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短編ラノベ「月蝕温泉、沼正三」

「或の作品は揺籃なんだよ、滅んでしまった民族のための」
「死んでいるのは君だけだよ、沼君」
「君も気付くと良い、僕たちの滅びについて。僕の揺り籠の中で。」
沼正三と名乗った男が誰であるのか、僕は論評の言葉を失う。彼の影ばかりが部屋の片隅に向かって伸びて、延びゆく。不穏。

男の蜃気楼が揺らめいていた。
嗤い声が谺している。
嘲笑だろうか。
自分自身への。
或いは僕に対する。

--------------

「変な女に話し掛けられた。」と部屋に入るなり彼は言った。
丸い眼鏡に丸い帽子を被っていた。外套を脱ぎながら、彼は其う云った。
「それで、少々遅れた。」

沼正三氏は物静かな紳士である。
沼正三という人物は数年前に「奇譚クラブ」という奇矯な低俗雑誌に奇矯な連載を始めたことで暫く巷の文化人を騒がせた名前である。
其れ以前に誰も沼氏の名前を知らなかったし、其の無名の人間が「栄えある」奇譚クラブという雑誌に突如、連載が開始され、あまつさえその内容とは、何んな過激の文化人でも及ばないような卑俗なエッセンスの凝固物であったのだ。その内容、或いはその描写の執拗さについて、偏奇に慣れた筈の奇譚クラブ愛好家たちでも喫驚を覚えたし、況してや、沼氏の素性を今以て誰も知らない。覆面作家「沼正三」の名前が巷間の噂の的になるのも無理からぬ話であった。

外套を脱いだ沼君に僕は訊いた。
「変な女って何んな女だい?」
「其うだな、着物を着ていた。」
「今時?」
「何事か分からぬ恨み言を言われた。」
「物狂いか。」
「君が何処かでひっかけた女じゃないか?長い恨み言であった。」


さて、この自称「沼氏」と僕は既知の仲であった。数年前に新宿花園神社の傍にあるゴミゴミしたバーで、雑誌社の人間から彼を紹介された。自らを沼正三と名乗り、沼正三のような事を話すので、僕も其の座興に付き合っているが、此の人物が本物の沼氏かどうかは、僕にとって何うだって可い事であるので詮索しない。
僕もまた文章を売って日銭を稼ぐ身であるので、此のような余興に乗ること、つまりは受動的奇行も亦たやぶさかでないのである。

詰まる所、僕たちは気が合った。此うして別段用向きも無いのに僕たちは会合する程に。
初対面の時から僕たちは大いに酔い、逢引部屋や女郎小屋の並んだ卑俗の街を思う儘に闊歩したのだ。
僕たちは未だ若く、豪胆と悪ふざけの区別もつかず、果敢に不道徳に挑戦した。女郎小屋に乗り込み、幕末の志士さながら女郎を囲って部屋を占拠した。

そして自称、沼氏は酒を飲むと大層、面白い男であった。博学な多読家であり、僕の最近の著作などを慇懃無礼に論評する。其の酔に任せた直截な物言いが面白い。故に僕も文章を書く度に雑誌社の人間を通して自称、沼氏に自著を謹呈する次第であった。

此頃、僕は現代文学とギリシャ神話に因む新たな論評を長い期間に渡って連載し、漸く完結をしたので、暫く筆を休めようと数日間の温泉郷への逗留を決めた。此処は僕の文章の先生が長らく滞在したという以外、何もない温泉街である。此の何もない、東京から三余時間離れた温泉郷に、僕は奇特にも沼氏を呼んだのである。

小さな渓流の両端に出来上がった温泉場であるので、宿にいると始終、滝と間違うような渓流の音が聞こえる。此れが俗事を払うのに可い。僕は此処が気に入っているのだ。

渓流の左右の岸を繋ぐ赤い橋に掛かった紅葉の色が熟す季節であった。

「最近名前を見ないじゃないか」
沼正三氏のことは誰も知らない。暫く「奇譚クラブ」の連載は中止していた。右だか左だか圧力団体からの抗議があった為だと専ら噂されていたが、単に本人の多忙の為だとも云われていた。
「一体、先生は何うしたのかね。」

「止してくれよ。」
沼氏は座椅子に腰掛けて笑った。
「僕は元来、文壇の人間じゃないんだ。気紛れで連載したものが、偶々好事家の耳目を集めて仕舞った。毛頭続けるつもりも無かったんだ。」

「しかし、君、其れじゃ奇矯のファンが納得しない。」と誂うと
「其うは言ってもなあ。」

と沼君は頭を掻いた。
「僕に其ういうものを求められても困るんだ。」
「或んなものを書いているのにかい?」
「其うなんだ」
「君を紹介してくれた雑誌社の奴なんて相当、心酔していたじゃないか。彼は新装開店した例のSM倶楽部に通っているんだろう?」
「其うらしいね。」
「奇特なことだ。椅子になってみたり、痰壺になってみたり、或いは便器になってみたりする。其ういった行為をマゾヒズムの新基軸と崇めている。君は一躍、新興宗教の教主だよ。」
「何うやら、其うだね。」
「所が君と来たら、新しいマゾヒズムに対してまるで他人事じゃないか。現人神の性的嗜好は何処にあるんだい?」
「まあ、其んな話は良いさ。其ういうのは編集の彼に任せておけば良いんだ。」
「君の愛好者は揃って肉体改造を試みるからな。直ぐに分かる。」


其の時。女中が洗いたての手拭いを持ってきてくれたので、僕たちは揃って湯浴みに行くことにした。

女中。
女だ。
まだ年若い。
奉公だろうか。

沼君、未通女か何うか賭けようじゃないか。

止せやい。失礼だぜ。

僕は立派な淑女と見るね。
何なら直截聞いてくれたって良い。
いいや、それとも口説けば分かる。
口説いてみるかい。
少女が床ではどんな顔をするか。
仮面を剥ぎ取って見たくはないかい。

止し給え。
君。

沼君の声が少し冷たい声色を帯びたので、僕ははっとして彼の顔を見た。いつも通りの彼だった。僕は安堵してまた下らぬ話に身を貶した。

女は、下らない。

浴衣を着てギシギシと軋む板敷きの廊下を歩いていると、番頭の親父に擦れ違った。
「今晩はどうされますか?」
と親父が言う。

「どうするって何がだ。」
と沼氏が聞いた。
「何もかにも」と親父が言う。
「此れでございますよ。」
と下卑て小指を立てた。
「なんだいつから此の宿は女郎を扱うようになった。」
と僕が聞くと、
「もうずっと前からですよ」
と答える。
「此の界隈も変わったものだ。」
「何を仰います。もっと過激な宿だって御座いますよ。」
「過激って何だ」
「お定、をご存知ですか?」
「定、と言えば、例の定か。」
「例の定が、此の界隈に来ておりまして、酌をする宿がありますよ。」
「酌だけか」
「表向きは。しかし多淫性と診断下された女生で御座います故。」
「床もあるか。」
「手前共には分かりませぬ。」
「沼君、聞いたか。此んなに君向きの話はない。」
沼君は「僕の出る幕では無いよ。」と笑っていた。「すっかり君向きの話だ。」
其うして番頭は僕たちに「さ、何うされますか」と問い詰めた。
問い詰められても、生憎僕たちは其ういう者ではない。

「考えてみれば、僕は此の宿は初めてだ。どうやら、可笑しな具合だ。」
と僕はすっかり参った。
「沼君、何うしよう?」と僕は沼君に聞いた。

沼君は笑って手を振った。
「其うか。」と僕は言って親父に

「良いんだ」と断った。
親父は変な顔をして過ぎた。

「其う其う。」その過ぎようとした番頭が振り返って言った。
「お連れ様から遅れると連絡がありましたよ。」

「連れって誰だい?」
僕に覚えはない。

「何、実は編集の彼だよ。変態紳士の。」
つい不機嫌になった僕に沼君が言った。

「奴?」
「呼んだんだ。彼の偏愛志向は良い肴になりそうだから」
「何だ。其うか。」
「いけなかったかい?」
「可いさ。」

「其のお連れ様から、とびきりの女郎の手配を、と承ったので御座います。なんでも特別のご趣味をお持ちだとか。」
余計な真似を。
変態紳士の考えそうな事だ。全く風情を理解しない。とびきりの下衆だ。

「其れで手配を何うしましょうか、と。」
言った番頭を沼君が遮った。
「無用です。」

浴衣を脱いで僕たちは並んでランニングシャツと、ブリーフ一枚になった。鏡の前に僕たちはオリンピック選手のようであった。高飛びの選手の様に精悍であった。ランニングシャツを脱ぐとオリンピック選手がギリシャ彫刻に変わった。最後に残ったブリーフすらも脱いで仕舞って、ガラス戸を開けて露天風呂に入った。
湯浴みをしながら「遠慮は要らなかったんだぜ」と言うと、沼君は「何、可いんだ」と矢張り云った。

露天に月が浮いていた。温泉郷に浮かぶ月のなんとも軽薄なこと。
「何うして此う、月ってものは薄っぺらいんだろう。」
僕が言うと、沼君は夜天を見上げて
「其うか」と頷いた。
「君は心のうちに太陽を持っているのだ。だから、君の心からしてみれば、月というものが何とも薄弱に映るのだろうな。」
と云った。
「太陽か。」僕はその論評が気に入った。「君に謂われると其んな気がして来た。確かに僕の中には太陽がある。太陽が僕の胃液を滾らせている。」
「しかし」と沼君が言った。
「自重し給え。太陽は御せぬもの。放置すれば何れ君自身の身を焦がすのだ。」と今度は僕を訓しめた。

僕は水を挿されて「其れなら君にはどう映るのだ。」とぶっきらぼうに尋ねた。
「何の、僕にはとても眩しい。夜天を照らす月程眩しいものはない。君と違って僕の心には何もない。自らの光がない。僕の心は暗闇なのだ。芭蕉の句にもある。月天心貧しき町を通りけり。明かりの灯らぬ町に月は煌々と眩しいものなのだ。」と沼君は言うのであった。

湯の面に月が揺らめいていた。
月だ。
此れは実在だろうか。
其れ共、僕の心の揺らぎが見せる心象であろうか。
沼君、と一緒にいるとセンチメンタルな気持ちになる。
「李白はどうだい?沼君。」
「船遊びに酔って、最後は川面の月を取ろうとして、溺れ死んだと言うね。」
「月を取ってみては如何かな?」
「月は取れぬ。」
「其うじゃない。月を取ろうとして、一歩此方に寄ってみては如何かな、と申したのだ。」
沼君が一歩寄った。
「二人で露天風呂の月を取ろうとする。こんな興趣があっても良い。」
其う言って僕は立ち上がった。
僕の裸体を水玉が弾けて零れ落ちた。

人体に於いて筋肉の丘陵が描くなだらかな曲線が僕は好きだ。ギリシアの彫刻が題材として鍛錬された肉体を取り扱ったことに僕は共感を覚える。
彼らの培った石の文化にはやはり硬質の筋肉が似合うのだ。亜細亜は木の文化であるから彫刻にはお腹の出っ張った太っちょもいる。
木の柔らかな素材は贅肉が似合うのだろう。仏像が女体と化していったことも、その素材の持つ風味が大きく影響していて、木という材質が、筋骨の隆起を(芸術家の感性のうちに)表現するに至らない素材であったからではないか。以上の仮定から僕は圧倒的にヨオロッパ的な感性を支持する。

「何うだい、沼君。僕の裸体は。月の光を浴びて、光っているだろう。」
光るということは隆起による陰影に他ならない。詰まり、筋肉の張った男性性に他ならない。


風呂から上がると部屋には夕餉の支度がされて、女中が僕たちを待ちわびていた。山の獣肉や山鳥、茸などが味噌鍋になっていた。小鉢には蕨などの山菜がお浸しになっている。宿の庭で野菜を作っているのだという。茄子の焼かれたものが皮を焦がして皿に載っていた。椎茸を焼いたものが同じ皿に添えられている。これらは醤油を垂らして食べるのだそうだ。獣肉も山鳥も山菜も、このような野趣はちょっと、東京では見ない。
「食べよう」と僕は云った。

「沼君、新しい小説の話を聞かせてくれよ」と僕は鍋をつつきながらせがんだ。
「彼は東京の有名な先生なんだぜ」と飯を盛る女中に云った。
「へえ」と女中は田舎地味た顔を殊更に丸くした。

「止してくれよ、先生」と沼君は笑った。
「沼正三先生、と云うんだ。存じているか。」と僕は女中に尋ねた。
「嫌だ、こんな田舎者じゃ、何んな有名な先生だって存じ上げません。」と女中は笑った。「ここでは猪か鹿しか見ないもの」

「残念だ、沼君。君の芸術は流石に鹿や猪には通用しない。」

其う云いながら僕は先程の沼君の言葉が気になっていた。「僕の中には何もないんだ」と彼は云った。彼の著述以上の闇を彼は負っているのだろうか。その闇がどのようなものか、僕は見てみたい。澄ました彼の内部を露見させたい。

「君の、あの小説について」と僕は尋ねた。
「聞かせてくれよ」

一般に、あの小説はマゾヒストが書いたマゾヒストのための文学なのだと語られる。しかし、僕には何うも本書に「マゾヒストという偏執的な性的嗜好」を超えてもっと崇高な理念を顕したい、という作者の隠れた文学的欲求を、同じ文章を生業とする僕の第六感に感受するのだ。

そもそも君の性的好奇心は、何処にあるのだ。

小説世界では既に日本という国家が解体されて民族が滅んでいる。その民族滅亡にユートピアを見出し性的昂奮を覚えるような徹底した自虐感。あれは一体何なのだ。彼の著作は不道徳極まりない、けしからぬものである。道徳とは自律だ。精神の独立だ。彼の作品はその独立を剥ぎ取る。予定調和の中で淡々と、屠殺業者が獣肉を解体するが如き事務的に我々民族の矜持を奪う。主体感を以て語り、読者に其れを強制する。不道徳へ誘う。其処に性的恍惚の種を植え付ける。隷従することの背徳的官能を。それでは我々が戦後において躍起になって挑戦してきたものは何だったのか。その全てを無に帰そうとするのか、君は。
けしからぬ話だ。
だが、その己が自尊心の解体作業に僕は不図、心奪われるのだ。

「君は変態だ。君の変態談義は辺鄙な温泉郷に、よく似合う。実に良い肴じゃないか。」僕はお猪口に唇を充てて地酒を傾けた。「君の変態性は真っ当、寄る辺ないことだ。」

「そうだなあ、真っ当の話、」と沼君は云った。
「聞きたいか。」

「望むところだ。聞こう。君の変態談義で今宵は酔いたい。」
「ならば話そう。ちょっと婉曲に話をするから覚悟したまえ。つまり、僕は或る女郎に出会ったんだ。」

此うなると沼君は饒舌だった。僕は焦点の定まらぬ視神経に力を込めて彼を見ると、沼君の顔も相当赤い。少しく呂律も回っていない。いつの間にか僕たちは相当酔っている。

「女郎に出会った。丁度、数年前、ほら君と新宿で出会った晩だ。僕たちはまだ若くて仕事も旺盛にこなして、友人も増えて順風満帆であった。そんな僕たちがあの晩、界隈に並んでいた女郎部屋に足を踏み入れたのは、ちょっとした心の隙が生じた為であろうと思う。少し深酒して仕舞って、足元もおぼつかなくなり、女郎部屋に立ち寄って夜を明かすつもりであった。」

うむと、僕は頷いた。覚えているとも。女郎小屋に入って、二人で遊んだな。

「そう、どんな女郎だったか、酩酊していたので覚えていない。けれどもね、君はご存知だったか。いや存じないだろう。君は頻りにはしゃいで、飲んで、酔っ払って、挙句に寝て居たからな。僕は不図、目を覚ましたのだ。夜中に。其うしたらその女郎の目が光っていたんだ。赤く。」

「赤く?」
「其う、赤く。」
「なんだ、怪談か。」

「いや其うじゃない。本当に赤く光っていたんだ。昔話に赤い月が二つ、なんて噺があるのを知っているかい?真っ暗な山中で赤い月が二つ昇る。それは蛇性の眼なんだ。月が大きくなったと思ったらペロリと飲み込まれ仕舞う。そんな飲み込まれてしまうような巨大で蠱惑的な赤い目だった。それが僕の上に乗っかっていたんだ。髪をざんばらに振り乱して。狂ったような嬌声を上げていた。」

「矢張り怪談じゃないか。」

「うん。其うかもしれない。僕はその時、ぺろりと飲み込まれて仕舞ったんだな。女の目の光で部屋まで真っ赤に染まっていた。真っ赤な部屋に影が次々と浮かぶ。黒い人柱が、幾人も周りを取り囲んだ。その影たちが僕を何事か罵るのだ。僕も悔恨の心持ちが沸き起こって頻りと心の内で詫びるのだけれど、影たちは僕の首を締めようと被さってくる。そして僕をポカポカと叩くのだ。
僕はね、君、聞いて呉れ。いっそ獣になりたいのだ。獣になって鞭を打って欲しいのだ。そして打たれた後に心安らかに眠りたいのだ。だが、僕は獣になれぬ。誰も僕を鞭打てぬ。そして矢張り僕は不眠に悩むのだ。それは僕の悔恨なのだ。その自責と悔悟をを見て女が狂ったように笑うのだ。」

「夢か。」

「夢だ。目が覚めると女は首を括って死んでいた。未だ夜半だ。僕は首を括った女の真下で眠っていたのだ。道理でうなされる筈だ。慌てて人を呼ぼうと思って障子を開けると満月だった。僕の背の裏側では首を括った女の赤黒い地獄。そして、眼前は白銀の月。其の輝く月が天女のようであった。僕が成りたいのは此れであった。アルテミスの傍に侍る猟犬。極楽と地獄の境界に僕は立つことで其れを自覚したのだ。首縊りの骸の下で零れる糞尿にまみれながら。」

「その時魔女(キルケ)は杖あげてわれを打ちつつ叫びいふ。いざ今汝獣欄(獣の檻)に行きて他と共そこに臥せ」

彼が恍惚として発語したのは彼の著作の冒頭、ホメロスのオデュッセイアの引用であつた。

「止せよ。人が悪い。大体、そんな女の死骸など朝には無かったじゃないか。」
「朝になったら消えたんだ。」
「おい、人を担ぐなよ。」
「だけれども本當の話だぜ。あの晩、女が一人死んだのは。」

其ういう沼君の隣には女がいるような気がした。
女が横座りして彼に侍っているような。
これは僕も酔ったのかもしれない。
その女が先程の首を縊った女なのか、月夜の天女であるのかは定かでない。何れにせよ、彼は女性の怪に強く憑かれている。

「それでは君は月光の奴隷となったのか。」僕は尋ねた。

「そうだ。この世で最も美しい物は月光であると悟るに至った。」
「君の奇書には、そんな事一言も書いていないじゃないか。そんなリリシズムを持った男とは知らなかったぜ。」
「本當の事を書くのは照れ臭いものさ。僕は月光に思慕を寄せる、なんて今時誰の共感も呼ばない。現代人に分かりやすいように、白人女性を最上の事物と比喩したまでだよ。」

「沼君、君はその首をどうした」
沼君の首にはいつの間にか首縊りのような痣が浮かんでいた。

「いや、何うしたことか、先から首がちくちく痛むのだ。まるで縄をかけられたように。月を見ると、殊更に痛む。」

ああ、これはいけない。彼に侍る女は悪さをする。彼が審美に想いを寄せる程、この女は彼を奈落に貶そうとする。これは嫉妬だ。渇望だ。憎悪だ。而して彼の本性だ。自戒だ。彼は取り殺されるに違いない。

部屋の電灯が消えた。
僕たちは影となって対座していた。

障子が青白く光っている。

「何うしたことだ。」
沼君が云った。

「君、死んだ女が隣にいるよ。」
「そんな莫迦な。」
「嘘じゃないさ。僕には見えるんだもの。」

女の眼球が濡れて光っていた。
その黒目がこちらを見ている。
目が細まった。
嗤っている。

「君もそんな女を拾ってしまって馬鹿だな。」

「いや、其うでもないさ。」
「そんな女とかかずらって君は何もかも亡くしてしまったんだろう」

「云ったろう?僕は気付いたんだよ。」
「何に?」
「僕たち自身の滅亡に。」

「何だって?」
「僕たちはとうの昔に滅んだんだよ。君はあの物語が一体何だ、と問うたね。あれは揺藍だよ。僕たちが真実を知るための。」

其うして彼は静かな声で古事記の一節を口ずさむ。

ここに左の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、天照大御神。次に右の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、月讀の命。次に御鼻を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、建速須佐男の命。

右の件、八十禍津日の神より下、速須佐の男の命より前、十柱の神一七は、御身を滌ぎたまひしに因りて生あれませる神なり。

 この時伊耶那岐の命大く歡ばして詔りたまひしく、「吾は子を生み生みて、生みの終はてに、三柱の貴子を得たり」と詔りたまひて、すなはちその御頸珠の玉の緒に取りゆらかして、天照らす大御神に賜ひて詔りたまはく、「汝が命は高天の原を知らせ」と、言依さして賜ひき。かれその御頸珠の名を、御倉板擧の神といふ。次に月讀の命に詔りたまはく、「汝が命は夜よの食をす國を知らせ」と、言依さしたまひき。次に建速須佐の男をの命に詔りたまはく、「汝が命は海原を知らせ」と、言依さしたまひき。

これもまた彼の著作に引用された日本民族の創生物語であった筈だ。

障子越しに沼君を月光が照らしていた。
僕は一体誰と差し向かいで斟酌していたのか。

「君は一体、誰なんだ」
急に回りだしたアルコールに目眩しながら、僕は彼に問うた。

「僕は沼だよ。沼正三だ。」
それならば沼正三とは何者か。沼正三の正体が明らかで無い以上、目下、彼の答えは答えになっていないのだ。

沼君は立ち上がって障子の前に立った。
障子を照らす月明かりは益々輝きを増したようだった。光明の中に沼君の姿が溶けていた。

そして僕の真後ろには首を吊った女が下がっている。こんな事が。

「死んだ女が一人。」
「復た一人。」
死が死を呼ぶ。
僕の周囲に立つ女の影たち。

その女を狂乱の果に殺したのは誰か。

僕か。沼か。

あの晩、僕たちは猟奇遊びの延長上に何をしていたのか。いや、「僕たち」ではなく「僕」なのか。

僕は酔っていた。
酔った僕は独りで女郎小屋に赴いた。其処で朝まで寝るつもりであった。幕末の志士さながら。女などに見向きもせずに。皇国の志を抱いて、眠るつもりであった。
しかし酔っていた。
其れがいけなかった。
床の間に何故か脇差が飾られていた。
其れを抜いて刃紋を眺めた。
女を立たせて切っ先で女の輪郭をなぞった。
その締まりのない柔らかな起伏を。
およそ筋肉という物がない脂肪の塊であった。此れは男が手に入れようとしても手に入らぬ物であり、僕が手に入れようとしても永遠に手に入れられぬ物である。
嫉妬であったのかもしれぬ。
切っ先がチクリと女をつついた。
途端に女がヒステリックな声を挙げた。

皇国の志士の部屋に到底似合わない、下卑た声であった。
僕は声に喫驚して刀を落とした。
其れもいけなかった。
女の口を塞ごうとして、その弾みで女を倒してしまった。

それっきり女が動かない。
何うしたことだ。
此れは、何なのだ。

女の動かない事の意味が掴めず、僕は逡巡した。古典から政治学から果たして生物学の範囲まで、此の引用を探した。

僕はこっそりと飯炊きを呼び、金を握らせた。其奴を僕の家まで遣いにやって、僕の手の若い者を何人か来させた。
「先生」と若い者は狼狽えた。
「按じてはいけない」と僕は言った。
「事故なのだ。しかし障碍でもある。」

「君、障碍ならば何うする」

「しかし」と若者は尚も言い淀んだ。
「按ずるな。僕もまた」
僕もまた?
「死ぬつもりだ。この女は僕の意志に殉じたのだ。僕はこの女の犠牲に免じて、この命の散り様を盛大にやろうと思う。」
この女は而して僕のヒロイズムのトリガーであったのかもしれぬ。
だが、そうであるならばこの女は尚一層、始末せねばならぬのだ。

若者は粛々と女を運んでいった。
僕はその後ろ姿を見送った。

そして今、僕の眼前に沼君がいる。

「目を開き給え。刮目し給え、見よ、自らの姿を。」沼君は言った。

僕の姿、
とは。

僕の半身は影であった。
黒羽の中の。

「沼君、僕はずっと悔悟していたのだ。死にきれなかった僕自身について。僕も国家と共に滅びるべきだった。だから思想に傾倒したのだ。亡国を偲んで。」

僕の弁に熱が籠もった。だが、其れを受け止める沼君の言葉は冷えていた。「それは猟奇の理由にはならないぜ。」

「君はただ道連れが欲しかっただけだ。恥ずべき君の欲望に殉じる為の。」

沼君、いま国家は何うなっているか。

「蟠りを捨てて天下を存分に睥睨して見れは良い。君たちの言う国家は滅んだのだ。国体を護持しようとした時、必ず亡国の魑魅はやって来る。捨てるか、滅びるか。択一せよ。民族よ、捨てよ、捨てよ。徘徊する虫となれ。家畜となれ。汚物となれ。」

亡国の魑魅が黒い影となって僕の周りを囲んでいた。斯くして僕も魑魅の一端であった。
「捨てよ、捨てよ、か。」

「其うだ。君は女郎と自分の命を量りにかけたな。詰まらぬ女郎の死で高潔な自らの使命を穢されてなるまいと思っただろう。」

「僕に言わせれば、僕たちは等しく汚物だ。捨てよ、自尊を。高邁を。汚物に活路を求めよ。」

沼君、君の直截な言葉は心地良いものだな。
沼君、君の世界は真っ当だった。
消えていく僕の、彼に向けた賞賛は届いたであろうか。
いや、止そう。
きっと君は贈られた賛辞すら、「汚物」と嘲笑する。

魑魅たちが僕を囲んで同一化する。僕は黒羽に包まれ自我を失う。

サヨナラ、沼君。

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沼は外套を羽織って電車を待っていた。場所は伊豆、修善寺駅である。修善寺駅は大正五年に伊豆駿豆線が開通して以来、七十年の歴史を数えた名駅であり、本線の終着駅でもある。
駿豆線は私鉄であるため、東京に向かうためには一度、東海道線に乗り換える必要がある。この修善寺温泉と東京の経由駅となったのが東海道線と駿豆線の交点、三島駅である。
伊豆を愛した昭和の文豪たちが、幾度も往復をした路線であった。

「先生、今度は何処に行くの?」
今時古風な和装を着込んだ女が侍っていた。
「先生は止めてくれ、僕は文人ではないんだから。」
「だってあの変態の編集から小説の続きを書けと突付かれているじゃない。彼ったらすっかり先生の虜だわ。温泉宿は彼の手配でしょう?」
「そうさ、彼の招待だ。疲れていたからね、丁度良かった。だけれども、もう書くつもりはないよ。僕は忙しいんだから。」沼はやはり、恥ずかしそうに手を振って応えた。


「じゃあ、未完で終わるの?」
「そうさ。未完で終わるんだ。」
「どうして?」
「揺籃なんだ。揺籃はいつまでも揺れ続けるものだろう?終いにしてはいけないのさ。」

納得のできない答えに女は頬を膨らませた。
「それより、君、いつまで付いてくるの?」
女は沼の腕に抱き着いて見せた。
「そりゃあ先生、あたしが成仏するまでですよ。」
「僕は純潔を月光に捧げると決めたんだ。」
「その高潔の精神がいつ迄続くのか見物ですわ。」
沼の首がチクチクと痛む。
思わず呻いたその声をホームに到着した列車の警笛が消した。
修善寺駅に旅行鞄を提げた湯治客達が降りる。
赤いバスに乗って彼らは、これより温泉街に向かうのだ。

「先生、これから何処に行くの?」と女が尋ねた。
「其うだな」と沼は少し考えた。

「三島から沼津に寄って魚でもやろうじゃないか。獣肉には飽いた。」
「それじゃ東京は逆ですよ。」
「可いさ、偶には。」

人の流れに逆行して沼は電車に乗り込む。
「其れにしても。」と編集の奴のお節介を思い出して沼は零す。
「困ったものだ。」と苦笑した。

沼正三は物静かな紳士である。
彼が奇矯な小説を以て巷間を騒がせた「本物」であるかどうかは知れない。

(短編ライトノベル「月蝕温泉、沼正三」村崎懐炉)

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