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ベルーナドームは何故そこにあるのか―前編・西武ライオンズ球場誕生まで

2024年3月16日、ライオンズファンにとって待望であった西武ライオンズ初のOB戦「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」が、ベルーナドームにて行われた。所沢に球団が移転してから45周年であった2023年シーズンに展開したLIONS CHRONICLEの締めくくりとして、歴代のライオンズ戦士が一同に介し数々の名勝負が実現した記念すべきことであった。
さて1978年の球団移転決定から昨年で45周年ということは、1979年開場の西武ライオンズ球場の開場からは今年で45周年だ。この間、ドーム化され、ネーミングライツも幾度と変わりながらも、1度も(埼玉)西武ライオンズの本拠地として変わること無く使われてきた。現在のパリーグ球団の本拠地の中では最も長い期間本拠地球場として使用され、球場開場からの歴史も楽天モバイルパーク宮城(宮城球場として1950年に開場/楽天の使用は2005年より)に次ぐ長さだ。現役選手、そして今回のOB戦で出場した選手をはじめ西武ライオンズ~埼玉西武ライオンズの全OB選手が(1軍やイースタンリーグ開催で本拠地出場経験があれば)全員この球場でプレーしたこととなる。

他球団ファンやライブで使用される度に、遠い、寒い、暑いといった言葉の数々を浴びせられるベルーナドーム。ではなぜベルーナドームはあの地に建てられ、ドームとなり、現在まで至ったのか。
ベルーナドームは何故そこにあるのかと題し、前編、中編、後編に分けてまとめていく。なお"ライオンズ"の歴史というより"西武野球"の歴史となる点にはご了承いただきたい。

前編の今回は西武ライオンズ球場が開場するまで、西武、所沢市、埼玉県、地域住民といった様々な関係者が絡みながら球場予定地が狭山丘陵に決定し、西武ライオンズ球場として開場するまでをまとめる。

西武所沢球場構想のはじまり

西武による所沢での最初のプロ野球場計画が最初に報じられたのは、1974年に遡る。
1974年11月21日埼玉新聞9面に「所沢にプロ野球場 堤西武社長が構想」という記事が報じられた。この記事によれば、西武所沢工場(5.8万㎡、ヘリコプター発着地を含めると6.6万㎡)を移転した上で、跡地にプロ野球を開催できる収容人数5万人の球場を建設するというもの。この年の7月に西武鉄道社長の堤義明がアイスホッケーで有名な西武交通グループに具体案の作成を命じ、この頃から噂されていたとのこと。またこの数年前にも構想があったが、米軍基地跡(現所沢航空記念公園やその周辺一帯)の使用用途が不明であったため娯楽施設の場合は競合する、また西武園や豊島園との競合から注視していた。今般基地跡地に娯楽施設が立たない、工場移転先が決まったことなどから今回構想が発表されたと記事には記されてる。
特筆すべきは「試合は青空の下で行うが、観客席は雨が降ってもゆったり見れるようにドーナツ型の屋根をつけ、座席などもゆったりしたイス式にして観覧できるようにする。」という記事内の1文。ドーナツ型の屋根ということからおそらくZOZOマリンスタジアムや1998年シーズン時の西武ドームのような観客席にのみに屋根を付ける構想だと考えられるが、今からちょうど50年前にあたる当時から屋根付き球場の建設が想定されていたということになる。
翌12月29日の読売新聞朝刊13面に「所沢にプロ専用球場 西武鉄道が計画 市長も大乗り気」という記事でほぼ同様の内容が報じられたが、これ以降この計画の進展に関する報道はされなかった。

西武・堤家と球界の関わり

ここで所沢の球場ではなく、西武及び当時トップにいた堤家と野球の関わりについての話に逸れる。
衆議院議長などを務めた初代西武鉄道社長の堤康二朗の時代には、上野の不忍池での球場建設のスポンサーや品川駅前での球場建設の計画を持っていた。しかし上野は地元の反対で断念し、品川は建設予定地であった東久邇宮邸は京急が買収したため、どちらも実現に至らず[1]。

その子である堤義明も前述の所沢球場構想をはじめ、以後も球界への接触していく。まず1975年にはSFジャイアンツの買収を計画も断念したことが明らかになる。9月13日読売新聞朝刊17面「SFジャイアンツの買収 話を受けた西武断念」という記事によると、SFジャイアンツを日本企業が買収する噂の買収先が西武鉄道であったと堤社長が認めた上で「一月前に話があって検討したが、現時点で五十億という外資の問題とアメリカの国民感情の点で好ましくないと判断し、十二日先方に正式の断りの電報を打った」とある。また「球団を買い取って経営する意思はなかったが、球団のほかホテルやゴルフ場などをふくめて五十億ということだったので、その可能性について調査した」とあり、球団より不動産に対しての興味であったとしている。なおこの仲介人を務めたのが、当時太平洋クラブ・ライオンズ(福岡野球)のオーナーであった中村長芳だった。

その後には当時飛鳥田一雄横浜市長の要請を受け、現在の横浜スタジアムの建設にも堤義明は関わる。1975年の夏に要請を受け、翌1976年に市議会に説明されて計画は公となった。新会社を設立し当時の平和球場の改修を新会社によって行い収容人数3万人の多目的球場に改造し、横浜スタジアムと命名しプロ野球を誘致するという計画。新会社の資本金は20億円で、20億円は横浜市民にからの出資。45年間のオーナーズシートを1席250万円の株として800席を売り出し、この資金確保した[2]。この際、西武側は3億円の融資をしたが、建設は西武建設が務めたため建設費の40億円を西武側は手にした[3]。一方で横浜市、及び平和球場改修と横浜移転を望んでいた大洋は1円も資金投入をせずに球場を手にすることになった。だが第三セクター方式で設立された球場管理会社である横浜スタジアムが球場内の飲食や広告収入を独占し、これが横浜DeNAベイスターズとなってから買収するまで続く大洋~横浜の経営を苦しめる一因であった。横浜スタジアムは1977年4月に工事が始まり、1978年3月31日に完成、大洋ホエールズの本拠地となった。完成当初の横浜スタジアムはマウンドが昇降し、内野スタンドが移動することで長方形のグラウンドとしても使用できた。

なおこの際、西武が大洋を買収するのではという報道に堤は「プロ野球経営には全く関心がない」と語った[4]。先のSFジャイアンツの時と同様、スタジアムの建築や不動産については興味を持つが、球団経営には関心を持っていなかったいように思える。しかし実態としては大洋球団の株の45%を西武が取得しており、大洋オーナーの中部兼吉の個人保有株10%を譲渡する約束もあった[5]。中部保有株を譲り受けた場合、西武は55%の株を保有することになったため、実現していれば西武ホエールズが誕生していたのかもしれない。しかし実際にはこの約束は果たされることはなく、西武は福岡野球買収のタイミングで大洋株を全て手放すことになる。
また球団横浜スタジアムの設立発起人には堤、中部らに加え、中村長芳の名もあり、翌1977年2月に発足した株式会社横浜スタジアムの取締役には堤と中村も就いている[6]。
ちなみに西武が横浜スタジアムに関わったことから、(武蔵野鉄道を源流とする現存する)西武鉄道が初めてプロ野球と関わりを持った地は所沢ではなく横浜だという考え方もある(回りくどい書き方をしたが、これは傍流企業とされている現在の西武新宿線などを経営していた(旧)西武鉄道が、東京セネタースを経営していたため)。これが関係しているか定かではないが、西武グループの新横浜プリンスペペが横浜DeNAベイスターズのスポンサーとして冠試合を2023年にも行っている。

新横浜プリンスペペDAYの模様
ちなみにこの日の試合(2023/6/15DB-F)はノーゲームとなったが、振替試合も冠試合で開催された

県主導の所沢プロ野球場計画

視点を所沢に戻す。次に所沢で動きがあったのは、1977年の5月。「所沢にプロ野球球場を 県民投資で建設 畑知事提案」という記事が5月3日の埼玉新聞の1面を飾った。前日の会見で当時の畑知事が「所沢基地跡に県民出資のプロ野球場を作りたい」と明かしたのである。以下に記事の要約を載せる。

・キッカケは所沢市内に住む大学生からの手紙
 →・野球を見るために都内まで出かけるのが大変、高校野球や職業野球ができる球場が市内に無い
 ・立川の基地跡にプロ野球のできる球場をつくる計画が持ち上がっているが所沢基地もつくってもらえないか
・県は横浜球場方式に目をつけた→県西の企業やファンに出資してスタジアム会社を設立し県に寄付
・球場管理はスタジアム会社、プロ誘致、それ以外の日はアマチュア優先で使用
・人工芝ならサッカーやアメリカンフットボールも
・西武鉄道に県が非公式に打診し乗り気
・西武:数年前に西武線所沢駅前の車両工場跡地にプロ野球場を建築する構想を打ち上げた、横浜の球場建設にも参画、輸送面でのメリットが大きく全面バックアップを予想
・平塚所沢市長も乗り気
・場所は所沢基地跡内:国から無償貸与、工事中(1.5ha)
→野球場用地を元々確保(1.5万㎡)

「所沢にプロ野球球場を 県民投資で建設 畑知事提案」
埼玉新聞1977年5月3日1面

前述の通り所沢基地とは現在の所沢航空記念公園や所沢市役所、所沢市民文化センターミューズなど航空公園駅周辺一帯のことである。日本初の飛行場として開設され、所沢陸軍飛行場・飛行学校を経て戦後米軍に接収、1971年より返還されていた。1972年には所沢基地跡地利用基本計画が策定され、この中に約50haの県営公園の建設が予定されていた。1974年の西武所沢工場跡地球場化案は、おそらくこの計画を受けてのものだったと推察する。埼玉県は県営公園内にプロ野球にも対応できる多目的スタジアムを、ハマスタ同様の方式で建設する計画を打ち上げたのである。所沢で球場を建設する構想を持ち、ハマスタの建設にも関わっていた西武鉄道であれば参画するであろうと県も考えていた。
なおこの記事内で指摘されている「立川の基地跡にプロ野球のできる球場」については当時の詳細な計画などは発見できなかったが、後年の複数の記事において現在の昭和記念公園など一帯の立川飛行場跡地の活用計画において野球場建設が含まれていたことが確認できる。

この記事が出た3か月後には所沢商工会議所が球場建設についてアンケートを実施[7]。県知事の観測気球に対し、市民からの具体的な手ごたえさっぱりだったため、白紙の立場から改めて基地跡地へのプロ野球場建設に賛成か反対かを地域住民に問った。翌9月10日に報じられた結果では、賛成が59%であった。

この後西武ライオンズ球場が建設されたため結果として県営公園内にはプロ野球場は建設されなかったが、野球場用地を確保していたこともあり、所沢航空記念公園内には所沢航空記念公園野球場が開設された。4000人収容でNPB1軍公式戦こそ開催されていないが、BCリーグ埼玉武蔵ヒートベアーズの主催試合や高校野球などで利用されている。今年も6月22日に福島との一戦が行われる予定だ。

西武所沢球場計画始動と地域住民の反対

1978年1月17日、西武鉄道は所沢市開発事前協議会にて西武園内にプロ野球に対応する野球場を整備することが発表された。以下に当時の埼玉新聞の要約を載せる。

・総工費30億円
・熊谷市民球場の観客収容数24500人をしのぎ県下一の球場
・西武鉄道はかねてから本県をフランチャイズにしたプロ球団を誘致する目的で、球場づくりを計画
・当初、西武所沢駅前の操車場跡を選んで検討
 →周辺用地買収や駐車場、交通公害などの問題から、最終的に西武園内にある西武園第一球場を改築する形に
・ゴルフや児童遊戯施設、競輪場などの昼のレジャーだけでなく、ナイター観戦にも営業を結びつけようとねらっている
・西武園第一球場:狭山湖駅のすぐ東側、約5.6万㎡、中堅120m、両翼93m、7000人収容、観客席は三塁側のみ、イースタンや実業団・少年野球大会で使用
・敷地はそのままとするが、さらに深く掘り下げてドジャースタジアムのようなすり鉢状に
・中堅120m、両翼95m、ネット裏1300、内野2.1万、外野含め計3万
・オールスターゲームや日本シリーズもできる野球専用スタジアムとして自然芝を植え、ナイター設備も
・狭山スキー場を挟んだ西武園第二球場もプロ野球の練習用グラウンドに
・駐車場は700台→全て電車輸送
・狭山湖駅を西所沢駅寄りに200m移動、ホーム拡張、1時間に10両編成を10本投入
・県の認可が下り次第、早速改築工事
・79年3月オープン、地方開催の公式戦を誘致、アマにも開放
・「畑知事構想」は自然消滅する可能性が濃くなった
・平塚所沢市長も「基本的に賛成。幸い立地条件も良いので、あとは交通公害などきちんとしてもらいたい。」

「所沢にプロ野球の球場 西武鉄道が建設へ 所沢市に計画概要を説明」
埼玉新聞1978年1月18日1面

まず先に出た所沢駅前案について。操車場と記載があるが、おそらく西武所沢車輌工場のことだろう。周辺用地の買収や駐車場等の問題から断念している。この当時所沢駅西口は再開発計画が進行していたおり、この記事の出た3年後の1981年より西武所沢車輌工場の敷地も再開発に伴い削減されている。そのため社有地のみで球場+駐車場の用地確保は難しかったと考えられる。
一方で西武園。1963年に西武園球場がオープンしており、既にある球場の改築で済むため球場用地は問題ない。加えて練習用のグラウンドも設置できるなど、周辺用地も十分にあった。しかし電車での輸送を大半とし、駐車場については700台のみしか設置できないとされた。鉄道会社が建設することから鉄道利用を促すのも自然だろう。ただし700台でも平置きなら、サッカーコートより一回り大きいくらいの約9000㎡ほど必要。選手やマスコミ、関係者用の駐車場を鑑みると駐車場は必要なため、西武所沢車輌工場ではこうした関係者用のスペースも取れなかったと推察できる。

建設予定地については早稲田大学野球部監督で、後にプリンスホテル硬式野球部助監督を務めた石山健一と堤との間での会話でも理由が上がっている。

「後楽園のような球場を造るとすれば、どこがいいと思うか」
「豊島園はどうなんですか?」
「いや、あそこは園内に東京都管轄の川が流れていて壊せないんだ」
「じゃあ、所沢の車両工場の跡はどうなんですか?」
「駐車場のスペースが取れない」

佐野慎輔『プロ野球経営ドラマシリーズ 西武ライオンズ創世記 1973年~1983年』
ベースボール・マガジン社,2022年9月,24-25

加えて石山は1977年の春に堤に呼び出され、狭山丘陵まで出向いて堤から球場建設宣言を聞いたともされている。1977年4月には西武建設へ埼玉県から狭山丘陵の開発許可が2年越しに下りており、埼玉県による所沢基地跡計画が発表された前後には、堤は西武園での球場建設を決断していたと考えられる。
球場設計は早稲田大学の池原義郎が務め、石山は球場建設アドバイザーとなった。第2グラウンド、室内練習場、合宿所といった設備、そして球場に屋根を付けられるようにしたのも石山の提案とされている[8]。

球場建設に際して駅も移動される計画だ。当時の西武狭山線の終点であった狭山湖駅は狭山スキー場のほぼ目の前である、現在のプロスピトレーニングセンターの辺りに位置する1面1線の小さな駅だった。これを西所沢方に移設の上、3面6線で全線10両編成対応できる駅になった。なお狭山湖駅の改築は1978年11月に完成、球場開場直前の1979年3月に西武球場前駅へ改称された。この改称も石山の提案だった[9]。

西武球場前駅1番線の延長線上に狭山湖駅のあった辺りに建設されたプロスピトレーニングセンターが位置している

協議会にて西武の球場建設が発表された後、1月19日には県の土地利用行政推進会議が開かれ、「交通問題に解決策があれば計画を了承する」とされた[10]。県からも概ね了承が出て計画はスムーズに進むかと思われた。
しかし同27日、狭山丘陵の自然を守る会が「違法な開発行為であるうえ、付近住民の生活環境を著しく阻害する」として、畑埼玉県知事と平塚所沢市長に対し、球場建設反対申し入れを行った。建設予定地は、県立狭山公園内、狭山近郊緑地保全区域、市街地化調整区域に指定され、開発行為を抑制する地域指定が三重になされている。そのため大規模なプロ野球場を建設して多数の人を集めるような区域ではなく、違法な開発行為であると指摘した[11]。4月には東村山市の自然保護団体北山の自然を守る会も、所沢市に結論を得るまで工事認可を与えないよう要請した[12]。

5月29日、埼玉県は3月24日に西武側から提出された西武野球場の改築計画に伴う開発申請を5月26日に許可したと明らかにした。開発区域は野球場2面を中心に176,270㎡。県土地利用行政推進会議は「現在の野球場を拡張するだけなので法的には問題ない」とした上で、緑地保護と交通対策の2点を条件に開発許可を出した。なお西武側は交通対策を「ピーク時には電車を増発、現在の20分間隔を2,3分間隔にするほか、東京からの直通バスも併用する」と県に説明[13]。
これに対して30日、自然保護を求める狭山丘陵の自然を守る会・北山の自然を守る会・東村山の自然を愛し守る会の3団体が県に抗議。29日に会う予定だったものを、26日に認可された形となっていた。加えて交通対策について鉄道利用でマイカーをシャットアウトすると西武側に確約させたが、自動車公害を心配する自然団体側は「私営駐車場を使う客はシャットアウトできず、シリ抜けになるのは目に見えている」とも指摘[14]。
一方で入間市の住民81人、所沢市の住民95人が連名で「建設を促進してほしい」と所沢市当局に陳情、武蔵村山市長も早期実現を埼玉県に陳情するなど、早期建設派も存在している。

球場は6月1日に着工。7月3日には堤は球場建設の会見を行った。以下に会見を報じた埼玉新聞の要約をまとめる。

・「新球場はドジャースタジアムを参考にした掘り込み型で収容人数は3万人。一部会員制のオーナー席を設け、西武沿線200万人のための球場とし、年間60試合のプロ野球を開催したい」「どれだけゲームを集められるか確定はしていない」
・「現時点で球団を持つ考えはないが、将来新球団を作ってセリーグに加盟を申し込む可能性はある」
・ハマスタのように多目的でなく
 ①観客席はすべて投手のマウンドの方向に向ける
 ②グラウンドは天然芝
 ③フェンスはグリーン1色で広告は入れない
 ④オーナー席は360席(1席4人かけ)で年間予約席は売らない
・オーナー席は1席1000万円→全部さばけば36億円になり工費を賄える
・正式名称:西武所沢球場
・既存球団に対し埼玉県に本拠地を置くよう働きかけるかの問いに「巨人以外なら不必要。いろいろな試合を見てもらいたい」
・「既存の球団を買収する計画はない。将来新球団を作ってセリーグに加盟を申し込む可能性はあるが、その場合、ドラフト制度の撤廃が条件である」

「「年間60試合のプロ野球開催」 西武所沢球場の概要発表 三万人を収容 来年三月完成予定」埼玉新聞1978年7月4日9面

この時点でも西武が球団を持つ意思は無いと堤は語り、西武所沢球場はあくまでも貸し球場でプロ野球は誘致するとされた。当時は巨人の人気が一強。そのため、球団を持つならセリーグで無ければ意味が無いと考えたようだ。他方、当時は埼玉県に地域保護権に置く球団は無く、試合開催の支障は少ない。関西球団同士の一戦が見れるかもしれないとも報じられた[15]。なお当時は前年のAクラスチームが翌年の開幕権を持っていたようにシーズンオフに日程が確定していたため、現在よりも日程作成の猶予があったため7月時点でも試合数が確定していなくても大丈夫であったのだろう。

7月26日には東村山市、東大和市、武蔵村山市、都水道局、川越土木事務所、所沢署、東村山署、立川署など関係者50人を集めた建設に関わる交通問題説明会が26日所沢市役所で行われた。セ・パ両リーグ合わせて年間55試合ほど実施する、入場券と電車きっぷをセットで売ることも考えている、西所沢、下山口、狭山湖のホームを延長、ゲーム開始、終了のラッシュ時には2,3分間隔で電車を発車させると西武から説明があった[16]。

9月19日には球場建設が半分進み、年間60試合が開催できるよう準備が進んでいると堤は明らかにした。そして「独自のプロ球団は持たない」と再度強調された[17]。また同日プリンスホテルが社会人野球に参入することも発表された。アマ開放の社会人野球に当たる部分であり、五輪での野球追加を見越したものだ。

福岡野球買収と所沢移転

1978年10月12日、クラウンライター・ライオンズを経営する福岡野球のオーナー中村長芳は、オーナー会議にて経営権の譲渡と本拠地の移転を発言。直ちにプロ野球実行委員会が開かれ緊急提案、オーナー会議でも全会一致された。そして同日福岡野球と西武鉄道グループの国土計画はクラウンライター・ライオンズの経営権を譲渡合意と本拠地の埼玉・所沢への移転、そして球団名を「西武ライオンズ」にすると発表。急転直下で西武が球団を持つことになった。
なお保有する大洋株についてはしかるべき時期にすべて手放す、9月に発表されたプリンスホテルとは両立させると堤新オーナーは発言[18]。またライオンズが去ることになった福岡でも20試合開催するとされた[19]。

西武の買収と移転にあたっては、①クラウンの持つ江川卓との交渉権②西武の保有する大洋株の処遇③保護地域の変更手続きの3点が課題となったがここでは割愛する。
ここで問題するのはいつどのように西武側が福岡野球を買収するようにことを決断したかである。「数日前、金子鋭コミッショナーと鈴木セ、工藤パ両リーグ会長が来て、球団経営を引き受けて欲しい、ということだった(中略)九州から所沢へ円満に移転できること、十一球団のオーナー全員が歓迎し てくれる、という条件を満たしてくれたので、国土計画が買った」[18]と堤オーナーは発言したが、流石に早急すぎる。但し10月9日にこの4名で会談が持たれたようだ[20]。
当時福岡野球の球団代表で後に西武ライオンズの球団代表も務めた坂井保之の証言では、8月中旬には中村オーナーは西武との交渉を進めていたとされている[21]。9月頭には正式合意し、10月まで内容の詰めの交渉が続いた。そのためプリンスホテル野球部を発表した9月18日には、既に西武球団の誕生は決まっていたと考えられる。
また中村長芳→岸信介→福田赳夫→堤義明という当時の首相を介したルートで球団買収を打診したという話もある[22]。中村は岸の内閣総理大臣秘書官を務め、福田は岸の後継者で堤の媒酌人を務めた間柄であった。1978年の初夏には中村は球団売却を目的に堤と国土計画で会ったとされており[23]、7月の概要発表前後の時点で既に自前球団を持つ考えを持っていた可能性もある。

ちなみに福岡から所沢への移転に際して逸話がある。坂井球団代表が選手への本拠地移転発表後に選手を前にした際、選手からは九州の球団と契約したとして埼玉への移転を拒絶された。しかし「野球をやるんやったらどこでもいい。所沢でも平和台でも一緒やんか。だから、わしは行くで」と土井正博が語ったことで、場が収まり坂井は説明できたしている[24]。
OB戦では結果はライトゴロとなったが80歳にして見事な当たりを披露し、特別賞を受賞した土井。所沢球団移転の功労者の1人でもあったのだ。

土井正博氏

西武ライオンズ誕生による西武所沢球場が本格稼働が具体化したことで、球場周辺の動きも活発になった。11月30日には西武所沢球場交通対策連絡協議会が開かれた。西武側は1979年の所沢では50試合、観客は県内から45%多摩地域から45%都内から10%の来場し、電車利用が90%で残りバス・自動車と見込んでいることが説明された。加えて駐車場は672台設け、球団、報道関係者、オーナーズシート客、バスターミナルで使用するとされた。だがオーナーズシート用350台については、マイカー排除を唱えた県や地域の意向を無視するものである[25]。同時期には交通対策から地元自治会が所沢市議会に西武球場開場に待ったをかけるよう請願も行われ、休耕田を利用して駐車場がつくられ2000台を収容できるようになっているとも報告された[26]。12月には球場の交通対策について所沢市議会で相次いで取り上げられるなど、交通問題は開場まで課題とされた。

新生西武ライオンズのスタート

西武所沢球場改め西武ライオンズ球場は1979年3月27日に完工した。4月14日には日本ハムとのこけら落とし試合となるパリーグ公式戦が行われ、福田赳夫前首相が始球式を務めた。本拠地開幕投手は西武最初のドラ1となった森繁和だった。
西武は開幕から12連敗した後、4月24日の南海戦で西武ライオンズ球場での初勝利にして、西武ライオンズとしての初勝利を飾った。ルーキー松沼博久のプロ初勝利でもあった。

課題であった交通対策ではあるが、5月に行われた調査では混乱は西所沢駅前踏切以外では無かった一方で、西武園競輪とナイターの同時開催時の渋滞は課題[27]と埼玉新聞で報じられた。ただし同日の埼玉新聞には「弱いライオンズアタマにきた 球場のガードマンに乱暴」という記事も掲載されており、むしろ西武ライオンズの成績が振るわない方が地域にとっては想定外だったようだ。移転決定後、他球団から田淵幸一、野村克也、山崎裕之ら、ドラフトで森繁和、柴田保光ら、更にドラフト外で松沼兄弟を獲得した新生西武ライオンズであったが、初年度1979年は最下位に沈んだ。
なお補足だが、2024年の日程では西武園競輪とベルーナドームでのナイター開催日は、重ならない日程となっている。

球場の関連設備として1979年には西武第二球場が、翌1980年には西武第三球場が開場し、西武第二球場はファームの本拠地となった。

西武第二球場(2019年当時)
西武第三球場(現レッドパーキング)のスコアボード

その後のライオンズは監督が根本陸夫から広岡達朗に代わった1982年に移転後初のパリーグ優勝、更に中日を破り日本一となった。そして1980年代から90年代にかけて常勝軍団を築き上げ、西武黄金時代を形成するのであった。


<注釈>

[1]佐野,2022,149-150
[2]佐野,2022,6-19
[3]中川,2021,362-363
[4]「資金面では協力するが 球団経営関心ない 「横浜球場」で国土の堤社長」読売新聞1976年11月9日朝刊17面
[5]中川,2021,364
[6]佐野,2022,13-14
[7]「所沢のプロ野球場誘致 アンケート調査 九月に結果」埼玉新聞1977年8月16日2面
[8]佐野,2022,28-31
[9]佐野,2022,30
[10]「西武球場、実現へ 自動車交通に問題点も 県の方針」埼玉新聞1978年1月20日1面
[11]「「西武球場」に反対 所沢  環境阻害 と地元住民」埼玉新聞1978年1月28日1面
[12]「西武球場建設認可しないで」埼玉新聞1978年4月4日1面
[13]「プロ野球場、実現へ 県、開発申請を許可 西武鉄道 来春オープンめざす」埼玉新聞1978年5月30日1面
[14]「住民代表、県に抗議 西武野球場の建設 話し合いは平行線」埼玉新聞1978年5月31日1面
[15]「関西球団同士の試合も 解説/西武所沢球場」読売新聞1978年7月4日朝刊17面
[16]「西武球場 観客は電車輸送中心 狭山湖線の駅ホーム延長」埼玉新聞1978年7月27日1面
[17]「西武所沢球場の建設半分終わる プロ60試合開催が目標_西武の野球進出」朝日新聞1978年9月19日東京朝刊17面
[18]「西武 「クラウン」を買収 所有権は国土計画 所沢新球場に本拠地」朝日新聞1978年10月13日東京朝刊23面
[19]「埼玉にプロ球団 本拠地は所沢に 球団名「西武ライオンズ」」埼玉新聞1978年10月13日1面
[20]坂井,1995,281
[21]坂井,1995,247
[22]中川,2021,365
[23]佐野,2022,146
[24]坂井,1995,12-17
[25]「マイカー観戦ノー  所沢球場で西武側が説明」埼玉新聞1978年12月1日1面
[26]「西武球場 オープン待った!」埼玉新聞1978年12月2日3面
[27]「駐車場のない球場名を返上 一試合の入場二万余人 西武ライオンズ球場 予想された混乱もなく」埼玉新聞1979年5月19日3面

<参考・引用文献>

『ライオンズ70年史』ベースボール・マガジン社,2020年7月
坂井保之『波瀾興亡の球譜』ベースボール・マガジン社,1995年11月
佐野慎輔『プロ野球経営ドラマシリーズ 西武ライオンズ創世記 1973年~1983年』ベースボール・マガジン社,2022年9月
中川右介『プロ野球「経営」全史 球団オーナー55社の興亡』日本実業出版社,2021年10月
西尾恵介『RM LIBRARY30 所沢車輌工場ものがたり(上)』ネコ・パブリッシング,2002年1月
西尾恵介『RM LIBRARY31 所沢車輌工場ものがたり(下)』ネコ・パブリッシング,2002年2月
『鉄道ピクトリアル 4月号臨時増刊』第52巻4号,鉄道図書刊行会,2002年4月

2023年9月17日(日) 1979~球場ストーリー西武ライオンズ球場の誕生 | 埼玉西武ライオンズ (seibulions.jp)
石毛宏典らプロを多数輩出 今こそ知ってほしい社会人野球の名門・プリンスホテルの歴史 | web Sportiva (shueisha.co.jp)

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