見出し画像

東日本大震災の(とくに空腹の)思い出

過去の文章をみつけたので,それを参考に書いているのですが,生活面でいえば食糧の確保に苦労したことがいちばんの思い出です.津波の被災地最前線のかたがたはほんとうにたいへんだったと思いますが,支援がはじまると優先的に食料などが搬入されて行きました.ところがその後方である仙台などでは,物流が完全停止したために,食糧をはじめとした日用品がまったくはいってこなくなりました.

震災後1か月くらいはスーパーは大行列で,コンビニなどは完全閉鎖でした.そんなとき地元の顔見知りのお店にはずいぶん助けてもらいました.地域で食料を融通しあったのです.地域コミュニティがよく残っている仙台だから乗り切れたところがあります.これが独身者が多い首都圏でおきていたら,餓死者や暴動がおきても不思議でないと思いました.

ふだん行きつけの寿司屋の親方は,震災の翌々日,酢飯をジプロックにつめたのをいくつか持ってきてくれました.その酢飯にボンカレーをかけて家族で食べました.病院で事務方を中心に四方八方へ食糧を調達に走ったのですが、手に入ったものは(あたりまえですが)入院している子どもたちが優先で、われわれの口までは届きませんでした。

働いていても食べるものがなく、そんなときはナース控室に行って恵んでもらって飢えをしのいでいました.なぜかあそこにはいつもふんだんに甘いものがかくされているんですね。4日目に医局に支援物質としてチキンラーメンが箱でとどき,3日くらいそればかり食べてました.6日目に看護師さんが実家からと卵を差し入れたくれたときはみなで歓声をあげました.

病院の食堂はすぐに閉鎖されましたが,食堂のおばちゃんが,米と切り干し大根をどこかから自力で調達してきて,7日目から食堂が再開.事務方のひとも手伝って,無料炊き出しみたいな感じでだしはじめました.温かいご飯と,おかずの切り干し大根がとてつもなくうまかった.

沿岸の被災地に支援物資を運ぶため,たくさんのヘリコプターが病院の頭上を通過していくのを,うらやましげにながめていたものです(一機くらいここにおちてこな、もとい、おりてこないかなと)

正直,食べものがない,手に入らないというのはほとんど生まれてはじめての経験だったかもしれません.ダイエットでの空腹感とちがって,それは焦燥感にも似た感覚でした.先をみとおせないという不安がこういった苦痛や焦燥をもたらすようです.たまたま阪神淡路を経験した同僚がいて,絶対に大丈夫,かならず1週間以内には食料が入ってくるようになるから,と断言してくれたのが自分にとっては救いとなりました.

震災直後から10日間くらいは仕事はメチャクチャ忙しかったです.電気と水といったライフラインがかろうじて生き残ったうちの病院に,市内の妊産婦が殺到することになって,通常の数倍の分娩をあつかうことになりました.風呂に入れなかったのもつらかったです.髪を洗えないので,だんだん髪がベッタリした感じになりました.一度覚悟して冷水のシャワーを浴びました.

3月に浴びる水はとても冷たくて,小学校のプール授業のまえに浴びるシャワーの記憶を呼びおこしました.自家発電では通常の1~2割程度の電気しか供給できないため.病院のなかは日中でも薄暗く寒いものでした.あまりに寒くなると,院内で唯一暖房がはいっているNICUに逃げこんで,しばらく暖まりました.

携帯がつながらず自宅からの緊急呼び出しができません.緊急帝切を考えると常時複数の人間が泊まりこみせざるをえず,それが心身の余裕を奪っていきました.あんまり根をつめると燃えつきてしまうと気がつき,途中から方針をかえ,ひとり当直として,交代で家に帰ってじゅうぶんに休息をとれるようにしました.なにか緊急がおきてもひとりでなんとかしようと覚悟を決めたということです.それが正解でした.それで極限状況をなんとか乗り切れました.

震災から10日すぎるころになると,市内のライフラインも徐々に回復し,多くの病院も再稼働をはじめ,当院の状況もほぼ通常まで復するようになりました.そのころには食料事情もすこしよくなり,すくなくても空腹に悩まされることはなくなりました.それまでは入院患者さんもさぞたいへんだったと思います.

小児病院である当院は,ほとんどの検査や手術が延期となり,入院しているこどもたちもできるかぎり退院の方針だったので,産科医以外の他科は比較的暇を持てあましていました.震災直後に超忙しかったのは産科だけだったのです.分娩や帝切だけは延期するわけにはいかず,産科医療の本質は救急であることをそのときつくづく感じました.

空腹感に苛まされて,150円のカップ麺をいま十倍の値段で売るぞといわれたらまちかいなく飛びつくだろう,百倍の1万5千円ならばどうだといわれたらちょっと迷うなあ,そんなくだらないことを考えて気をまぎらわしていました.興味深かったのは,仙台では実際に売り惜しみとか値段の釣り上げということがいっさいなかったことで,それもコミュニティの美点だったと思います.

道端の自販機もすぐに品切れになりました.糖分やカロリーの高いものからなくなっていったのはおもしろかったです.流通がとまって補充がないので,自販機はすぐに無用の長物と化していました.震災の夜はコンビニにひとびとが殺到し,不穏な状況が頻発したため,翌朝には商品が残っていても全店閉鎖となってしまいました.

コンビニは,ご丁寧なことにガラスの内側から新聞紙を目貼りされて,店内が見えないようにして閉鎖されてしまいました.外から商品が見えるとガラスを割られて侵入されるとでも思ったのでしょうか.再オープンしたのは1か月もあとのことで,こういった店は災害時には役に立たないことを痛感しました.

こういうときほんとうに助かるのは先にもかいた地元の商店,それから地域密着型のスーパーでした.さまざまなルートを駆使して食品を集めていました.知り合いのお店のご主人は,苦労して仕入れたのだから,できれば隣近所のひと優先に売りたいと言って,こういうときだけ遠くからくる知らない客には露骨に嫌な顔をしていました(苦笑).

わたしの家も職場も内陸で被害はありたせんでした.われわれの頭上を無数のヘリが飛んで,被災地前線に多量の物資を運んでいました.しかしライフラインが途絶し流通が止まることによって,後背地の地域もこんな感じで打撃を受けました.しかし仙台市の近郊は農業地帯であり,すこし行けば食糧は十分にあります.流通が完全に停止してあっというまに不足状況に陥ったのですが,まあいろいろ工夫すればなんとか自力調達は可能です.

ほんとうに心配なのは東京に直下型の大地震がおきたときです.首都圏にどの程度の食糧の備蓄があるのでしょうか.2-3日で食いつくされ,それで十分な食料配布などがなされなければ,ほんとうに悲惨なことになりそうです.交通網が寸断されている状況で自力でなんとか脱出できればいいのですが,かんたんにはいきそうもありません.ひとは餓死するくらいならばひとのものを奪うかもしれず,治安面でも心配です.杞憂であればいいのですが.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?