シン・少女病①

 タワーマンションの2階部分、いわゆるタワマン最下層に住む男がいた。男の年齢は37歳で妻と息子・娘と4人で暮らしている。職業は雑誌の編集者だ。
 男の格好はタワーマンションには不釣り合いで、色あせた背広の上に毛玉のいっぱい付いたトレンチコートを羽織っている。革靴は傷が目立つ。
 男の顔は特徴的で、鼻は低く鼻の先が上の方を向いており、歯はかなりの出っ歯で、肌の色は浅黒く、長く伸びた頬髭が半面を覆っている。全体的に、夜道に歩いていたら、少し気味悪く思えるような見た目であるのだが、目に関しては柔和でやさしいところがあり、常に何かに憧れているように目が輝いていた。
 男の歩く姿も特徴的で猫背がひどく、アヒルが歩くような姿勢でいつも歩いていた。歩くスピードは早く、小刻みに歩くその速さは朝練に励むマンション近くの高校の陸上部員でも追いつけないレベルだった。
 男は、いつも、朝早くの決まった時間にマンションの外に出る。雨の日も、風の強い日も、雪が降っている日も必ずだ。そのため、マンションの近くの家の奥さんの中には、男が歩くのを見かけて、「あなた、遅刻するわよ!」と寝ぼけまなこな主人を起こす人もいるという。
 そんなことが自分が歩いているときに起きていることなんて、露知らず男はマンションの最寄り駅である代々木駅に向かう。男が駅に着くと、いつも目当ての電車の出発時刻ぎりぎりになるため、駅に電車が近づいて来ているのを見ると、大きな体を前のめりにしてなりふり構わずホームまで走る。これが男の日常だ。
 しかし、今日は、いつもより早めに駅に着いたらしい。電車が来ている様子も見えず、ゆっくりとスタスタ歩いていた。駅のホームに向かう階段の手前で、ふと、頭の後ろの方に鶯色のリボンを付けたツインテールの女性の後ろ姿を見た。皺ひとつない白シアーシャツに紺色のロングスカート、真新しい白い靴下、黒のロングブーツ、それらを見ると、もう胸がときめいて、嬉しくて、そわそわして、その場で通り過ぎるのが何だか惜しい気がした。
 実は、男はこの女性を知っている。少なくとも5,6回は同じ電車に乗ったことがあるのだ。それどころか…男は…
 冬の寒い夕暮れに、わざわざ回り道をしてまで、女性の家を突き止めたこともあるのだ。千駄ヶ谷にある樫の木で取り囲まれている豪邸に彼女は住んでおり、そこの家の長である某会社の社長の娘であることも知っている。
 眉が美しく笑った時の何とも言えぬ表情も素敵な女性である。

「どう考えても25,26歳で学校に通っているわけでもないだろうに、それはまあ、毎朝会わないからわかるのだが…それにしてもどこへ彼女は向かっているのだろう」
 と男は思ったが、自分でそう思ったことが何だかひどく面白かった。
 男はちらりと女性の様子を見てまた、胸をときめかす。
「もうじき嫁に行く年頃だよな…」
 そう思うと、男は何だか寂しく、惜しいような気持になり、
「俺ももう少し若ければな…」
 と自分の老いを哀れんだ。しかし…
「何だかバカバカしくなってきたぞ。俺も良い歳だろ!奥さんも居れば、子供もいるんだぞ!!」
 と思い返した。なんとなく悲しく、なんとなく嬉しい変な気持ちになった。
 気持ちを切り替えて、男は大きな歩幅で階段を昇って行った。女性も階段を昇っていたが、駆けるように追い越した。追い越す際に、女性の柔軟剤の香りが鼻孔を刺激し、胸を躍らせた。
 ICカードを勢いよくかざし、改札口を急いで抜ける。駅のホームにある待合室に入る際、男はちらりと、以前より見知っているもう1人の女性を見た。
 彼女は、肉つきが良く、頬は桃色で、輪郭の丸い可愛い娘だ。派手なイエローボーダーのトップスに、デニムスカートを履いている。右手には白い日傘を抱えている。彼女もツインテールだが、いつもと違い、白いリボンを付けている。
 この娘は自分のことを覚えているはずだ。しかし、私が目をやっても彼女は知らぬ顔を決め込んで、あちらの方へ顔をやっている。
 まあ、仕方が無いか。あれぐらいの歳の娘は恥ずかしがりやなのだから…そう思うと、たまらなく彼女のことが愛らしく思えてきたのだろう。何度も何度も男は彼女の方をちらり、ちらりと見た。
 そして、今度は目を逸らして、先程階段で追い越した女性の後ろ姿も見始めた。男は2人の女性を観察するのに忙しいのだ。
 男は電車が来ることも忘れて…観察を続けた―――
(つづく)

【参考文献】
田山花袋 少女病
https://www.aozora.gr.jp/cards/000214/card1098.html
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?