1年で6月が絶不調!2022年もカオス

2022年6月前半、私の精神はカオスだった。
毎年6月は心身の不調の波が激しいだけでなく、なんらかのトラブルが起こっていた。

2021年は攻撃的だったし、2020年はコロナ禍でうつ病療養の最中、あまりに動かなさ過ぎて血流が悪くなって、呼吸するのも絶え絶えだった。

その前はフリーランスとして外注でWeb記事を書いていたが、精神不安定のため納期を守れずクライアントに怒られ(自業自得)、その前は障害者雇用での入社2日前にぎっくり腰になり入社を1週間遅らせてもらった。

本当にろくなことがない。
 
今年2022年も例外でなかった。
就労移行支援での大事な決断の時がこの時期に重なった。

信頼関係とは、居場所とは、こんなにも簡単に崩れてしまうとは!!と大号泣していた。
 
何が起こったのか書いてみようと思う。
もちろん今は持ち直しているのでこうしてブログにまとめられている次第。

ことの始まりはN社の内々定正式辞退

そもそもは5月に実習をさせて頂いたN社から、「ぜひうちにきてください」とありがたいお言葉を頂いたことがきっかけだった。

N社は私にとって理想的な環境だった。
ただいかんせん通勤距離と負荷が懸念材料だった。
業務の負荷はあまりかからなくても、通勤の負荷で疲れてしまうと精神的不調や生活の不摂生などがおこりやすい。

「前回の障害者雇用での就労の失敗を繰り返さないために、自分に余裕がもてる会社か見極める」

これが今回N社での実習の目的だった。

決断できない

いざ実習を受けると、N社は理想的な会社だった。ハード面、ソフト面。土地環境。
そもそも行きたいと思っていた会社だ。
マイナス面はただ一点、勤務地が遠い=通勤の負荷がかかるということ、それだけだった。

しかし同時に、私にはまだ時間があり、この会社よりも向いている会社を探す余裕があった。

自分の気持ちはどうなのか。
実際にそれを見極めたい。

だから、「この会社で働きたい」という気持ちと「長年働くことを考えたときの通勤からくる体の負荷」を天秤にかけながら、実習では自分の気持ちを見ていた。

—―「何が何でもここで働きたいとは思えない」
結果的にそれが答えだった。

――だけど、愚かにも私は既に去り際の「美」を何度も描いていたのだ。


「実質1社目で、いい会社に入れてよかった」
そうみんなにそう祝われながら卒業したい。
華々しくきれいに卒業していく自分。
ちゃんと理想の会社を見つけ、笑顔で担当支援者にお礼を言って卒業する。

そういう、変なプライドのような見栄が強く働いた。
かなり強く。
 
でも自分の中にいる、「ここじゃない」と言う私。

激しい葛藤の始まりだった。
I氏も「やめたほうがいい」と考えているのはわかった。
もちろん利用者に結論を任せるのが支援者としてのスタンスなので何も言わない。

承認欲求を満たしたい。
でもI氏の意向に背く。
私自身の気持ちにも背いている。

答えを出せない
決められない。

もはやメリットデメリットの問題ではなく、この位置から動く決断をしたくない。

そんなふうになってしまった。

—―誰かに決めてほしい。
私は決める軸がブレブレになった優柔不断の塊となった。
そして、I氏の質問に流される形で、いったんは「N社の配慮次第で入社する」というなかなか情けない結論を出した。
 
それを聞いたとたん、担当スタッフI氏の態度が硬化した。
 

ごめんなさい~失望された

「最後は自分の前向きな意思で入社を決めてほしかった」

そんな台詞のあと段取りを簡単に確認してI氏は席を立った。
 
「怒っている」
そう感じた。
 
支援員としての意識が高いからか、普段は全くと言っていいほど内面を出さない。
(他の支援員もださないが、I氏は特に出す範囲が極端に狭い。)
だけど、このときは横顔に怒りというか苛立ち、やりきれなさみたいなものが混ざった感情
が垣間見えた。

気にしすぎだろうか。
いや、絶対怒ってた。

そう思った。
(後日I氏に「怒っていましたか?」と聞いたら、
「そう見えましたか」と返ってきた。
イエスともノーとも返してこないのは支援員としての回答なのか、真実だからかはわからない。)
 
だが、この際それが事実かどうかは問題ではない。
 
私は失望されたのだ。
もう、おわりだ
ごめんなさい
怒らないで
取り返しのつかないことをした
 
その感情がすべてだった。

そして私自身、N社に行くと言ったその瞬間に後悔の念にさいなまれた。

悔しい。
自分自身で納得してないまま、中途半端な答えを出した。
こんな大事な時に、納得した答えが出せなかった。

痛い。
I氏に失望された。
確かな信頼関係を結び、私のために誠意を尽くして多方面にはたらきかけ、ここまで来させてくれたI氏の気持ちを無碍にした。

苦しい。
私の気持ちが見えない。
どこにいったの?私の気持ちは。どうしたいの?N社でいいの?

わからない、見えない、どうしたらいいかわからない。

こういう捻じれた感情がさらに捻じれてとぐろを巻いていた。
私はみるみる飲み込まれ、まるで蛇にのまれたカエルのようにただ苦しみ死に至る気持ちですらいた。


人に苦しみ人に救われた

私はその日、カリキュラム終了後に帰宅するべく駅に向かっていた。

でも気持ちがぐちゃぐちゃのままだった。

来週には先方に連絡がいき、私の内定が出る。
5月中はムリでも6月の週には健康診断に行き、2週目にはあの会社に入社するのだ。

ここを離れて。
I氏から離れて—―

嫌だ、嫌だ、ムリだ、会社じゃない、会社が嫌なんじゃない。仕事が嫌なんじゃない。
それは実習でちゃんとわかった。

そうじゃない。
まだI氏と離れたくない。
誇らしく卒業なんかできない。

なんてことだろう—―

駅まで耐えられず、近くの並木通りで座り込む。
涙があふれる。

そこに、日ごろから仲良くさせてもらっているKさんが通りかかった。
掃除当番だったので、私より遅く事業所を出たのだろう。

彼女は私を見るなりびっくりしたように駆け寄ってきた。

「泣いてるの?大丈夫?」

そして座り込んでいる私を上から抱きしめた。
私は人からそんなことをされると思わず、驚いた。

でも、
「いいよ、泣いていいよ。泣いたほうがいいよ、こういう時は」

そう言って、なだめるように背中をとんとん、と叩いてくれているその手の優しさに、もうこらえきれなかった。

堰を切ったように涙があふれかえり、ただ泣いた。

一応外だから、嗚咽は抑えてはいた。

けれど、こんなに苦しく悲しい時、私はいつも1人でなんとかしてきたから、背中を包んで抱きしめてくれたことが本当に嬉しかった。

私は、1人じゃなかった。

安心して、まるで転んでけがをした子供のように泣きじゃくった。
泣いて、泣いて、泣いて。

そのあとに残ったのは、ただ一つの「決断」だった。
「N社を辞退する」

自分の中を丸ごと吐き出したために、余計なものが一気に削がれていったのだ。
何のことはない、残ったのは私の意思だった。

「今からでも間に合うかなあ」
そうきいた私に、彼女は笑って言った。
「大丈夫だよ、Iさんなら何とかしてくれるよ。」

彼女は、

「自分がつらくて苦しかった時に、私が自分をいつも助けてくれた。
励ましてくれた。
いつも強くて、障害特性を感じさせないくらいなのに、そんなitsukoさんが泣いているのを放っておくことなんかできなかった」

と言ってくれた。

私は確かによく彼女の体調が悪いときなんかに話を聞いていたのだけれど、そんな風に受け取ってもらえてるとは思っていなかった。

戸惑いは正直あった。
私は自分で自分のことを冷酷な人間ではないのかとすら思っていたから。

でも、恥ずかしくはあったが、本当に嬉しかった。
人とのつながりを家族以外にちゃんと感じた時だった。

もし、彼女に今の私と同じようなことが起こったら、私も同じようにしてあげたい。
そう思えた。

多分そこからだ。
私の中に、「人になにかをしてあげたい」と積極的に思うようになったのは。

それは、私の流れを大きく変えていった。



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