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暫定的、今こうあるってだけだよ

キアヌリーブスがインタビュアーに「死んだあとはどうなると思いますか」そう問われ、「言えるのは一つだけ、愛してくれている人が悲しむ」と返した。
アートとは資本主義からの脱却を試みるものだ、アートとは資本主義的でないものだ。倒れた花瓶から滴る水のように、ただそれがあるだけ。対してデザインは我々に根付いた思想。資本主義的に作り出された表現方法だ。そこから出たかった者たちが作り上げた「作品」をTシャツにするこの愚かさと滑稽さとユーモラスさに人の進化を感じる。神聖な神さえ、二次創作で遊べる。有象無象のカオスティック。卵かけごはんに醤油が寝取りにくるBL同人、叫ぶ動画が音楽にされそれに合わせて踊る美女を見るリアクション動画、大スピリチュアル模索大会の中で行われる思考停止と神託を被ったただのジャッジ、AIで作り上げられた美女を操る中年男性SNS垢に集まる中年男性たち、「日本は、」と語り始める評価主義者が居なくなった後を想いながらこの文を打っている僕という豊かさ。本当に豊かだ。全部あってくれ、全部なくならないでくれ、ありがとう。

例えば/花譜 を聴きながら


数少ないお金を渦に変えた。この大きさでは砂くらいしか巻き込めないと中学生の時にガラス工芸展で買った砂時計を割った。そういう話をしたときにどうも反応が私の思い描く景色と違った。私の好んでやったことが誰かの気に障ることがあるのかと初めて感じた。TEDというプレゼン動画コンテンツがある。その中の特に感動したもののURLを友人に送ったが良いとは言ってくれたが想像したリアクションより小さかった。たて続けに感動した本、映画、アニメを送ったが未だに感想がない、多分見ていない。あれほど私に熱と感動を与えた作品群は行き場を失っている。ただ、ちゃんと知っている。この感動は私だけのものであって、他はなく、私だけ化学反応だ。だけれども、美しい景色を「美しいね」と言い合える相手は欲しい。「おいしいね」「おもしろいね」と言いたいではないか。渦に砂を注ぎながら考える。無理に砂時計を壊さず水でもよかったのか。そういうのを後悔とよぶ人や、今思いついたのは最善のタイミングだったからからだと思う人がいるだろうな。後者の考え方に嫌悪する人もいるだろう。どうして嫌悪するのだろうか、どういう感情プログラムが働いて、目の前の現象が怒りに変換されるのだろうか。透明なものが人の中で、様々な個体の中でデザインされ表現される。クリエイティブなことなのに、苦しんでいる人もいたりする。どうやっても「プレイ」そうなりきって遊んでいるように僕からは見える。飛び散った砂を神のお告げにも、写真のモデルにも、二度とない砂粒の分布として楽しむことも、違った妄想に更けながら眺めることも選べる。飛び散った砂だけで無限なのだ。目の前の無限と僕という無限で、、、。珈琲でも煎れよう、ちょっと丁寧にやってみよう。

Parasite/GoGo Penguin を聴きながら

宇宙は暫定的なんだよ、思想も意見も自我さえも変わるんだよ。忘れないで過去をベースにものを考えないで、同じことなど二度と起こらないんだ。経験を当てはめて語っているだけなんだ、新しいことを理解するには脳が嫌がる、脳は常に最適化された習慣を選びカロリー消費を抑える。初めてをあたかも昔あった方のように当てはめている。あの時の気分を思い出し、その気分になりきっている。そういう「プレイ」をしているだけだ。大切なことも重要なこともそう信じていることも、そういうプレイをしている自分が居るだけなんだ。自分の在り方さえ選べる。そういう自由をみんな手にしている。同じじゃなくていい、違ってると怖がらなくていい、もちろん怖がってもいい。でも、ちょっとでも気が楽になるように。お湯が沸いた。珈琲だ。

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