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生まれ変わってでも​──ヨルシカLIVE TOUR「月光 再演」ライブレポ

2019年10月。その年の夏に立て続けに公開された連作、「だから僕は音楽を辞めた」「エルマ」という二つのアルバムが紡ぐ物語。それを総括する作品として、「月光」と銘打ったライブが東名阪三箇所で開催された。

追加公演も含め4回公演となったツアーだが、一つひとつの会場のキャパシティが小さく、また映像化もされなかったことにより、居合わせなかったファンやその後ヨルシカを好きになった者からは「伝説」として扱われることも多かった。

そのライブの、2年半越しの再演。「伝説」の更新である。


ヨルシカ「月光」初演と再演と


2019年10月17日。当時高校生だった私は二学期中間試験の中日を終え、そのまま友人と渋谷のTSUTAYA O-EASTに向かう。二人で協力してなけなしの小遣いでCDを購入し、合計4枚のシリアルコードを掻き集め、やっとの思いで当選を手にしたヨルシカのライブである。翌日の試験科目の勉強をしながら物販列に並び、売り切れに一喜一憂し、そして入場。整理番号は200番台、ちょうどsuis氏[Vo.]を左下から見上げるようにして3列目に食い込んだことを覚えている。

幕が落ちたその瞬間、眩しすぎて目が潰れる、というのが私の最初の感情だった。夢で何度も思い描いたヨルシカの実体が、そこにある。手を伸ばせば握手も容易いぐらいの距離に。艶やかな銀に染まった外ハネの髪、トレンチワンピースからすらりと覗く素足、胸には長い十字架のペンダント。眼前に突如現れた天使に私は言葉を失い、ただただ、涙を流していた。

2021年12月。当時高校生だった私は無事受験を終え、大学一年生になっていた。受験の真っ只中にリリースされ私の人生の分岐点を支えた『盗作』、その虜になり、ストーリー性の高いライブに感嘆し、ヨルシカに特別な思い入れを懐く日常は数年経っても変わらずであった。ある日、ヨルシカ公式からの発表に、私の体に電流が走る。

伝説の再来。私にとってヨルシカに初めて会った、特別な思い入れのある「月光」。しかも前回と同じ東名阪での開催とは粋なものである。スマホを前にして暫く興奮は収まらなかった。できる限りついていきたいという気持ちで全公演に申し込み、当てたのは大阪公演2日目と東京公演両日。あの光景が、夢をみていたようなあの時間が、また目の前に広がる。その事実だけで胸がいっぱいになっていた。

オールスタンディングのライブハウスではなく、広々とした座席のある会場。売り切れ必至の当日物販ではなく、在庫が確保された事前物販。ヨルシカを見るためだけに詰めかけた、8000人の観客。当時とは何もかも違う状況にたびたび呑まれそうになり、その度に実感した。

伝説は終わらないのだと。


「再演」ライブレポ

「僕らは深い海の底にいる。」
n-buna氏[Gt.&Composer]のPoetry-海底にて-からライブは幕を開ける。スクリーンいっぱいには自らの口から出た空気が泡ぶくを作り、沈んでゆく一人称視点の映像。音とともに淡々と語っていた彼の口調が、静寂と共に緊張感を帯びる。

「──いつだって、欠けてしまった何かを探している。」

「3月31、東京ガーデンシアター。ヨルシカです」

聞き覚えのあるコードを掻き鳴らすn-buna氏、その熱気と共に始まったのは夕凪、某、花惑い。ライブ最初の曲から激しいナンバーのチョイスだ。スクリーンには大小さまざまに、主人公の情緒を表現するかのように書き殴られた歌詞が表示されている。力強いsuis氏の歌唱。最初からお馴染みのサポートメンバーを含め観客を全力で殴りに来ている。物凄い音圧だ。

間髪入れず八月、某、月明かり。自転車で夜の街を逃げている視点の映像が映し出される。特徴的なギターリフを流石の指遣いで奏でるn-buna氏。虚しさを消え入りそうな声で歌うA、Bメロはその中に盛り上がりを見せ、力強くサビに入る。「そんなの欺瞞と同じだエルマ」の叫ぶような歌唱が心臓に突き刺さって抜けなかった。

Poetry-関町にて-。ヨルシカのライブにはこのn-buna氏の語りが欠かせない。映像には彼本人が学生時代を過ごしたと明言している西武新宿線上石神井周辺の映像が映し出される。望遠レンズで切り取られた街頭の立ち並ぶ商店街、そこに見て取れる「富士見通り」の文字、夕焼けでセピア色に染まるロータリー。実写の映像が、主人公の青年の実在感を存分に醸し出し、観客を世界観に誘う。
(なお「月光」の物語でたびたび登場する地名について巡礼しまとめた記事もあるので、ぜひそちらもご参照いただきたい。)


フィルムカメラのような枠にお馴染みの実写MVが映し出されるスクリーン。藍二乗。キタニタツヤ氏[Ba.]の奏でるベースラインが気持ちいい。ボーカルはもちろん、細かなインストのリフが目立ち、いいスパイスとなっている曲。藍が空間全体に広がるかのように青い光線が動き回り、表現の手助けをする。スポットライトには青年が手紙を書いていた窓際の机のイメージか、格子のように演出されるようゼラがいられていた。この細かい照明演出も初演と比較して格段に進化したポイントであろう。

キーボードとドラムの軽やかなフレーズで幕を開けたのは神様のダンス。特徴的なのは間奏のピアノソロである。繊細なメロディからは想像もつかないような低音。平畑徹也氏[Key.]が左肘でガーン!と鍵盤を押す。「夕に茜追いついて」で全体が夕暮れに染まる箇所。サビの最後、「月明かりを探すのだ」のフレーズのところで全体は夜、ボーカルにだけ黄色のスポットライトがあたる箇所、曲を忠実に再現する照明も更にヨルシカの世界観を印象づける。

下鶴光康氏[Gt.]に一瞬スポットライトが当たり、つかの間会場が爆音の渦に包まれる。夜紛い。神様のダンスから前面に出始めるn-buna氏のハモリに注目した方も多かったのではないか。「消したい」「消したい」と繰り返す箇所で二人の声が重なり合う。残された少女の悲痛な叫びにやりきれない青年の気持ちも乗り移っているかのような、そんな演出にも思えた。


「つまらないものが嫌いだった。だから僕自身も嫌いだ。」という衝撃的な一言にはじまるPoetry-雨の街について-。水の滴るタイルや丸めて捨てられた紙、こちらも実写で映像に描かれる。雨の滴るカフェテラス、気に食わぬ歌詞を投げ捨てる青年とそれを拾い上げた少女、二人の出会いの瞬間、まるでそれを追体験しているかのように。

独特なグルーヴに合わせてsuis氏の体が楽しそうに揺れる。雨とカプチーノ。プロジェクションマッピングのような形で雨がゆっくりと降っている。上から吊るされている窓に映し出され、その空間は一瞬で梅雨時に変わった。映像は上から下へ、ペンを動かす手と連動して歌詞が流れてゆく。


六月は雨上がりの街を書く。重厚な特殊イントロに始まり、そこに乗せられたボーカルは今にも消えそうな声。と思いきやサビの「くだらないよ、馬鹿馬鹿しいよ」で意志を帯びて一気に強くなる。間奏のコンマ単位で合わせられたリズム、その合間合間に加わるどこか軽やかな、だがしっかりとした足取りのMasack氏[Dr.]の演奏が印象的な曲だ。

突然ザーッと降り出す雨。通り雨のようなそれがフェードアウトした瞬間、お馴染みのリフが始まる。雨晴るる。「消えろ、全部消えろ」suis氏が訴えるように歌う。それに呼応するかのようにn-buna氏がギターを掻き鳴らす。その前の二曲の曇天とは打って変わって雨上がり、青と橙のコンビネーションで示される。

Poetry-ヴィスビーにて-。天国に一番近い場所を探す道のりを探す青年、スウェーデンのヴィスビーでのワンシーン。森の教会で自分自身を悼む彼は、段々と生活感というもの、浮世というものから離れていっているようにも感じられる。

一瞬の沈黙、瞬間、空間は虹色に染まった。踊ろうぜ。会場が一気にダンスホールと化す。楽しそうな6人に観客の体も自然と揺れる。楽しそうながらに投げやりな歌唱、「自慢のギターを見せびらかしたあの日の自分を潰してやりたいよ」でギターの方を振り返るsuis氏、ニヤリと応えて掻き鳴らすn-buna氏。歌詞の虚しさはどこへやら雰囲気は終始楽しいまま。「月光」という言わば悲劇の作品の、もしかしたら唯一の救いなのかもしれない、とただ身を任せた。

間髪入れずに歩く。背後にはさまざまな場所をエイミーらしき少年が歩く、その足だけが映し出されている。そんなに激しいイメージはなかったが、こちらも踊ろうぜの流れと確実な演奏でまごうことなきロックナンバーへと変貌していた。

心に穴が空いた。背景の映像は物語に関連するスウェーデンの風景を写真で切り取るようなもの。照明はMVを意識したように緑や白で穏やかだが「全部音楽のせいだ」のところだけ、本当にそこだけ全体が赤になり鳥肌が立つ。夜紛いの歌詞で青年が願った通り「風穴を空け」られ残された少女の、ぶつけ所のない虚しい気持ち。それが痛いほど表現されていて、思わず目を背けたくなった。少女の青年への正直な気持ちが最大限詰まった、「等身大を歌」う曲だ。

Inst-フラッシュバック-。次々と楽器が加わっていき、最後にボーカルの伸びやかな声が乗る。観客に背を向けて歌うsuis氏が正面からのライトで照らされ、美しく影となって浮かび上がる。作品もいよいよクライマックスである。

パレード。ギターとピアノだけの静かなイントロ。消え入りそうに、でもどこか芯がある声。確かめるようにひとことずつ、ゆっくりと確実に歌ってゆく。青年が自らに送る子守唄のような、自らの葬儀に替える儀式のような、優しさと厳かさが共存する不思議な曲。そしてそれに曲をつけて歌う少女の孤独さ、戻ってこない二人の時間、それを象徴するように、suis氏を取り囲む鳥籠のようなスポットが当たる。

海底、月明かり。アルバムのインスト曲が、物語の舞台を湖底へと移す。

憂一乗
suis氏が階段に座る。そこにスポットライトが当たる。アコースティックギターに持ち替えた下鶴氏はじめ、n-buna氏・キタニ氏も椅子に座り、まるで皆が「湖の底にいる」ようにも見える。湖に飛び込んだ青年の追体験をするため、同じように水に入った少女の、後悔と願望と虚しさが入り交じったような一曲。


間髪入れず、ノーチラス。一度は階段に座ったsuis氏が照明に導かれるようにまたステージ中央に戻り、「裸足のまま」地面を踏みしめて歌う。二人の物語はお互いを想うような、お互いを悼むような、撫でるような手つきで終わりに近づいてゆく。


Poetry -走馬灯-。湖底に沈んだ青年。まるで自らの人生を追憶していたかのようなこの時間、見ていた風景や聴いていた音、全ては僕の見る走馬灯か。
あぁそうか、自分はもう。

やっと青年が気づく。


だから僕は音楽を辞めた。もう何も言うまい。夕凪と同じように書き殴られた大小の歌詞。どうして、どうして、と青年を疑問で殴りつけるような少女がsuis氏には宿っていた。すべてをぶつけていた。言葉はいらない。ただただ、青年と少女はこの虚しさを胸に抱いて、この物語を終える。このある意味での後味の悪さ、これは次回作「盗作」の作品の一部であるのかもしれない。ヨルシカというアーティスト自体が作品であるという、それを体現した一曲だった。

最後の曲を終え、会場が割れんばかりの拍手に包まれる中で、n-buna氏が最後に口を開く。青年が消えてゆく景色の中で少女に想いを馳せる、その一刹那を描いたPoetry-生まれ変わり-。「僕はそこへ行かなくちゃ駄目だ。」わかっていても体は動かない。口は酸素を取り入れられない。ならば、どうすればいい。

生まれ変わってでも。

生まれ変わってでも、僕は君に会いに行かないと。


「僕は今、瞼の裏に光を見ている。
夜しか照らさない、夜明けにも似た光。
薄くて眩しい、淡い光とはとても思えない

月光を。」

青年を体現したn-buna氏、少女を体現したsuis氏。それぞれが別の方向へと捌けていく。東名阪6公演を、アクシデントがありながらも無事に物語を紡ぎ切った彼らの背中には、新たな誇りが宿ったようにも見えた。

青年の死後、彼から届いた木箱を少女が開ける映像で、物語は終わ──らない。



もう一度、手が痛くなるほどの拍手をしながら、私の脳内にはすでにカチッ、とカセットテープをセットする音が聞こえていた。音楽泥棒の自白

観客の脳内にはすでに、彼らの来世の様子が見えている。
盗作をする男と、その妻。

前世では結ばれなかった二人の、生まれ変わってでも変わらぬ愛のはなし。


LIVE TOUR「月光 再演」セットリスト

1. Poetry -海底にて-
2.夕凪、某、花惑い
3.八月、某、月明かり
4.Poetry -関町にて-
5.藍二乗
6.神様のダンス
7.夜紛い
8.Poetry -雨の街について-
9.雨とカプチーノ
10.六月は雨上がりの街を書く
11.雨晴るる
12.Poetry -ヴィスビーにて-
13.踊ろうぜ
14.歩く
15.心に穴が空いた
16.Inst -フラッシュバック-
17.パレード
18.海底、月明かり
19.憂一乗
20.ノーチラス
21.Poetry -走馬灯-
22.だから僕は音楽を辞めた
23.Poetry -生まれ変わり-
24.エピローグ


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