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加害の歴史とどう向き合うか ーー 水戸市内原の今と昔

この記事は、当資料館のRj.Chibaが作成した記事「満洲に渡った青少年たち」を元に再構成したものです。

2つしかない「満洲」を伝える博物館

1932年の満洲国建国から1945年の太平洋戦争敗戦まで、13年間に渡って続けられた「満洲移民」政策。1936年の「満洲農業移民」国策化移行を中心に、軍人・民間人を含めて150万人が移住しました。
1945年の日本敗戦によって満州国は解散し、日本の満洲移住政策も終わりを迎えます。

多くの人の命と財産を奪った時代から一世紀弱。
現在の日本に存在する、「満洲」を伝える博物館はわずか2つしかありません。

一つは「満蒙開拓平和祈念館」。
長野県の下伊那に、有志の手によって2013年に建設されました。
長野県が全国で最も多くの開拓団・団員を送出した実態があり、史実としての満蒙開拓を伝えるだけでなく、経験者の体験を語り継ぐ場としても機能しています。

もう一つが「内原郷土史義勇軍資料館」。
満蒙開拓政策の行き詰まりを打破する目的で、1937年に送出が始まった「満蒙開拓青少年義勇軍」の訓練所跡地にある資料館です。
2003年に開館した比較的小さな資料館ですが、義勇軍の訓練・生活の展示を軸にして、実際に使用されていた制服や農具、教本なども展示しています。

今回はこの「内原郷土史義勇軍資料館」について、お話ししていきます。

水戸市郷土史義勇軍資料館。
JR常磐線内原駅から徒歩25分、車で5分。

「満蒙開拓義勇軍」と内原

1936年の「二十ヵ年百万戸送出計画」で国策化された満蒙開拓ですが、日中戦争の勃発・長期化などの要因により、開拓団送出は計画通りに進んでいませんでした。
この遅れを解消すべく計画されたのが「満蒙開拓義勇軍」。
数え年16から19歳の青少年を、軍事教練を経た後に満洲に送り込む計画です。
普段は農作業に勤しみ、対ソ・対支の有事には兵士として前線を守る目的がありました。

彼らは内地で3ヶ月程度の訓練を行なってから満洲に渡りましたが、その訓練を行なったのが茨城県内原町(現・水戸市内原)にある「内原義勇軍訓練所」でした。

内原は東京へのアクセスが良いことに加えて、日本国民学校の農場予定地があり広い敷地が容易に確保できたため、1937年12月に建設が開始、翌1938年3月1日に開設されました。
所長には、山形県を中心に農村改革運動を行い、満蒙開拓政策に大きな貢献をした加藤完治が就任しました。

全国から集められた青少年たちは、内原の地で3ヶ月間の「渡満ノ準備的訓練」を行ない、「渡満道路」を通って内原駅で汽車に乗り、東京を経由して新潟・敦賀・下関から満洲に渡りました。
渡満後は基本訓練所(大訓練所)で1年間の現地農業訓練を、その後2年間は実務訓練所(小訓練所)で2年間の訓練を行なった後、義勇開拓団として定着する計画でした。

内原訓練所から満洲に渡った青少年は、終戦までの7年間で8万6千名に上ります。

1947年の内原訓練所跡と渡満道路。
国土地理院 USA-R636-96 1947/12/12撮影(地図・上空写真閲覧サービスより)を当資料館が加工して作成。

加害を伝えることの難しさ

満蒙開拓政策は、当初は関東軍の、そしてのちの国策であり、その実態は軍国主義のもと行われた侵略・統治政策の一環でした。
その中でも「義勇軍」は軍事的な側面を大きく持った政策であり、その伝承のあり方は語りの当事者を悩ませる問題でもありました。

資料館の建設が決定したのは、戦後50年が経った1995年。
義勇軍出身者の陳情と当時の内原町町長の町おこしへの期待を背景に、内原町が決定しました。

しかしその決断をした町長も、「侵略か開拓か『どういう形に』」したら良いかという課題に直面していました(朝日新聞 1997.8.18)。
また義勇軍出身者の中にも、加藤完治所長を神格化することへの憤り、国策に加担することになった嘆きなど様々な声がありました。
その結果、多くの人の関与と熱心な活動によって2003年の開設に漕ぎ着けたものの、義勇軍の実態や経験者の記憶などを「積極的に次世代に語り、継承しようという姿勢は、町や記念館の展示からも、遠隔からの情報収集からも、ほとんど感じられない」(村田麻里子 2022)状況になっています。

一つには決められない「事実」への評価と「加害の歴史」を扱うことの難しさが、記憶を後世に伝えることを阻んだのでした。

義勇軍訓練所を伝える場所

様々な葛藤を抱えながら存在する内原郷土史義勇軍資料館ですが、その周囲には訓練所があったことを今に伝える場所が多くあります。

内原駅

ホームの南側(自転車置き場)が乗車場所でした。
現在は駅舎のほとんどが改修されており、当時の様子を感じられる場所はほとんどありません。

JR常磐線内原駅の新しい駅舎をを南側から望む。

地蔵院

内原駅から訓練所跡地に向かう道中にある寺院。義勇軍慰霊碑と忠魂碑が置かれています。

入り口にある「元満蒙開拓青少年義勇軍慰霊碑所在地」の看板。

渡満道路

訓練所から内原駅までの1.5キロにわたる道で、元々は松林だったものを義勇軍が改修したものです。第一次義勇軍が100本の桜を植え、現在もその一部が残っています。

渡満道路の桜並木。

訓練所跡の慰霊碑

軍出身者で作る全国拓友協議会が主体となり、昭和50年5月に建立したものです。
近くには昭和16年、第一回農業増産報国推進隊員の父が苗木を寄贈した桜が、今もなお植えられています。

訓練所跡の慰霊碑。「満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所跡之碑」と掘られている。
周囲には桜が植えられ、内原訓練所から満洲に渡った中隊の名前が刻まれた小さな碑も立っている。

施設情報

水戸市 内原郷土史義勇軍資料館

開館時間:午前9時〜午後4時45分
休館日:月曜(月曜祝日の場合は翌日)、年末年始
入館料:無料

茨城県水戸市内原町 1497-16
JR常磐線 内原駅から 徒歩で25分/自動車で5分
常磐自動車道 水戸ICから 自動車で10分

ウェブサイト:水戸市


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