しじみ汁にさよならを

味噌汁が好きだ。和食であればほぼ毎食インスタントの味噌汁を添えて食べているし、時にはパンと一緒に食べることもある。
赤味噌、白味噌、あわせ味噌。様々な具に彩られた温かい汁を飲むと、まさに「臓腑に沁みる」感じがする。

さて、味噌汁といえば最近Twitterで面白い記事を目にした。それがこれだ。

「シジミのみそ汁  身を食べるのはマナー違反? 注意したい2つのポイント」
https://news.yahoo.co.jp/articles/ca329128cb03f7fbb758a1ef51d6c5cfdf907008

内容は表題の通りで、「しじみの味噌汁を食べるにあたり、具として供されるしじみの中身を食べるか否か」という記事である。
Twitterでは「そんなの食べて当たり前だろ!」「命がもったいない」「そんなマナーを作るなよwww」といった声がほぼ100%だったが、私はそれをみて少々驚いた。何せ、私自身がその「しじみの具を食べない」側の人間だったからである。

とはいえ、長いマダガスカルお嬢様人生の中で最初から味噌汁の具のしじみを食べていなかったわけではない。むしろ、最初はアサリなんかと同様にその身をほじくり返して食べていた。ただ、めっちゃ美味しい!極上!と思っていたわけではなくて、なんならたまに砂とか入っているし、しじみを食べるモチベーションはそんなに高くなかった。
そんな中、現代文で面白い文章を読んだ。それは太宰の『水仙』という名前の短編だった。

▼青空文庫に飛ぶよ
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2272_20058.html

名家のお嬢様とそれに対してそこまで身分の高くない、売れ始めの小説家である「私」が出てくる短編小説だ。
ありし日の石田少年の行動を変えたのは序盤の文章。親世代から付き合いのある名家の家の正月祝いに招待された主人公が、しじみ汁のしじみを箸でほじくり返しているのを夫人が見るシーンだ。

「あら、」夫人は小さい驚きの声を挙げた。「そんなもの食べて、なんともありません?」無心な質問である。
 思わず箸とおわんを取り落しそうだった。この貝は、食べるものではなかったのだ。蜆汁は、ただその汁だけを飲むものらしい

太宰治『水仙』

当時の私は「え、マジ?味噌汁の具なのに食わんの?」と衝撃を受けたものだ。どうやら、この作品の中では「名家の人間からすると、しじみは汁を取るためのものであって、食べるのは意味がわからない行為」であるらしい。

中学生だか高校生だかの私は、たいていの思春期の人間同様に「俗」であるのが嫌で、それでいて他者と離れすぎることが嫌だった。「小さな違い」を求めていた私にとって「しじみ汁は汁だけ飲む」というのは、ちょうどいいアイデンティティであるように思われたのだ。以来、私はしじみ汁を飲むことがあってもしじみ本体をほじくり返して食べることは控えていた。

さて、ここまで石田の食事遍歴をつらつらと綴ってきたわけなのだが、この文章で私が話したいのは上の記事のような「マナー」の話では、当然ない。

この文章の核たる部分は、TwitterなんてSNSにおいて、私の「小さな違い」が話題となってしまったということにあるのだ。

人々は「最近のマナー講師は変なマナーばっかり作りやがって」「こんなもの、嘘っぱちじゃないか。むしろ食べない人を見たことがないよ。」と口々に語る。そして最後にきまったようにこういうのだ。「命がもったいない」「栄養を考えていない」。

おっしゃる通りだ。今までの石田武蔵は、「命」について考えていなくて、「栄養」について考えていなくて、ただ他者との迎合を恐れていた。そのことに今気づかされた。はっとした。

でも、それと同時に「『水仙』を読んだことのない雑多な人間の言っていること」に、どうしても「俗っぽさ」を感じてしまう自分がいる。

これが太宰のオリジナルなのか、本当に高貴な人間はしじみを食べないのか、実際のところはわからない。もし後者の場合でも、そんな高貴な人間はTwitterなんて下々のSNSをやることなんてないと思うので、その意見が見つからなくてもしょうがないのではないかと思う。
それに、しじみを食べるか食べないかも、結局のところ個人の勝手だ。食事は別に自由でいい。

ただ、この騒動を目にして、「私は今後一切しじみ汁は口にしない」と決心した。今の僕にとって、しじみの身は食べても食べなくても俗っぽい。お嬢様も引退のしどきかもしれない。

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