私が2回も同じ就労移行支援事業所に通い障害者雇用を目指すわけ

私は以前、障害者雇用(オープン就労)で就職し、失敗している。
そのときは、就労移行支援事業所という福祉サービスを利用した。

そして今、まったく同じところに再び通っている。

1度目の利用は2017年で、1年3ケ月を経て2018年にめでたく就職し卒業。
だがなんと3ケ月後にその会社を辞職した
なんやかんやあって再び通所開始となったのは2020年も末のこと。
 
そう。
「出戻り」だ。
同じ事業所の、同じセンターに。出戻り。
 
いやいやいやいや、ないでしょ。
ひくわー。
恥ずかしいにもほどがある。
いやだって、卒業前に覚えたてのPowerPoint使って「就職までの軌跡」をプレゼンまでして華々しく卒業しておいて。仲のよかった利用者さんに餞別まで頂いておいてよ?
 
「へへへ…すみません、もっかいお世話にならせてください…」
なんて感じで。
 
そんないびつな気持ちで再びその門をくぐることになって1か月は体調が安定しなかったのも仕方ないのかもしれない。
 
当時私が入社したのはIT企業のT社。総務部からの業務の一部を担う障害者部署だった。
T社はITアウトソーシング業務を核に、派遣業務や海外での業務展開をしている規模の大きな企業だったと記憶している。
障害者雇用に積極的に取り組んでいる企業で、企業見学をさせて頂いたり人事の方が事業所に来られて企業講座を行って頂けたつながりで応募を決め、合同面接会から3次面接を経て入社した。
環境としては事務・Web系の障害者が広いワンフロアに集まって業務をしており、精神保健福祉士が常駐している。オフィスは明るくデスクも広く仕事がしやすい。
環境的に何も問題ない、と今でも思っている企業だった。
 
そこでどうして私は失敗してしまったのか。

結論から言うと「就労できる準備がまるで整っていなかった」の一言に尽きる。
 
私にはうつ病と同じ気分障害のカテゴリの「気分変調症」という障がいがある。
仕事でうつ病を発症して、初めて精神科に係りそう診断を受けた。
うつ病はある出来事をきっかけとして、ひどく落ち込んだり自分には何の価値もないと思い込んだり、風呂に入ったり食事をする気力がなくなったり眠れなかったりする。
ひどいと命を絶ちたい、いやこの世から自分の存在を消してしまいたいと思ったりする。ただ、投薬治療と休養に専念できる生活を送れば寛解する。

それに対し気分変調症はきっかけがはっきりしない。
発症は思春期頃が多いとされる。普通にご飯も食べるし眠ることもできる。学校や職場にも行ける。存在を消したいからと自殺未遂もしない。
ただ、いつもいつも、24時間365日、ただただ気持ちが暗い。
嬉しいことがあっても、
「だからってそれがなんだというんだろう。なにも意味なんかない」
と、その嬉しさは瞬時に抹消した。
私はいつも虚しいだけで、ただ息をしていただけだ。

この障害になる引き金となる原因は取り立ててあるわけではない。
私の場合も、いつのころからか、なんとなく私はこうだった。
おまけにこの障害は治らないという。
だから、私はもうそういう暗い性格だと思い込んできたしそう思われてきた。
たまに違う、少しうきうきした気分や明るい自分が顔を出すと罪悪感すら覚えるほどに、障がいは自分自身だった。
そしてそんな状態で40年ほども生きてきたので、改めてどういう時に苦しいのか、何を感じるのか、どう対処できるのかとか考えようとも思わなかった。
自分はただ、息をしているだけの、肉塊に過ぎない。
金にも仕事にも男にも自堕落に生きてきた。
当然、肉塊としてふさわしい評価をされ、誰からも信頼されなかった。
寂しかった。

そんな私だから、1回目の就労移行支援事業所の利用の時は、スキルを身に着けたとき、一人前の社会人としてやっていける気がしていた。
でも自分について何もわかっていないままだったのだ。
そして支援員もそれを見破れず、就職した。
だが支援員のせいではない。断じて。


就職後も、事実としての自分を受け入れられなかった。
ものすごい劣等感や、仕事で認められたいという強すぎる欲求、同じ部署で働く人たちと協調していくこと、それらすべてに対して何一つできないまま、退職した。
上司や精神保健福祉士に(PSW)相談することはできていた。
けれど就労移行支援事業所の定着支援での相談はしていなかった。
おまけに自分に何が起きているのか、そして状況はどうなのか理解ができていなかった。
したがって相談の要領も得なかったので、なにひとつ解決しなかった。

そもそもの話。
私は自分の障害だけでなくさまざまな生きづらさを自分で背負ってはこなかった。

…人は1人で生きていけない生物なわけで、もともと群れを成し、協力し合って生き抜いてきたのだ。
その社会で生み出される弱者の1つが障害者、というだけだ。
私の親も生きづらさを抱えてきた。その親もだ。
—誰のせいでもない。あえて言うなら時代のせいか。


なのに私は自分におこる不都合のほとんどすべてをなにかのせいにしてきた。
 
「私が障害者になったのは自分優先の親のせいだ。
教育や慈愛の機能なんてなかった家庭のせいだ。
私はいつも親の機嫌を気にして生きていて、辛い思いを強いられてきた。
いつも1人だった。
学校は劣等生を排除するシステムで誰も助けてくれなかった。
仕事ではいつもできないやつ扱い。
誰かが優しく教えてくれればできたのに。
そもそも氷河期とか世代的に一番わりくってるし。
国だって派遣法改正したり年金とか減らしたり。
みんなが私に冷たかった。
そうじゃなきゃ少なくとも精神疾患にはならなかった・・・!」
 
そんな風に思っていた。自分のことを自身で何とかしていこうという気概が全くなかった。

仕事や能力といった部分に執着した。だから働くということにも執着があったらしい。
自分に合う働き方やベースになるものを探し求めた。

ほんとうにいろんなところで働いた。
だけど自分なりに精一杯やってきたつもりの障害者就労で失敗した。

(今ならわかるが、確かに当時私はこれまでにないほど一生懸命自分に向き合ったつもりだった。だが、やりかたがわかっておらず、方法が完全に間違っていたのだ。今の支援員のいちいち方向性を確認してくれる支援スタイルのおかげで理解できた。)


だから自分は組織には合わないのではと考えた。
「もともと企業で働くような器ではないのだ」
そう思うしかなかった。
でもフリーランスでなら働けるかもしれない、となった。


この考え方の裏には、まだ「社会不適合者としてしか生きられない被害者の私」
という意識がある。
自分を社会のゴミだという意識。

そういえば。
はるか昔中学生のころ、私は将来は仙人になりたいと思っていた。
当然仙人が何かわかっていないが、仙人になればきっと世の中の煩わしいことから無縁で生きていけるのだと思っていたから。

…もちろんそれは、現実逃避のためだ。

そして大人になった私が、それを自分なりに現実に寄せた選択が「フリーランス」だった。ただ、フリーランスで何をやるかが問題だった。
私は昔から絵や文章や歌が得意で。
だけどそれらがたやすく生きる糧を生むような職業に結び付かないこともわかっていた。
本気でプロに挑戦する気概もない。
というか、それにふさわしくあるために磨くこともしない。

ただ、文章に関しては「Webで記事作成する」つまりライターとしての活路を見出したのである。
しかもなんかフリーランスライターって、家で、カフェで、コワーキングスペースで優雅に文章書いているイメージ。
あこがれた。


それで食べていけるようになろう。


そう思って、Webライティングを外注で受け始めた。
(たまたまSEOライティングだった)
クライアントのサイトでリフォーム関係の記事を書いているうちに、力を認められて様々なことを任せてもらえた。
記事作成、リライト、添削とフォロー、専門サイトの動脈つくり、チャットルームでのフォローなどを並行していた。

そしてライティングをしている中で、クライアントがアフィリエイターであることから、そもそものWebマーケティングに興味を持ち、自分で記事添削サイトを立ち上げた。ブログを1日に1つは書いた。サイトの分析ツールを使い分析し、ろくに使っていなかったTwitterを集客のために始めた。何も知らないマーケティングに必要な情報をインプットするために、空いている時間は動画視聴していた。
さらにWebマーケティングに至ってはコンサルタントに教えてもらいながらだったので、コンサル代を稼ぐために短期派遣のフルタイムをこなしていた。

その後はコンサルタントがディレクションする案件でライティングを任せてもらえて、SEO記事を書き続けた(これは収益が発生した)。

まさしく、寝る時間とお風呂の時間以外は全て仕事に費やしている状態だった。

—―結果、めでたくうつ病を再発。
(しかも、この1年間、自分の集客では収益を生んでいない。)
私はひとつも、なにも、成しえていなかった。
残ったのは、この事実だけ。

……疲れ果ててしまった。
もう、生きるのに疲れてしまった。
何をやっても、何を頑張っても私では何もできない。
生きることすらできない。


毎日泣いて暮らした。
悲しいとかそんな甘いものではない。
私の中の全てが限界だと悲鳴を上げていた。それが涙として毎日あふれかえった。
ただ、ただ、泣いた。
そして泣かない間は無力感。罪悪感。無能感。自己嫌悪。あらゆるネガティブな感情にさいなまれる。

何もしない日々。
何もできない日々。
仕事はもちろん、人とのつながりも、あれほど打ち込んでいたライティング関係も、好きな音楽も歌も、絵も。
何もしたくなかった。

ただ眠り、ただ起きて天井を見上げては、火が付いたように泣きじゃくり、泣き止んでは眠り、腹は減るからご飯は食べた。


おりしも世間ではコロナとか言うやつが猛威を振るい始めたころだった。
2020年の5月ごろ。
あまりにも動かな過ぎて私の血流がどうかなったのか、風呂に入るだけで呼吸困難を起こした。生まれて初めて命の危機と死の恐怖を感じた。
徒歩5分のところに行くのに息切れがして歩けなくなったからおかしいとは思っていたのだが、さすがの私も少し何かをしなければ、と思い始めた。
それくらいから少しずつ動いて言った記憶がなくもない。(私は時系列で記憶することが苦手で、「いろんなことがあった」という認識しかないことが多い)

ただ、その時の私を褒めてやりたいことが1つだけある。

「何もしない私を許そう」
と思えたことだ。


もちろんすぐにはムリだった。
だけど、徐々に徐々に、何もしない生活を送ることを受け入れて、秋ごろには絵を描くことも楽しめるようにすらなった。
だって、絵を描くことしかしなかったから。
それで今はいい、とおもえるようになったのだ。
ずっと絵に没頭した。
ずっと描いて描いて、描きまくって、気が済み始めたころ(今気づいたが、気が済む、というのは「気が澄む」からきてるのだろうか」。
24時間をフリーに使うより一定の決められた時間で働くシステムの中にいるほうが私は落ち着くようだ、と気づいた。


だから、再び就労移行支援事業所に通って、障害者雇用でもう一度やってみようと思い立った。

最初は前回と同じ事業所だと私もスタッフもきまずいから、違う場所にしようと思ったが、この事業所自体に信頼をしていたため、今回もお世話になろうと思った。


それが2020年12月。

ここから、担当支援員I氏と向き合う中で、人として大事なものを取り戻せるまでになっていったのである。


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