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黒澤明監督の映画「生きる」レビュー「僕達はこれまで何もしておらず,これからも何もしない予定が未来永劫に続く「生きている死骸=ゾンビ」であり,ゾンビに生者の行動は永遠に理解出来ないのだ。」

胃のレントゲン写真が大写しになる。

コレは,この物語の主人公の胃袋である。
噴門部に胃癌の兆候が見えるが
本人は未だソレを知らない。

主人公の市役所職員・市民課長の渡辺が
書類に決裁印をつく姿が映し出される。

コレがこの物語の主人公である。
しかし今この男について語るのは退屈なだけだ。
なぜなら彼は時間を潰しているだけだから。
彼には生きた時間がない。
つまり彼は生きているとは言えないからである。

ダメだ。

これでは話にならない。
これでは死骸も同然だ。
いや実際この男は20年程前から死んでしまったのである。
その以前には少しは生きていた。
少しは仕事をしようとしたこともある。

渡辺が机の引き出しを開けると
「(市役所)事務効率化に関する私案」
と題された意見具申書が渡辺名義で眠っている。

しかし今やそういう意欲や情熱は少しもない。
そんなものは役職の煩雑極まる機構と
それが生み出す無意味な忙しさの中で
全く擦り減らしてしまったのである。

忙しい。
全く忙しい。

しかしこの男は本当は何もしていない。
この椅子を守ること以外のことは。

そしてこの世界では地位を守る為には
「何もしない」のが一番いいのである。

しかし一体これでいいのか。
一体これでいいのか。

この男が本気でそう考え出す為には
この男の胃がもっと悪くなり
それからもっと無駄な時間が
積み上げられる必要がある。

この映画には「解釈の余地」が全く無い。
「何もしない人間」は死骸同然であり,
死骸が生き返り「生きた時間」を過ごす為には
死の苦しみに藻掻き苦しみ
「生の実感」を味わう必要があると説き
オマエ達はこれまで何もして来ず
これからも何もする予定のない
ゾンビの群れだと弾劾してるのだ。

自分が胃癌である事を知った渡辺は動転し貯金をおろし
パチンコ,ダンスホール,酒,女…と遊興の限りを尽くした挙句,
市民の陳情に耳を傾け公園を作ることに尽力し始める。
つまり渡辺は錯乱した結果,「放蕩」の一環として公園を作り始めるのだ。

この映画の後半は公園が完成した夜,
胃の内出血で他界した渡辺の通夜の模様が描かれる。

市役所職員・助役等は皆一様に気まずそうな表情をしている。
彼等は「何もして来なかった死骸」の集まりであり,
その脳味噌が硬直し腐り果てた死骸が
「生きた時間」を過ごして
「何かして」死んで行った渡辺の評価を試みるが
結局誰も渡辺の業績を評価出来ない。

市役所職員の誰かが
「皆渡辺さんに続け!」
と怪気炎を上げるものの
翌日の市役所業務は千年一日の如きたらい回し業務で
何も変わらない日々が未来永劫に続き
これからも「生きている死骸」を生み続ける事が示唆されて映画は閉じる。

本作に感銘を受けた藤子不二雄先生は「劇画オバQ」の中で
本作の通夜の会話と「何も変わらない翌日」の模様を引用されている。

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