設から西武鉄道へ所属替を行い、名実ともに製造も検査も行う自社の車両工場になったが、所沢駅西口再開発事業により1981年より工場敷地の一部が削減。これ以降車両新造のペースも低下し、1999年に車両新造は終了、翌2000年には検査業務は武蔵丘車両検修場に移転する形で終了し西武所沢工場は閉鎖さた。移転先決定と出てから実に36年も操業していたことになる。跡地は土壌汚染の関係から長らく手つかずだったが2022年10月に所沢駅西口開発計画が発表され、今秋2024年10月にシネコンも入る大型商業施設が開業する予定である。この際発表された敷地面積が約3.4万㎡であるため、球場を建設するには厳しいスペースだっただろう。

建設が進む商業施設

さて西武ドーム化着工の前後にて堤オーナーが注目の発言をしたが、ここからは後編でまとめる。



<注釈>

[1]佐野,2022,32
[2]「西武球場に屋根を 堤オーナーが注目の発言」埼玉新聞1985年4月9日11面
[3]「西武球場開閉式屋根付きに 堤オーナーが建設構想」埼玉新聞1985年10月20日11面
[4]「森監督は留任 西武」毎日新聞1985年10月20日東京朝刊27面
[5]「建設各社、今度は開閉式ドーム――技術導入や独自開発」日本経済新聞1988年11月18日朝刊9面
[6]「コロシアム 開閉式ドーム、35,000人収容 メッセ 展示場面積は約1万平方メートル 基本計画委が報告書 「さいたま新都心」 「埼玉コロシアム・メッセ」」埼玉新聞1990年3月17日1面
[7]「アリーナ 集客が難題(彩の楼閣 検証・中核施設問題:3) /埼玉」朝日新聞1993年2月13日朝刊埼玉面
[8]「西武、県内にドーム球場」埼玉新聞1995年3月16日13面
[9]「【ロッカールーム】堤オーナー「埼玉にドーム球場建設」」産経新聞1995年3月16日東京朝刊運動2
[10]「新ドーム球場、臨海副都心も候補 西武・堤オーナー 既に具体的プラン検討中…」産経新聞1995年11月8日東京朝刊運動1
[11]「プロ野球 現西武球場のドーム化、有力--堤オーナー」毎日新聞1996年3月24日東京朝刊25面
[12]「西武球場ドームに改造 堤オーナー計画明かす」産経新聞1996年3月24日東京朝刊運動1
[13]「西武球場変身プラン 天然芝の開閉ドームに 来年も東尾体制で戦う」読売新聞1996年7月27日東京朝刊18面
[14]「西武球場ドーム化、現状生かしつつ改装――グラウンドの上は天幕。」日本経済新聞1996年10月2日37面
[15]「西武ドーム完成記念紅白戦 松坂 名実ともに西武のカオ 観客クギづけ1球のトリ」読売新聞1999年3月20日東京朝刊運動1
[16]「西武ドームお披露目、雨でも松坂見られるよ」読売新聞1999年3月21日t東京朝刊21面
[17]「大リーグ公式戦招致の意向表明 西武・堤オーナー」産経新聞1998年4月5日東京朝刊運動2
[18]「【球団短信】11日 日本ハム/西武」産経新聞1998年7月12日東京朝刊運動1
[19]「プロ野球 西武ドーム完成記念 デビルレイズ戦中止」産経新聞1998年8月11日東京朝刊運動2
[20]「屋根つき川崎球場、“ホーム”は遠く――財源など障害多いが(首都圏レポート)」日本経済新聞1983年2月25日地方経済面首都圏B5面
[21]「西武球場、ドーム化工事に着手――鹿島、シーズンオフを利用」日経産業新聞1997年7月8日27面
[22]「田尾楽天、風起こすか――ドーム化か球場新設か、地元、本拠地構想に注目」日本経済新聞2004年11月3日朝刊37面

<参考・引用文献>

『ライオンズ70年史 黄金獅子の軌跡。』ベースボール・マガジン社,2020年7月

佐野慎輔『プロ野球経営ドラマシリーズ 西武ライオンズ創世記 1973年~1983年』ベースボール・マガジン社,2022年9月
中川右介『プロ野球「経営」全史 球団オーナー55社の興亡』日本実業出版社,2021年10月
西尾恵介『RM LIBRARY30 所沢車輌工場ものがたり(上)』ネコ・パブリッシング,2002年1月
西尾恵介『RM LIBRARY31 所沢車輌工場ものがたり(下)』ネコ・パブリッシング,2002年2月
『鉄道ピクトリアル 4月号臨時増刊』第52巻4号,鉄道図書刊行会,2002年4月

2023年9月17日(日) 1979~球場ストーリー西武ライオンズ球場の誕生 | 埼玉西武ライオンズ (seibulions.jp)
西武ホールディングス「西武ホールディングスヒストリー」SeibuHD_history_all.pdf (seibuholdings.co.jp)

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埼玉新聞
産経新聞
日経産業新聞
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