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映画「テリファー」レビュー「殺戮ピエロの「設定全部乗せ」は悪手だと思います。」

ハロウィンの夜に出現したピエロ姿の殺人魔が凶行を繰り返す様を描く。

ピエロ・ザ・アートは一言も発さず,年齢も性別も不明。
女を裸に剝いて開脚させて逆さ吊りにして
股からノコギリで頭に向かってギコギコして内臓が零れ出る描写は
「やりやがった…この野郎…やりやがった!」
と快哉を挙げました。
エンドロールで
ウェス・クレイヴン(エルム街の悪夢,スクリームシリーズ)
ジョージ・A・ロメロ(ゾンビ)
トビー・フーパ―(悪魔のいけにえ)
の3氏を追悼しておきながら
今までにない猟奇殺人鬼を描こうと言う意気を感じました。

庵野秀明監督の「シン・仮面ライダー」で
最後の敵は
本郷の兄であり
ゼロワンであり
イナズマンであり
V3であり…。
…と「属性」というか「設定」を盛り過ぎて
「設定のキメラ」と化してます。

本作に於けるピエロは
道化でありながら芸術家であり
定命でありながら不死であり
肉体を持ちながら霊魂であり
近接戦を得意としながら飛び道具も使う
男でありながら女であり
大人でありながら赤子であり…。
と「設定のデパート」になってます。

要するに!

ピエロが
「何が何だか訳の分からないもの」
と化してるんです。
上記に挙げた特徴で分かる訳ないじゃん!

何かを創作する際に「今までにないもの」を描こうとすると
例えば
「このピエロはこれこれこういった特徴がある」
と分析・断定される事を嫌う余り
「設定全部乗せ」
にするんですよ。
丁度「シン・仮面ライダー」の「ショッカーを束ねる者」みたいに。
創作者が創作の過程で「削る」工程が必要なのは
削らないと大林宣彦監督の「ねらわれた学園」のラスボスの
「私は宇宙そのものなのだ!」
になっちゃうから。
「シン・仮面ライダー」の庵野さんも
「テリファー」のダミアン・レオーネ監督も
ラスボスを何も削らない「宇宙そのもの」として描いたのが特徴ですね。
言っときますけど褒めてませんからね!
「削る事を怠るな!」
と叱ってるんです。

中二病の中二小説じゃあるまいし,
設定は「盛る」一方じゃダメでしょ。
盛った設定を「削ら」ないとダメでしょ。

「自分は何物にも縛られず自由奔放に創作するぞ」
と決意するのは結構ですが
「何が何だか訳の分からないもの」
を読んだり観たりさせられる側の身になって欲しいのです。
「何が何だか訳の分からないもの」の正体は
恐らく情熱とか創作意欲と呼ばれるものなのでしょう。

僕が読んだり観たりしたいのは
創作者が苦心して取捨選択した結果生じた創作物なんです。
情熱や創作意欲じゃありません。
情熱や創作意欲は創作物から感じ取るだけで十分です。
僕は「牛肉のステーキ」が好きなのであって
牧場で牛に噛み付くのが好きなんじゃありません。
「粗削り」と「無加工」は違うんです。
僕はねえ!
「自分が規定される事を恐れるな」
「創作物が分類される事を恐れるな」
「恐れてる内は中二病は治らない」
って話をしてるんです。



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