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ジェンダーとは何か。男女は本質的に異なる?

アンコンシャス・バイアスに関する調査

先日の9月30日に、内閣府男女共同参画局から「性別による無意識の思い込み(アンコンシャス・バイアス)に関する調査研究」という調査結果が発表されました。Twitterでも取り上げられていましたね。


この調査では、約1万人を対象に、家庭・コミュニティ領域と職場領域での性別役割、その他性別に基づく思い込みについて質問しています。
回答は「そう思う」「どちらかといえばそう思う」「どちらかといえばそう思わない」「そう思わない」の4択です。

それぞれの領域で「そう思う」「どちらかといえばそう思う」の割合が高かった項目の上位5つを下に挙げました。

内閣府アンコンシャスバイアス調査1

内閣府アンコンシャスバイアス調査2


質問項目については、男性か女性か決められているのでその点が少し気にはなります。
例えば「男性は仕事をして家計を支えるべきだ」と同時に「女性は仕事をして家計を支えるべきだ」という項目を聞いたり、「仕事をして家計を支えるべきなのは誰か」という項目にして「男性、女性、どちらも、どちらでもない」から選ばせるなど、フラットな聞き方ならまた違うのかなと思いました。

それはさておき、ここで聞いているのは「性別役割(ジェンダーロール)」や「役割規範」と呼ばれるものです。

回答の割合を見てみると、家庭・コミュニティ領域において、男女ともに約半数が「男性が家計を支えるべき」と回答しており、この部分の役割意識はとても強いことがうかがわれます。

ジェンダーとは何か?

さて、ジェンダーロールとは「人がその性別に応じて社会の中で期待される行為のパターン」と定義されます(加藤、2017)。

そして、「ジェンダー」についても考えてみたいと思います。

「ジェンダー」とは何を指すのでしょうか?どういう概念なのでしょうか?

日本ジェンダー学会の『ジェンダー学を学ぶ人のために』という書籍では、「一般に、オス・メスといった生物学的な性の在り方を意味するセックス(sex)に対して、文化的・社会的・心理的な性の在り方をさす用語」として使われるとされています。

ただ、「生物学的な性」と「社会的な性」を区別することは、厳密に区別することは難しい気もします。

例えば、先ほどの職場領域の調査結果で「組織のリーダーは男性の方が向いている」などは、「男性だから」向いている/「女性だから」向いていない、と考えられがちです(生物学的な性によるもの)。

しかし、女性リーダーとして活躍している人は多く、生物学的な性差よりも、周りからの期待や慣習など、「社会的な性差」のほうが大きいと考えられます。

最近では、こうした区別の難しさから、「性別に関する知識や考え方全般」を指して「ジェンダー」と呼ぶことが増えてきているようです。

生物学的な性と、社会的な性

でも、やっぱり「生物学的な性」と「社会的な性」は分けられるのでは?
男と女は生物学的に違うのではないか、と思う人も多いと思います。
そこで、次に紹介する「本質主義」と「構築主義」という考え方がとても興味深いです。

「本質主義」と「構築主義」という概念

「本質主義」と「構築主義」は対立概念になっていて、1980年代以降のフェミニズム理論における焦点の一つとなっています。
(一般的には本質主義を批判の対象とし、それに対する反本質主義として構築主義が掲げられる)

本質主義は、人間の性質が生得的な因子によって決まるとする生物学的決定論です。

今年のオリンピックには、大会初のトランスジェンダーの女性が出場しましたが、その際の批判的な意見として「女性と男性の骨格は違うのだから不公平だ」というものがありました。
これは、この本質主義をベースにした批判といえます。
人間の個性・多様性を尊重せず、性別によって進路や職業を割り当てるような考え方が典型です。

これに対して、構築主義では、人間の性質が後天的な学習によって決まるとする環境決定論の視点(社会的構築主義)をとります。

私たちは、家庭や学校などで男女それぞれの役割を暗に感じながら、ときにはっきりと伝えられながら成長します。
重いものを運ぶときには男子生徒だけが呼ばれたり、転校する生徒に送るプレゼントは女子生徒が考えたりすることがあるかもしれません。
職場では慣習的に女性がお茶くみをしているのを踏襲したり、クレーム対応では男性社員を求められたりします。

ジェンダーロール1

私が今回の調査で最もショッキングだったのは以下の結果です。
60代男性の結果はまだしも、20代の男性で最も高い数値になっているのはなぜなのでしょうか?

この年代の男性によほど強い負荷がかかっているのか、それが「当たり前」という風潮なのか…
とはいえ、8割以上の人は「そう思わない」「どちらかといえばそう思わない」という回答なので、例外だと思いたいところではあります。

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ジェンダーを構築するもの

冒頭に紹介した内閣府の調査では、性別役割を感じさせた人に関する項目があるのも興味深いです。

意外にも(?)、「性別役割を言ったり、言動を感じさせた人」として、父親や男性の知人・友人、男性の職場の上司、女性回答者の配偶者・パートナーが挙げられており、男性の場合も女性の場合も、主に男性の言動が影響を与えていることがわかります。

セクシャル・マイノリティの許容度や夫婦別姓の是非などに関しても女性の許容度や賛成のほうが高いことは多くの調査でも出ていることであり、それを考えると一貫した結果なのかもしれません。

ただ、自由記述においては、もちろん母親や女性の友人などからの言動から影響を受けたという記述も多く見られます。数としては男性が多いものの、女性の言動ももちろん性別役割の固定を助長することはあると思います。

これらはまさに「構築主義」の指すものであり、「誰が」「なんのために」そのように発言しているのか、その「発言の影響」について、考えていく必要があると思います。

「たかが個人の意見」では済まされない

ここで重要なのは、性別に関する知識や考え方は私たちの社会が作り出しているものだ、ということです。
具体的には、先ほどの調査結果のように父親や職場の上司、学校の教員、見知らぬ誰かかもしれません。そして、メディアやSNSを通じて接する情報も大きな影響を与えます。
最近では、芸能人や政治家などの発言において、偏ったジェンダーロールを強めるような発言はすぐにSNSで拡散され、批判されます。
CMの炎上も多く見られました。

一つ一つのメッセージは、誰かにとっては自分の価値観と合う心地のよいものであり、一方で、自分の価値観や持ちたい役割と合わずに身動きをとりづらく感じる人もいます。

偏ったメッセージや、誰を縛り付けるメッセージは「受け取らなければいい」「個人の意見」という問題ではなく、そうした発言によって強化されうるものなんだ、ということを知っておくことが必要なのだと思います。

男と女の区別を前提にしたジェンダー

さて、ここまで散々「男性」「女性」という区別を前提に書いてきましたが、今後はこの区別自体も薄まってくると考えられます。
特にここ最近浸透しつつあるSOGIの概念を扱いながら、また記事にしたいと思います。

さいごに:身体能力と性差

本質主義の部分で、スポーツ場面における性差について挙げました。
今回のオリンピックで大きな議論を巻き起こしたトランスジェンダーの方の出場ですが、これについても少し勉強してみました。以下、谷口(2007)を参考にしています。

そもそも「競技としてのスポーツ」が欧米から日本に入ってきたのは明治以降です。そして、勝ち負けを重視するスポーツの発展は、男性を中心に行われました。女性にとってのスポーツは次の世代の子どもを産む身体作り、健康のため、という意味合いが大きかったようです。

その状態を作り出すために、身体的・精神的な差異を強調し、男女を区別する理由づけすることによって、そうした差異が「本質的な」ものであり、男女を区別することは当然なのだ、という人々の意識が作られていったそうです。

もしもそうした「男女の優劣」「男女の性差」が強調されることなく、性別に関係なく行うスポーツが当たり前だったとしたら、男女別の体育の授業や男女別の種目のあり方も大きく違ったのではないか、と思ってしまいます。

(参考)
谷口雅子『スポーツする身体とジェンダー』青弓社、2007
加藤秀一、石田仁、海老原暁子『ジェンダー』ナツメ社、2005
加藤秀一『はじめてのジェンダー論』有斐閣、2017
日本ジェンダー学会『ジェンダー学を学ぶ人のために』世界思想社、2000

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