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断罪のポエム ②

書くものであるのに話し言葉を使わなければ不自然を感じ、それがあまりにも非日常的だと不自然を感じる。

その一方で、書く芸術のなんたるかを考えると この不自然に対してもやはり違和感はある。日本は近代に入ってより自然主義を主流にしてリアリズムというもの追いかけてきた。これはリアルを求めながら書いていくと言うわかりやすい主義である。簡単に日本語で言うのであれば写実主義になる。作品の中の非現実的な部分は確実に消していく。宇宙間戦争なんて起きるはずがない。なぜなら、現実にないからである。

しかし、誰が考えてもわかるように、現在流行っているような漫画やアニメや映画ドラマでは、日常的に起こりうるはずがない。超常的な言ってみれば、非科学的なことが起きても、なおその中に人間の自然を見ることができる。これを小説に置き換えて考えれば、非日常的な言葉を使っていても、現実のリアルを感じることができるはずである。 それなのに、そこに違和感を感じている。
話し言葉の中でも、日常使わない言葉を使っていると、何か不自然を感じる。どこか読んでいて恥ずかしさを感じる。

最初にロシアフォルマリズムをどうのこうのと言う話をしたが、少しだけ考えてみれば、大事な事は異化である。
噛み砕いてざっくり言うのであれば、現実を(少し)非自然的にも書くことによって馴染んでしまっている現実にもう一度目を向けると言うような内容で良いだろう。

これを踏まえれば 非日常的である書き方に不自然を覚えるのは、当たり前ではありつつもそれを持って現実を見なければいけない。それこそ芸術の役割であると言うふうに考えられる。しかしそれでもやはりおかしいものはおかしい。不自然に感じている。恥ずかしささえ感じている。これは何か。



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