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筒井康隆「短篇小説講義 増補版」レビュー

愛書家が決して犯してはならない誤りのひとつに「蔵書を手放す事」があって僕が大学を卒業して会社に入って2か月間三重県・鈴鹿でみっちり新入社員研修を受けている間に母親が僕の蔵書を残らず処分してしまったのだ。「掃除の邪魔だから」って理由を聞いた時の僕の心境は到底言葉では言い表せない。刃傷沙汰にならなかったのが今でも不思議だ。正式な会社員となってからは神田神保町の古本街を巡り,21世紀に入ってからはネットオークションをフル活用して「元に戻す」のに30年以上かかったのだ。この…途方もない時間の浪費を思えば「蔵書を手放し」て幾許かの金を得て,空腹を満たすなど愚の骨頂であると分かるだろう。

さて失われた本の中には筒井康隆氏の「短篇小説講義」(1990年)があったが筒井氏は「文学部・唯野教授」を上梓されてから岩波との関係が出来,岩波文庫から7つの短篇小説を選出して,作品内容について講義して欲しいとの依頼があったと言う。
筒井氏は短編小説が取り巻く状況を田辺聖子氏の言葉を引用して危惧する。

「短篇小説というのは,よくできましたといって赤で三重丸をつけてあげたくなるようなものがやたら多いので困ってしまう」

田辺氏はカルチュア・センター等で「短篇小説講義」なる授業が存在し「正しい短篇小説の書き方」を稽古事の様に学ぶ人が多いと言っているのである。
短篇小説は…そもそも小説という物は「何をどう書いてもいい自由な表現形式」の筈なのに「書き方の手引き・ノウハウ」が厳然として存在してるのはおかしいのではないか。
「書き方の手引き」に従って書く事の問題を筒井氏の友人で現にカルチュア・センターで多数の生徒を指導する文芸評論家の八橋一郎氏は次の様に嘆くのである。

「文学新人賞とか文学新人賞最終候補とか,それくらいはなんでもないことで,誰だってその程度までなら教えることができます。問題はそこから先なんですよ。新人賞をとってそれっきりってひとがほとんどで,大成するひとがいない」

稽古事として短篇小説作法を学んでると「賞をとる」事が目的となってしまって目的を達すると満足して書くのを辞めてしまい現代小説としての短篇小説の隆盛に全く繋がらないと言うのである。

では筒井氏が短篇小説を講義する意味とは何だろうか。
大学教授が講義するのは実は生徒に教える為ではなく,
自分自身の考えをまとめる為に自分自身に講義してると筒井氏は指摘する。
筒井氏は大学教授がそうである様に伝統を学んだ上で,その伝統をぶっ壊して全く新しい小説を書く為に自分自身に講義してると言うのである。

筒井氏の言葉を僕なりに裏付けると,僕は大学では数学を専攻してたのだが後に「国家の品格」を書かれた数学者・藤原正彦氏の随筆を愛読していた。
藤原氏は渡米して向こうの大学で数学を教えていて,講義の難解さ故に受講者ゼロとなっても誰も居ない教室で講義を続けた数学科の教授の話があった。
その教授は自分の考えをまとめる為に受講者が居ようと居まいと講義してたと藤原氏は結論してる。

「短篇小説講義」は2019年に増補版が上梓され短篇小説7傑に更に2傑を加えて9傑となっている。9番目の短篇小説「繁栄の昭和」は筒井氏自身の手によるもので,この小説のみ例外的に岩波文庫に収録されてない。にも拘らず収録された理由は「増補版後書き」を参照していただきたい。増補版の帯には「小説は何をどう書いてもいいのだ」との筒井氏の言葉がある。「正しい短篇小説の書き方」などを参考にすると作家としての未来も,短篇小説の未来も無いとの筒井氏の叫びが伝わって来る。

僕が一番好きな短篇小説は「悪魔の辞典」で有名なアンブロウズ・ビアスの「アウル・クリーク橋の一事件」。アイディアが飛び抜けて素晴らしく余りのアイディアの素晴らしさにロベール・アンリコ監督の「ふくろうの河」は本短篇小説を原作としている。フクロウとは英語でアウル(owl)と言うのである。また本短篇小説若しくは「ふくろうの河」はエイドリアン・ライン監督の「ジェイコブス・ラダー」に影響を与えているのが僕が推す理由である。

ゴーリキーの「二十六人の男と一人の少女」もいい。
僕はアニメファンでもあるので労働争議で闘争してた頃の宮崎駿氏にアニメ化して欲しいと願ってしまう。
ロシア文学と言うと「戦争と平和」を読み始めて最初の数頁で関心を失った恥ずかしい記憶が甦ってくる。
何とはなしにロシア文学に対して抱いていた苦手意識が筒井氏の名講義によって解消したかの様に思えて来るから不思議である。

何だかね…自分が学生に戻って「授業を受ける事の楽しさ・勉強する事の楽しさ」を満喫してる心地がするのである。
僕にとって思い入れのあるオススメの一冊ですね。



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