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起こした行動に「心」はあったか?

ここ最近、noteを書くのが楽しくなくて、今月少しだけ更新をお休みしていた。

書くことが目的になってしまい、何のために文章を書いているのか、文章を書くことで何を得たいのか、分からなくなっている。

このままダラダラと続けるのは良くないと思い、敢えて習慣化していたnoteを辞めてみることにした。

最近聞いた話なのだけど、人は何かに投資し続けると、「これだけ続けたのだから…」と辞められなくなるらしい。
例えば、続けていた保険の解約ができなかったり、ホストにハマって抜け出せなくなる人の思考も、まさにそう。

noteの更新をお休みして何をしていたかというと、徹底的な自己分析だ。具体的には、紙とペンを用意して、「メモの魔力」の本の一番最後にある、1000の質問を解いている最中。

何か悩んだりモヤモヤした時は、具体的なこと、枝葉ばかりを突き詰めていることが多い。

そんな時は、一切の情報を遮断して自分自身を見つめ直してみる。 枝葉ではなくて、木の幹を見てみる。

特に今の時代は、Howばかりに目が向けられているからこそ、
「自分はどんな人間なのか?」
「自分は何をしたいのか?」
という軸を見失ったら、人は心を無くしてしまう。心が「NO」と言っているのに、心と身体が真逆の方向に向かってしまう。

自己分析をしてから、自分がnoteを書くときにHowばかり目を向けていたことに気がついた。いつの間にかアクセス分析やいいね数を意識して、評価が他人軸になっていた。

「なぜnoteを書いているのか?」
そう考えた時、理由は"自分という人間を知るため"だった。noteを書く行為は、普段私が見過ごしているストレスや課題を気づかせてくれる。

だから私のnoteは、必ず「私」に向けて書いている。他人を意識して自分が心動かされない文章を書いて、一体誰が心を動かされるのだろうか?

最近思ったのだけれど、自己分析は物の断捨離に似ている気がする。

自分の持ち物を見直した時、その一瞬だけは「これは必要だ」と思うとする。それを1ヶ月、3ヶ月見直し続けた時、どう感じるだろう?

「やっぱりこれは要らないな…」と思ったら、それは自分には必要がなかったということだ。一方で、定期的に見直して、それでも必要なモノだったら、それは自分にとって本当に必要なのだと思う。

多分、自己分析も同じ。
その時だけは、「人生でこんなことを大切にしたい、こんな自分になりたい」などと思っていても、数ヶ月後や数年後、また自分自身を振り返った時に、心を動かされなくなっていたら。

本当は必要ではなかったのだと割り切って、勇気を持って辞めてもいいんじゃないかな。

自己分析を繰り返して、それでも「ここだけは譲れない」と感じるものがあるのなら、それこそが「自分の軸」なのだと思う。

以前の私は、一度決めた目標を突き通せない自分はダメだと思っていた。でも、そうではないんだ。何度も思考を巡らせて、数々の不要なものを知った時、本当に必要なものだけが際立つ。
時に「勇気を持って辞める行為」は、人生においてとても大切だと思う。

自分を知っている人は、やっぱり強い。自分を知らないと、何か課題や問題にぶつかった時に、周りに振り回されて、本質とは外れた行動をとってしまうから。

これからも、私は「自分を分かっている」とか、「自分はこんな性格だ」なんて言わないようにしたい。
いつまでも自分の可能性を信じて、自分を知り続けたいなぁと思う。

#日記 #コラム #エッセイ

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