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ヒューマニスト手塚治虫の理想と挫折

手塚治虫「ブラックジャック」第153話「ある監督の記録」は、当時、重大な人権侵害として問題視されていたロボトミー手術を美化した作品として強く抗議され、作者と秋田書店がまちがいを認めて謝罪したことで知られている作品です。

脳性麻痺の息子の成長記録をフィルムに撮りつづけていた映画監督の依頼をうけたブラックジャックが、頭蓋骨をあけて電流を流すことで治療をおこなうというストーリーです。手術後息子の症状は劇的によくなっていきます。

しかし「頭蓋骨切開」に「ロボトミー」とルビをふってしまったため、青い芝の会をはじめとした障害者団体から強い抗議をうけることになります。「ロボトミー手術」によって脳性麻痺がなおったという描きかたについてでした。

これは頭蓋骨をあける手技そのものをロボトミー手術と思っていた手塚の単純な誤解によるものでした。この回は全面的に描きかえられ「フィルムは二つあった」という題で単行本に収録されています。しかし手塚のショックはおおきく、ブラックジャックの連載終了のひとつのきっかけにもなったといわれています。

しかし青い芝の会の抗議をいまあらためて確認してみると、その主眼は「症状がよくなり、健常者にちかづくことが障害者の幸せである」という手塚の思想そのものを問題としていたようです。すなわち脳性麻痺者はむしろ脳性麻痺者としてそのまま生き、幸せに生きられる世の中にすべきだという主張です。

ここには深刻な齟齬がありそうです。周知のとおりヒューマニスト手塚治虫は、自分の作品に積極的に社会的少数者をとりあげ、彼らの救済と幸福をこころから願いました。プラックジャックという天才外科医を主人公とし、彼の奇跡的メスによって障害をとりのぞき、障害者を救おうとしたのです。

手塚の真のショックは、そういった彼の理想そのものを当事者によって否定され糾弾されたことにこそあったのではないかと思います。77年のインタビューでは「身障者の気持は健康体の者にはわからないのだから、それだったら書かない方がいい」というきわめてネガティブな発言をしています。

虫プロが倒産し、手塚自身も時代おくれのマンガ家とみなされていたどん底の70年代のはじめ、「ブラックジャック」によって劇的に復活をはたした彼は、一般的にも大人気を博すようになり、その作品自体も今日では代表作とみなされています。手塚の真の挫折はその絶頂期にこそおきたのでした。

障害者が真に望んでいることはなにか?真の幸福とはなんであるか?これはそのときから40年たったいまでも解決のついていない問題であり、その後もなにかのおりをとらえては何度も何度も議論されています。手塚の挫折はいまいるわれわれの前にある壁でもあります。

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