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時間のにじみ

器が好きで、たまに器屋に行っては、どれを買おうかと長時間悩む。
手に取って重さや厚みを確かめ、いろんな角度から眺め、元の場所に戻し、少し時間を置いてまた手に取って眺める。ようやく一枚の器を購入し、その晩はリビングのテーブルの上に置いて、また眺める。ああ、なんて「いい」器なんだろう、と。

けれど毎日その器を使っているうちに、購入した日に感じた「いい」という感覚は、いつの間にか薄くなっていく。それは粗(あら)が見えるという意味ではない。だんだんと慣れが来てしまうからだ。
その器を使いながらも、その存在を忘れていく。けどその時、僕と器はお互いに「にじんでいる」のだと思う。

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ヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』の中で、<触覚的な受容>という言葉が出てくる。

例えば旅行者がパッと建築物を見る。その時の感覚は<視覚的な受容>に過ぎない。けれどその建物の中に住んでみると、徐々に見えてくる感じがある。それが<触覚的な受容>だ、というような書き方をしていたと思う。

初めてその箇所を読んだ時「なるほど!」と思った。何かを初めて見るとき、視線の先端をその物体に当てている感じがするけど、慣れてくるうちに今度はその物体が自分に染み込んでくる。つまり「見る」でも「見つめる」でもなく、「溶け合う」のような見え方になる。
購入した器をテーブルに置いて見ていた時、それは<視覚的な受容>だったけど、毎日使う中で徐々に<触覚的な受容>に切り替わっていった、と言えるのかもしれない。

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家族写真を撮り、飾る。
あるいは古いアルバムから一枚写真を取り出し、飾る。
はじめは、ああ、いい写真だなとか思う。たまに手に取ってはじっくりと眺めたり、写真立ての角度を少し変えてみたり。
けれどだんだんと慣れてくる。器と同じように。いつの間にか、そこにその写真があることも忘れる。とまではいかなくても、少なくとも日常生活であまり意識の中に入ってこない存在になる。けどそうやって、僕とその写真もまた、お互いに「にじむ」ようになる。

写真に写っているのは、過去である。家族写真に限って言えばそれはつまり「あのとき」が写っている、ということだ。遊園地に行ったとき、結婚したとき、まだ幼かったとき。
「あのとき」を写真立てに入れて、棚に飾る。そして次第にその存在を忘れ、自分と写真がにじむにつれて、「いま」と「あのとき」もにじんでいるのだと思う。

家族写真を飾るということは、部屋の中に「時間のにじみ」を作り出すということだ。


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