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映画「トランス 愛の晩餐」レビュー

女子高生のシモーヌ(デジレ―・ノスブッシュ)のロック・シンガー"R"への憧れ様と来たら, ヒトラーの集会の写真で群衆が「ジークハイル」の格好で手を差し伸べた先にヒトラーの代わりに"R"の写真を切り張りする程であるが,彼に心を込めてファンレターを送り彼からの返事を郵便局に張り込んで待ち続けるも一向に返事が来ない。
思春期特有の選民意識に支配された彼女は"R”を特別視する余り, 彼を特別視する自分自身をも「特別な存在」であると自意識が肥大し,「ファンレターの返事が来ない『その他大勢』に過ぎない自分」を到底受け入れられず,ヒッチハイクで彼の許に向かう。 直に彼を観て,彼に声を掛けられた感激に気絶する彼女であったが, そんな彼女に彼は優しく接し,遂に一夜を共にし彼女の優越感は頂点に達する。
だが翌朝彼の態度は急に素っ気なくなり ,彼女は自分が彼の性欲を満たす為の「その他大勢」の女のひとりに過ぎなかった事を思い知らされる。
嫌だ!そんな事実,到底受け入れられない!
彼女は彼を独占する為に,彼を殺害し,更なる凶行へと至らしめるのであった…。

監督のエックハルト・シュミットによるとシモーヌの衣装はナチス親衛隊の制服を模してデザインされ, 彼女が文字通り"R"の親衛隊員であることを表現しようとしたと言う。
粗筋紹介でも書いたがシモーヌの崇拝対象は“R“であって,その崇拝の仕方はナチス親衛隊がヒトラーを崇拝するが如きであったのだ。
監督のインタビューで頻出する口癖は「ざまあみろ」。
1982年のドイツにおいてナチス親衛隊のヒトラー崇拝を連想させる本作が年配の映画評論家達に受ける筈がない。
いや寧ろ年配の評論家の囂々たる非難を受け「ざまあみろ」と子供の様にベロを出す事こそ彼の本懐だったに違いないのだ。
本作の本質がヒトラーの寵愛を独り占め出来なかったナチス親衛隊の1隊員の物語とするのは「本質の半分」しか理解しておらず, ヒトラーの肉を喰って,自らの血肉の一部としようとした 何処か宗教儀式を思わせる行為にまで言及しなければ本作を理解した事にはならないだろう。
"R"を喰う行為は勿論空腹を満たす為でなく,彼と一体化する為の儀式であって, 一体化が完了すると彼女は剃髪して「出家」しているのだ。
彼女は自分が「その他大勢」の人間より「ステージが上」であることを誇示しているのだ。
「そんなに『皆と同じ』は嫌かねえ」と初老のオッサンの僕は思うのだが,彼女にとっては「他と違う」「同年代の女子と一線を画す存在」になることは人生の一大事であって, 例え後世において「シモーヌは中二病を拗らせた」と揶揄されようと止まる事は出来ない。
この「止まる事は出来ない」精神性こそ青春時代の一大特徴であって,
「青春時代は夢だと後からほのぼの思うもの」などでは断じてない。
森田公一は年を取ってから自分の青春時代を振り返ってこの歌詞を書いたのだろうが, それは「年寄りの感慨」であって若者が実感として感じてる恥ずかしくて苦しい青春では断じてないのだ。
だが森田公一が偉大なのは青春時代の真っ只中では「道に迷っているばかり」と喝破した点だろう。
本作においてはシモーヌが人を殺して喰って「出家」して…。
と大人から見て「恥ずかしい事」を繰り返してるが彼女もまた「道に迷っているばかり」で,その行動は滑稽だが本人は大真面目なのだ。
彼女の青春を「中二病」とラベルを貼って笑える人間は, 自分自身の恥ずかしい青春時代を忘れ去ったオイボレであると断言する。


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