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安野モヨコ氏の「還暦不行届」レビュー「創作の召使」。

先ず本書は一体「何」なのかを解説しておきたい。
本書は漫画家・安野モヨコ氏の「漫画が一部含まれた随筆」で
「監督不行届」(2005年)の様な「日本一のオタクの嫁」となった
悲喜こもごもを面白可笑しく漫画にした内容ではないと言う事です。
随筆中にはオタク用語が殆ど登場せず
「監督不行届」にあった巻末の「オタク用語解説」もありません。

安野モヨコ氏は2008年頃から
朝日新聞出版の「オチビサン」以外の漫画の執筆を休まれている。
夫の庵野秀明氏は後書きで次の様に語る。

「(妻は)体調不良で漫画が思う様に描けなくなり,
苦しんでいる時期が何年も続いていました」
「そんな中,2年以上悩んだ上で
2013年から「鼻下長紳士録」を描き始め(中略),
最終話まで5年かけ,あれだけの辛い状況の中で
キチンと完結させたのは本当に凄いと思います」

本書の本質が「随筆」なのは
安野モヨコ氏が「漫画が思う様に描けなくなった」結果なのです。

「(趣味に)没頭して自分の本業と違うものを作るのは
とても楽しいし心が救われるものだ。
(中略)本業の方だって本来は楽しい筈なのだが
仕事だと結果を求めてしまう為に雑念が入り易い。
色々な意見や批判が気になり精神的に疲労する。
何が正解なのか分からなくなってくる。
毎日何が正解だったのか分からないものと
向き合うことはしんどいものだ。」

「私は(庵野から)映画「キューティーハニー」の
怪人のキャラクターデザインを任された事があった。
描いて出すと違うと言われる。
なのでやり直す。
再提出しても,また違うと言われる。
その工程はまるでモデルがないのに粘土の塊から何かを彫り出せと言われて呆然としながら削り出して行く様なやり方で
アシスタントさんの個人の資質に頼らず
「私自身の中にあるもの」を素材として渡す私のやり方とは根本的に違い
オマエ(安野モヨコ氏)の中にある
最高のものを出して来いよ!こんなもんじゃないだろ!
と言われ続ける(庵野の)やり方に物凄いストレスを感じた。
(庵野とは)二度と仕事をしたくないと思った。
だから長年(庵野と)一緒に仕事してるスタッフを心から尊敬する。」

と切ったら血の出る様な真情を吐露されている。

庵野監督は後書きで

「妻(安野モヨコ氏)は他人思いなので
作品も自分の満足よりも読者の事を考えて描いてます」
「相手に合わせて自分の意向を殺す事で
ストレスがたまり漫画が描けなくなったと思います」
「そしてそのストレスには結婚してから
僕から与えられたものもかなり含まれていると思います」
「全く申し訳ないです」

と書かれている。

「含まれていると思います」じゃねえよ!
キチンと対話しろよ!

安野モヨコ氏は庵野監督との生活に於ける自分の役割を
「(庵野(3歳児)の)お世話係」と呼び,
監督に苦心して「お湯の湧かし方」を覚えさせて
誕生日プレゼントに「お湯」を贈られた感激を漫画化されている。

「おたん生日おめでとう…プレゼントのお湯です(原文ママ)」

一体旦那から誕生日記念に「ぼくがはじめてわかしたお湯」を贈られて,
必要以上に喜ぶ事を要求される奥様が,他に居るのだろうか…。

「(飼猫に召使だと思われるまでもなく)私も自分の事は召使だと思ってる」

ってゾッとするような記述もある。

「エヴァンゲリオン」が「シン」でやっと完結して安野モヨコ氏は

「家族(庵野)が抱えていたひとつの大きな仕事を終わらせて
本当に本当にホッとした」

と真情を吐露されている。

「(庵野は)夢中になると「他の事」が見えなくなるからで,
仕事が佳境に入ると「生活」が上の空になる。
「生活」に於ける(庵野がやらかす)「しょうもないこと」が
毎日連続して波状攻撃となって押し寄せるので,
私自身も仕事などで色んな事がままならないときは
何度も叫びそうになった。」

それでも御自分を

「自分は常に脇役であって支える側の人間として生きて来た」
「(庵野と)結婚してからは彼のお世話をする係と思って生きている」

と規定する

「自分の人生なのに主役は自分ではなく自分は脇役に過ぎない」

と言う安野モヨコ氏の人生観に僕はガタガタ体が震えるのである。

最近主人公を取り巻く御近所世界の諸々の事象に
「僕がどう思ったか」を最も尊ぶ極度に自我の肥大した
「自分を中心に世界は回っている」との
徹底的な「自分ファースト」のアニメを観て辟易していたが,
安野モヨコ氏の「世界は自分を中心に回ってない」との見解は
「自分ファースト」の対極にあって
「本当の事」であるが故に臓腑を抉る破壊力を持っているのである。
コレが「夫への献身」とか「夫唱婦随」とかの耳障りの良い言葉で
世間に「美談」とされる事を徹底的に拒絶する
安野モヨコ氏の矜持なのである。

「シン・エヴァンゲリオン」に於いて
安野モヨコ氏が「やった事」は(庵野の)お世話係であって
「(SNSやブログ等で)様々な考察や感想などで
盛り上がっていただけるのは何よりなのだけれど
必要以上に私の事を作品と紐づけしたり,
ましてやそれで不快になるのは御容赦願いたい」

との言葉に申し訳ない気持ちで一杯になるのである。

本書が「監督不行届」の様に面白可笑しい内容ではないのは
安野モヨコ氏が読者を喜ばせる為に
「奉仕(サービス)」するのを止め
「創作の召使」である事を拒絶したからだと愚考する次第である。

本書の巻末には株式会社カラー10周年記念冊子に掲載された
「おおきなカブ(株)」が収録されている。

また本書には前著「監督不行届」の解説本的側面があり,
非常に度々「監督不行届」が引用されている事を勘案し
未読の方の本書と併せての
「監督不行届」の御購入を強くお勧めする次第です。

「新婚早々の妻の感慨」と「結婚20年目の妻の感慨」とは
斯くも違うものなのかと是非皆様にも驚いていただきたいのです。

「監督不行届」と「還暦不行届」の記念写真。両初版帯付。
オタクの端くれとして
「初版帯付」以外の本を買うくらいなら死んだ方がマシなのである。

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