〇〇さんだからできたんでしょ?は死んでも言わん。
僕は今南伊豆で地方創生的なことをしている。
「南伊豆新聞」というローカルメディアとか、一対一でその人の日常を体験できるくらし体験サービス「南伊豆くらし図鑑」。地方で活躍されている先輩たちを訪ねて、学んだことを発表するイベント「ローカル×ローカル」。あとはイラストレーターとしてもチョコチョコやっている。
たまに、今やっている取り組みは一徹さんだからできたんでしょ?って言われるんだけど、「そうですよ」としか言えません。もちろん、前提としていろんな人のサポートあってですけどね。
ただ、ちょっとこのやりとりで間違えたくないのは「〇〇さんだからできた」は、まじで思考停止であって、何も前へ進まない。
例えばだけど、「星野源だからワールドツアーができたんでしょ」とか、「前澤友作だからいろんな人に1億のお年玉プレゼントみたいなことができたんでしょ」とか言う人いるけど、当たり前でしょ。
星野源だから、前澤友作だからできる世界があるんでしょ。
それの何がわるいの?って思うのですが、どうですか。
何かを実現させるために、挑戦というか、変化を重ねてきたからできる世界ってあるはずなんですよね、きっと。
例えば源さんだって、最初は手売りからスタートしている。しかも、いろんな人から「俳優に専念しろ」「音楽に専念しろ」だの散々言われていたと著書に書いてあったのを見かけた。それでも挫けず、やりたいことを同時に磨いていったから今の活動があるんだろう。
前澤さんも然りね。最初は自宅だったわけだし、会社設立の手続きの際に何度も法務局に足を運んだと話しているインタビューを見つけて面白かった。そこから実績をつくってきたわけでさ。
これまでの過程があるからできたわけであって、そりゃ本人たちでしかできないわけですよ。
そのバックヤードを無視して「あの人だからできるんでしょ?」ってその人を揶揄するのは、ものすごく自分を下げている行為だと思っている。勝手ながら。
こう言ったときに、「先天的な育ち(二代目的な)みたいなのはどうなんだ!」って言う人がいるのだけど、その人がそういった環境にあぐらをかけば自ずと成果は見えてくるし、その環境で努力する過酷さもちょっと考えたらそんなことをうかつに言わないんじゃないか。どうだろう。
て感じな話(自分の解釈をめちゃくちゃ入れてる)をキングコングの西野亮廣さんもvoicy「成功したければ〇〇は絶対使うな」で言ってて、まじでそう!ほんとそう!って唸ったし、あらためて言語化してくれてめちゃくちゃ感謝した。
世の中のほんとに?って思うことがいくつかあって、それを言語化してくれる人はすごく助かる。
ただ、こういう人たちが江戸時代、戦国時代だったらミスれば絶対に暗殺されていただろうなぁ(既存の価値観から脱却できない人たちの手によって)。w
価値観をアップデートさせる人にとって、殺されにくい時代だと思うし、その時代にいる自分は、自分を生きやすくさせている存在だと思っている。ありがとうございます。多少の変動はあれど、今日もわりと生きやすくなってるはずです
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