短編小説「ダーリン・イズ・イン・モノクローム」


全く俺はツイテない。
紡績工場に勤めるチャーリー・レッドマンは冷や汗を垂らしながら考えた。

今朝、チャーリーはいつもより半刻早く目が覚めた。
なんてツイてないんだ!とチャーリーは思った。
もっと眠っていたかったのに!

時間が出来たため、いつもなら簡素に済ませる朝食(トースト)にハードボイルドエッグを添えて、テレビを付けた。
ニュースの時間だった。ニュースキャスターがこの国は不況だ、と言った。テレビ画面には公共職業紹介所に並ぶ人々が映し出されていた。
その丸まった背中を見て、チャーリーは陰鬱になった。
珈琲を飲もうとしてチャーリーは叫んだ。

熱い!
マグカップスタンドが故障していたのか、珈琲は煮えたぎっていた。チャーリーは舌を火傷した。
全く俺はツイてない。
チャーリーは思った。

仕方なくミルクを入れてコーヒーを冷ました。
注がれたミルクが渦となり淡い褐色の紋様を描いた。
テレビ画面はCMに代わった。女優のヘレン・オルビーが唇にルージュをひく。
night and day…
ヘレンの肉感的な唇が唄を歌う。夜も昼も。
唇の色は何色だ。
night and day, you are the one
夜も昼も あなただけを太陽の下でも、月の下でもあなただけを
近くにいても遠くにいてもあなただけを

チャーリーはモバイルフォンを開いた。恋人のSNSを見る。更新はされていない。連絡もない。夜も昼も。
先週、チャーリー・レッドマンは恋人の家を飛び出してしまった。それから恋人に会っていない。
その日、チャーリーの恋人であるエラ・ルースは新色のルージュを唇に塗った。それから彼女の恋人であるチャーリー・レッドマンに尋ねた。
「どうかしら」
チャーリーは彼の恋人を見た。
何か言わなくちゃいけないぞ、とチャーリーは思った。
その途端にチャーリーは何もかもが怖くなり、気が付くと一目散に逃げ出していた。

「待て!」
ストリートをひた走るチャーリー・レッドマンを彼の恋人が追いかけてきた。チャーリーは悲鳴を上げた。必死になってチャーリーは逃げて、逃げ切った。

夜も昼も君のことを。
太陽の下でも月の下でも君のことを。
近くにいても遠くにいても君のことを。

紫のルージュと薔薇を贈りましょう。
テレビ画面の上でヘレン・オルビーが言った。

芸能ニュースでは俳優のアルバート・B・フォックス氏が二十才も年齢差のある新しい恋人を作った事が報じられた。

話を半分も聞かないうちにチャーリー・レッドマンはテレビをオフにして上衣を着た。
仕事靴に履き替えようとしたら靴べらが折れた。
家を出たら黒猫がいて不吉に鳴いた。
目の前に植木鉢が落ちてきた。
何故かバスの到着がいつもより早くてチャーリーは乗り遅れてしまった。
バスを追いかけて走り出したらつまづいて転んだ。
極度の近視の眼鏡にヒビが入った。

遅刻した彼は彼の上司であるナット・アーモンドに怒られた。
  「遅刻が多い!」とシモンズ紡績会社の製造部主任ナット・アーモンドは言った。
「ひゅみません」
チャーリー・レッドマンは言った。火傷した舌が未だに痛かった。
「貴様のガサガサの声が不快だ」ナット・アーモンドは言った。
怒られながら先程から腹が痛む。
今朝飲んだミルクが古かったんだ。
冷や汗をかきながらチャーリーは思った。
全く俺はツイてない。

着席したばかりのチャーリー・レッドマンを彼のボスであるナット・アーモンドが又呼んだ。
「お前、何をしたんだ」
「なんです?」
「社長が呼んでる」

チャーリーはシモンズ紡績会社の社長室に向かった。
腹が痛かったので、変な歩き方になったし、社長室に着いても変な姿勢だった。

「珈琲を飲むかね」
シモンズ紡績会社の社長ギルバート・シモンズは言った。
「結構です」チャーリー・レッドマンは言った。
腹が痛かった。
「悲しいお知らせだ。君に異動の辞令が出た」と社長ギルバート・シモンズは言った。
「何処に異動ですか?」
「スピッツベルゲン山脈工場だ。君を工場長を命ずる。」
「何処ですって?」
「スピッツベルゲン山脈工場だ。現地までの旅費の支出と移動手段の手配を我社はしない。自分で手配を取るように。」
「スピッツベルゲン?ドイツですか?」
「月だ。」
「月ですって?馬鹿な。」
「断るなら退職だ。辞表を書くように。」
「いっそ解雇にしてくれ。失業手当が付く。」
「退職するなら自主退職だ。失業手当は付けない。」
「労働組合の承認は得ているんですか?」
「得た」
「馬鹿な、こんな暴挙が許される筈がない。」
「さあ、行きたまえ」
シモンズ紡績会社の社長ギルバート・シモンズの秘書であるケイト・サリバンがドアを開けてチャーリー・レッドマンを社長室から追い払った。

チャーリーは不当な扱いに怒りを示した。
しかし、腹が痛かった。ひょこひょこと歩いて製造室に戻った。
「何の話だった?」彼のボスであるナット・アーモンドが尋ねた。
「異動です。スピッツベルゲン山脈工場に。」
「スピ?」
「スピッツベルゲン山脈工場の工場長に就任しました。」
「何処だ、ドイツか。」
「月面です。」
「なんて事だ、チャーリー」ナット・アーモンドは肩に手を置いてチャーリーを慰めた。
「そんな話を労働組合は承認したのか」
「全員の賃上げと引き換えに承認したそうです」
「なんて事だ、チャーリー!俺の給料も?」
「勿論ですよ」
「やった!」
チャーリーは立ち上がって背中を向けた。
「もうお別れか」
ボスであるナット・アーモンドは言った。
「トイレに行くんですよ」
チャーリー・レッドマンは言った。
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チャーリー・レッドの使っていた事務機器は全て会社に接収された。マシュマロマンの付いたボールペンは返してくれ。チャーリーは総務部に懇願したが唇の薄い青白い顔の総務部員ケーシー・クロスは聞き入れてくれなかった。
「売女!」
チャーリーは彼女を罵った。
「おっぱいを揉ませろ!」
チャーリーは彼女を罵った。

紡績工場を去るチャーリーの手元には日割りで支給された給与の現金袋と、デスクの上に飾られた幻覚サボテン以外何も残されなかった。幻覚サボテンは死守した。それは総務部の作成した備品リストからも外れていたため、総務部員のケーシー・クロスは渋々とチャーリーの訴えを認めた。
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その日の夕方いつものように、バドはピアノバーの扉を開けて、札を「開店」に変えた。彼の目の前に彼の古き良き友人であるチャーリー・レッドが立っていた。

陰鬱な顔をしている。
バドは思った。
だが、妙に内股で、そわそわと震えている。
変な立ち方だ。
そうバドは思った。
まるでトイレを我慢しているみたいだ。
とバドは思った。
「トイレを我慢しているんだ。」
チャーリー・レッドは言った。

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トイレから出てきてビア・カクテルを注文したチャーリーにバドは尋ねた。
「チャーリー、仕事はどうしたんだ、まだ夕方じゃないか。」
チャーリーの前に置かれたカクテルは夕方のように琥珀色に透けた気泡を発泡していた。
「そのサボテンはなんだ。」
「お前の顔は真っ青だ(まるでヘチマみたいだ)。」
「お腹を壊した原因は何だ。また拾い食いでもしたのか。」
「エラとは仲直りしたのか。喧嘩したんだろう?」
チャーリーは答えた。
「頼むからひとつずつ聞いてくれよ。ゆっくり、スロウリイに答えさせてくれ。まずは質問に答えるために大きな溜息をつきたいんだ。良いかい?」
「良いとも。」
チャーリー・レッドマンは大きく溜息をついた。店内の酸素が全て消費され尽くしたような深い、ため息だった。
バトは長い間、チャーリーが喋り始めるのを待っていた。
チャーリーは中々喋ろうとしなかった。
チャーリーが中々喋ろうとしないので、バドはもう一杯、ビア・カクテルを作ってチャーリーに勧めた。

「奢りかい?」
チャーリーは尋ねた。
「奢りじゃないけど飲むだろ?」
バドは言った。
「飲むよ。奢りじゃないの?本当に?」
「サボテンをくれるなら良いよ」
「ダメだ。このサボテンはあげられない。」
チャーリー・レッドマンは言った。

「早く身の上話を聞かせてくれよ。飢えているんだ、そういうのに。」
バドは言った。

チャーリーは今朝から不運に見舞われていること。腹を下したこと。会社をクビになったこと。エラとは連絡を取っていないことをバドに話をした。

「ふうん」とバドは言った。
「もう一杯飲むかい?」
「ああ、頼むよ」
「どうしてお前は会社をクビになったんだ。」
「紡績工場の機械が新しくなったんだ。」
「うん」
「最新式の機織り機で、糸をセットする時にランプが緑から赤に変わるんだ。」
「ああ、なんて事だ!」
バドは言った。
「お前は可哀想な奴だ」
「仕方ないさ」
チャーリーは言った。

チャーリーはビアカクテルを飲み干した。
腹痛は治まっていた。
炭酸水が喉をキリキリと刺した。
世界中の誰もが。
チャーリーは考えた。
俺の敵だ。

ビア・カクテルを飲みながらチャーリーはエラの事を考えていた。
エラの唇。
エラのチーク。
エラの。

「バド」
チャーリーは古き良き友人の名前を呼んだ。
「新作のルージュは何色なんだ。」
チャーリーの声は哀切に満ちていた。
「可哀想な奴だ」
バドは言った。

バドの店のピアノ弾きが出勤してジャズを弾き始めた。
数組の客がアルコールと軽食を取りながらピアノを聴いていた。
「これを飲めよ」
バドはロックグラスに琥珀色の酒を注ぐ。蒸留酒に木樽の色が染みている。
「バーボンだ」
「奢りか?」
「奢りじゃない。」
「奢りじゃないの?本当に?」
「一息に飲んじまえ」
「奢りじゃないの?」
チャーリーは一息にグラスを飲み干した。
喉が燃えるように熱くなった。
「熱い」
チャーリーは言った。
「その熱さを感じてみろ」
バドが言った。
「人はそれを赤と呼ぶんだ。」
「赤」

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例えば。色とは色彩の反射だ。光は赤と青と緑の三原色から出来ている。物体に光が当たった時にその物体は三原色の一部を吸収し一部を反射する。反射された色彩を視神経が感知するのが色である。つまり色彩とは認識である。赤い花があるとして、花が赤いのではない。その花が、その花の物質的構造が青と緑とを吸収し、赤を反射したから赤く見えるのだ。

例えば赤い薔薇に緑色の光を当てると、薔薇は何色に見えるだろうか。

緑色の光の中には赤い光を備えないため、赤い薔薇は赤い色彩を反射する事がない。
つまり正解は黒色に見える。
この世の本当はモノクロームでできている。
網膜にある三種類の錐体が三原色の光の反射を色彩として知覚しているだけだ。光が無ければ色がない。視神経の知覚が無ければ色がない。

チャーリー・レッドマンは二年前に色彩を喪失した。彼はモノクロームの世界に生きている。

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ピアノ弾きは一曲を終えて次の曲を弾き始めた。
「この曲は知ってる」
チャーリーはカウンターチェアを反転してピアノ弾きを振り返った。

Night and day...You are the one....
店内で静かに酒を飲む数組の客の間隙にピアノとチャーリーのしゃがれ声が染みていた。

「良い事を教えてやる」とバドは言った。
「タダか」
チャーリーは言った。
「そうだ」
バドは言った。
「じゃあ聞こう」
チャーリーは言った。
「今からこの店に女が一人入って来る。その女は占い師だ。手相を読む。一番奥の暗い席に座るから、カクテルを一杯渡して占ってもらうと良い。」「女が?」
「そうだ」
チャーリーは店のドアを見続けて女が入ってくるのを待っていた。
一息に飲み干した蒸留酒が全身を巡って血液がカッカと熱かった。
世界が反転するような目眩が幾度かチャーリーを見舞った。

「誰も来ない」
チャーリーは言った。
「もう来てるじゃないか」
バドは言った。

店の一番奥の一番暗い席にオリエンタルなベールで顔を隠した女が座っていた。
「行けよ」
バドが言った。
「どうしたら良い?」
「これを持って行け。必要な事以外喋ってはいけないよ。」
バドは紫色のカクテルをチャーリーに渡した。
「お前の分も」

チャーリーは女にカクテルを渡した。
「やあ」とチャーリーは言った。
「ええ」と女は言った。
「占ってくれないか。」
「いいわ。」
女は答えた。
「僕の名前はチャーリーだ。チャーリー・レッドマン。」
チャーリーは右手を差し出した。
「私はペギーよ。」
女は言った。

ペギーはチャーリーの手を取って、掌の皺を指でなぞった。
「酷い運勢よ、あなた。とても大きな不幸に遭遇してる。それに大きな悲しみを背負っているわね。」
と女は言った。
「知ってる。」
チャーリーは言った。
「もし人生で最悪の時があるとすれば、」
「それは今だね。」
「ああ、可哀想にチャーリー」
ペギーは言った。
「そうね、あなたに必要なものは薔薇よ。それも紫色。紫色の薔薇を探して、それを一番大切な人に渡すこと。」
ペギーは言った。
「分かった。」
チャーリーは言った。

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表通りをチャーリーは歩いていた。通り過ぎる人々は皆が幸せそうに見えた。チャーリーは自分より不幸に見える人間を探した。
道端に飲んだくれのホームレスがいた。
「やってるかい?」
チャーリーは尋ねた。
「ぼちぼちね」
ホームレスは答えた。その答えを聞いてチャーリーは思った。俺は彼よりも不幸だ。
「花屋を探しているんだ。」チャーリーは言った。
「紫の薔薇を買わなくちゃいけない。」
「花屋なんて知らない。」ホームレスは言った。
「食べられないからな。」
「そうだな」チャーリーは言った。
その通りだ。俺は本当に花屋に行かなくちゃいけないんだろうか。
「チャイニーズレストランの場所なら教えてやる」
ホームレスは言った。
「頼むよ」
チャーリーは言った。

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チャーリーはチャイニーズレストランに着いた。
「ご注文は?」
中国人の娘が尋ねた。
「紫の薔薇を探している」
「あんた、頭がおかしいの?」
娘が言った。
「そうだ。俺はイカレているんだ。何処で間違ったんだろう?」
チャーリーは言った。
「紫の薔薇は無いけれどチャオズならあるわ。」
「オーケー、それでも良いよ。」
「食べて行く?それとも持ち帰る?」
「持ち帰るよ」
チャーリーは言った。
「ちょっと待ってね、いま包むわ。」
中国人の娘はチャオズを紙袋に包みながら言った。
「花屋なら裏通りにあるわ」
「ありがとう」
チャーリーはチャオズを受け取って言った。

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「なんてことでしょう!」
花屋の女店主は叫んだ。
「紫の薔薇ですって!」
「そうなんだ」チャーリーは言った。
「一輪で良いから」
「可哀想な人。」女店主は言った。
「紫の薔薇は全部売れてしまったの。」
「誰に?」
「それこそ紫の薔薇のダイナーよ。」
「その店は何処にあるの?」
「ええと」女店主は地図を書いてくれた。

チャーリーは地図を見ながらダイナーを探したがとうとう道に迷ってしまった。チャーリーは途方に暮れてしくしくと路上で泣いた。
街の人々はそんなチャーリーの横を無言で通り過ぎた。チャーリーは悲しかった。
女店主の書いた地図はチャーリーにとって難解過ぎた。さっぱり意味が分からない。誰かに助けて欲しかった。

「助けて下さい」チャーリーは言った。
何人もの人間が耳を塞いで通り過ぎた。
チャーリーは泣いた。橋の上でアルトサックスを吹いていた男が言った。

「どうしたの」
「パープルローズというダイナーを探しているんだ。だけれど俺にはみつけられない。地図が分からないんだ。」
「ブラザー、落ち着けよ。まずは深呼吸をしよう。そうだ、深呼吸だよ。酸素を吸え。二酸化炭素を吐け。スー、ハー、スー、ハー。」

サックスの男はチャーリーの手を引いてダイナーの目の前に連れて行った。「パープルローズは此処だ。」
看板にパープルローズと書いてあった。
店内は紫の薔薇の花束で飾られていた。
その傍らにパープルのユニフォームを着たウエイトレスが二人いた。


「注文はお決まりかしら?」
一人のウエイトレスがチャーリーに聞いた。
「紫の薔薇が欲しいんだ」チャーリーは言った。
「一輪で良いから」
「そんなメニューは無いわ。」
ウエイトレスは言った。
「スカートが短いね」
チャーリーは言った。
「まあね」
ウエイトレスは言った。
「パンツが見えちゃいそうだ」
チャーリーは言った。
「チップ次第よ」
ウエイトレスは言った。
「50セントではどう?」
「お家でママのおっぱいでも飲んでな、坊や」
「あっちの子はどう?」

「ヴァルダ」
ウエイトレスがもう一人の名前を呼んだ。
「この坊やがあんたのパンツを50セントで見せろって言ってる!」

ヴァルダと呼ばれたウエイトレスは「100ドルよ」と言った。
「5ドルならどう?」
チャーリーは言った。
「5ドルなら手を繋ぐくらいはしてあげるわ。」
ヴァルダは言った。

その時、店内に酔っ払った男が大声を上げながら入ってきた。
「チャオズだ!チャオズを出せ!」
男は言った。
「嫌だわ」ヴァルダは言った。
「酔っ払いは嫌いよ」

酔った男はヴァルダに言った。
「チャオズ!」
「チャオズは無いわ。ブルーベリーと生クリームのワッフルならあるんだけど」
「俺はチャオズが食べたいんだ!」
酔った男は叫んだ。
「やめなよ」
男の連れていた若い女が諌めた。
「ファッキンダイナーのファッキンワッフルなんてファックだ。俺にチャオズを食わせろ!おっぱいを揉ませろ!」
男は喚いた。
「やめろよ」
チャーリーはヴァルダの胸を揉む男の腕を掴んだ。

「痛い!」
男が叫んで、その衝撃で窓ガラスが割れた。
衝撃に驚いて店内の客たちが一斉に床に伏せた。
割れたガラスが飛散していた。

床にうずくまった酔っ払いにチャーリーは叫んだ。
「チャオズは此処だ!」
チャーリーは手に持ったチャオズを高く掲げた。
  叫んだ衝撃で今度は壁際の花瓶が割れた。

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 巨乳のウェイトレスであるヴァルダと、今日失業したばかりのチャーリー、そして酔っ払いの男アルバート・B・フォックス、その恋人であるテレサは一つのテーブルに座り、チャオズを食べている。

「驚きだ」アルバート・B・フォックスは言った。
「お前は俺にそっくりだ。」
「そうね」ヴァルダは言った。
「そっくりよ」
「そうかな」
チャーリーは言った。
「髪をかき上げてみて。」
ヴァルダは言った。
「こう?」
チャーリーはかきあげて額を出した。
「そっくりだ」アルバートは言った。
「1000ドル。」アルバートは言った。
「お前に1000ドルあげよう。」

「一晩で1000ドルだ。悪い金額じゃない、そうだろう?もし、お前が俺の簡単はお願いをきいてくれれば、明日の朝、お前に1000ドルをあげる。」「1000ドルってどれくらい?」
チャーリーはヴァルダに尋ねた。
「ええと、ウェイトレスのパンツを覗くのが100ドルだから。1000ドルあればパンツを10回覗けるわよ、あなた。」
「簡単なお願いって何だ」
チャーリーは言った。
「朝まで俺の身代わりをして欲しいんだ。俺の、アルバート・B・フォックスのフリをしてくれれば良い。」
アルバート・B・フォックスは言った。
「アルバート・B・・フォックス!」
ウェイトレスのヴァルダは驚いた。
「どこかで見たことあると思った。」
「誰?」
チャーリー・レッドマンはヴァルダに聞いた。
「昔、有名になった俳優よ。」
ヴァルダは言った。
「俺は今もスターだよ。」
アルバート・B・フォックスは言った。

「身代わりを立てて、お前はどうするんだ?」
チャーリー・レッドマンはアルバート・B・・フォックスに尋ねた。
「わかるだろう?誰にも邪魔されずに恋人と過ごしたいんだ。」
「危険はない?」
「もちろんだとも。・・・やるだろ?」と、アルバート・B・フォックスが尋ねた。
「まあね、手付に100ドルくれ。」チャーリーは言った。
「手付けは5ドルだ。」
アルバート・B・フォックスは言った。
「5ドルじゃ手しかつなげない。」
チャーリーは言った。
「じゃあ、10ドルだ。」
アルバート・B・フォックスは言った。
「10ドルではどう?」
チャーリ・レッドマンはウェイトレスのヴァルダに尋ねた。
「手が二回繋げるわ。」
ヴァルダは言った。
「分かった」
チャーリー・レッドマンは言った。

アルバート・B・フォックスは言った。
「お前はまず、ミルト・フラメルという男に会わなければならない。ミルト・フラメルはすぐに此処に現れる。俺が呼ぶからな。いいか、ミルト・フラメルは大スター、アルバート・B・フォックスのマネージャーだ。へまをして正体ばらすなよ。お前は今から、大スターのアルバート・B・フォックスだ。」
「俺はアルバート・B・フォックスだ。」
「いいぞ。もっと威厳を持って。」
「俺はアルバート・B・フォックスだ。」
「パーフェクト!」

アルバートはモバイルフォンを取り出した。
「じゃあ、電話をかけるから、ここで待ってろ。・・・アロー、ミルトかい?俺だ。久しぶり。そう怒るなよ。ちょっとファッキンな仕事を2つ3つすっぽかしただけじゃないか。オーケー、反省している。これからはちゃんとするよ。そう、いま俺はパープルローズというダイナーでブルーベリーワッフルを食べている。迎えに来てくれよ。ああ、でも慎重に声をかけてくれ。病気が再発して神経が過敏なんだ。ちょっとおかしなことを言うかもしれないけれど、そっとしておいて欲しい。仕事のこともよく思い出せないんだ。懇切に説明して欲しいんだ。初めて会った時みたいに優しくしてくれよ。そういうのが必要なんだ。分かってくれるよな、お前なら。」


アルバートは電話を切った。
「しっかりやれよ。」とチャーリーに言って、恋人を連れてすぐにいなくなった。

アルバートのマネージャー、ミルト・フラメルは10分後にダイナーパープル・ローズに現れた。
その間にチャーリー・レッドマンはヴァルダと二回手を繋いだ。
「パンツを見るのは?」
「100ドルよ」
「パンツは何色を履いているの?」
「パープルよ」
「わかった。」

「今晩、最初の仕事は・・・」
大スターであるアルバート・B・フォックスのマネージャー、ミルト・フラメルは言った。
「デズモンドのトーク番組の後ろの方で笑っている役だ。」
「笑ってるだけ?」
「そう、アルビー、君でもできる簡単な仕事だ。最初に自己紹介をされたら、あとは何も喋らなくて良い。デズモンドにも話を通してある。」
「それで良いの?」
「君がそう言ったんだろう?楽な仕事を持って来いと。こんなクズみたいな仕事でも僕がどれだけ苦労して探してきたのか、推し測れよ、アルビー。落ち目の大御所俳優なんてもうテレビに需要はないんだぜ。それなのに君ときたら、仕事をサボるわ、小娘にうつつを抜かすわ、スキャンダルばかり。世間が君のことを何と呼んでいるのか知ってるのか。薄っぺらのアルビー、だ。大して面白くもない話にへらへらするだけの軽薄な元、スターだよ。君でもできる相槌を教えてやる。もしコメントを求められたらこう言え、・・・クールだ、俺よりも。そうすれば丸くおさまる。みんなお前のことを笑ってくれるだろうさ。お前よりクールじゃない奴がいるなら見てみたいもんだね。」
「オーケー、ミルト。」
チャーリーは言った。

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デズモンドのトーク番組が始まって、事実、アルバート・B・フォックスは一言もしゃべらないまま、番組が進行した。
司会のデズモンドはゲストたちに均等に話を聞いていたが、アルバート・B・フォックスには質問を投げかけることは無かった。
「そう思うだろう?アルバート。」
番組の終盤でニカラグアの透明カメレオンに言及した後にデズモンドは言った。
「クールだ、俺よりも。」
チャーリーは言った。
ラフトラックがどっと哄笑した。
チャーリーの仕事はそれだけだった。

そして、生放送のトーク・ショウはあと数分で終わるはずだった。
「ヘレン、君のCMを見たよ。良いCMだ。あれは何の商品だったかな。」
デズモンドはゲストの一人である女優ヘレン・オルビーに尋ねた。
「ルージュよ。マクドナルド社の。」
「そう、ルージュだ。君の前ではどんな商品も霞んでしまうね。君の素敵な歌声しか耳に残らない。」
同感だ。チャーリーは思った。
「そう思うだろう、アルバート?」
デズモンドが言った。
尋ねられてチャーリーは答えた。
「素晴らしい歌声だ。何度も聞いたから、ソラで唄える。」
チャーリーは言った。

night and day・・・
you are the one・・・
Only you beneath the moon and under the sun・・・

口ずさんでから、「しまった」と、チャーリーは思った。
すっかり場が白けてしまった。
誰も何も喋らなかった。

「驚いたわ。」
女優のヘレン・オルビーが言った。
「素敵な歌声ね、アルビー。」
「ありがとう」
チャーリーは言った。
「もう一度聞かせて下さらない?」
「ああ、えーと」

チャーリーは司会のデズモンドを見た。
「二人で歌えば良いんじゃないか。今日は今をときめくヘレン・オルビーと往年の大俳優アルバート・B・・フォックスの歌声でトーク・ショウを締めよう。」
デズモンドは言った。
「じゃあ・・・」
エンディングテーマを奏でるために控えていたバンドが演奏を始めた。
チャーリーはヘレン・オルビーにリードされながら歌い、そして番組は終了した。


「素敵だったわ、アルビー」
番組が終わって楽屋に戻ろうとしたチャーリーにヘレン・オルビーが話かけた。
「ああ、すみません。勝手に歌ってしまって。」
「いいえ」ヘレン・オルビーが答えた。
「あの、あなたのファンなんです。」チャーリーは言った。
「いつもCMを見ています。」

「まあ」ヘレンは驚いた。
「驚いたわ、あなた。一体どういうつもりなの?」
「いや、変な意味じゃなくて。」チャーリーはしどろもどろに答えた。
「至極、純粋な気持ちで。僕はあなたが好きなんです。」
ヘレンは尚も驚いた。
「だって、先月に別れようと言ったのはあなたじゃないの、アルビー。」
「なんだって?」
チャーリーは言った。
「私たち、もう終わった仲なのよ?そうじゃなくて?」
ヘレンは言った。

「アルビー、次の仕事だ」
マネージャーのミルト・フラメルが声をかけた。
「ああ、それじゃ、ええと、またね。」
チャーリーは言った。
「待って、アルビー。」
ヘレンは言った。

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「アルビー、さっきのは何だ。」
車を運転しながらミルト・フラメルは言った。
「いや、つい。悪かった。」
「全く驚かせるなよ」
「悪かった」
ミルト・フラメルの運転する車の前に若者たちが飛び出した。
「どけよ」
ミルト・フラメルがクラクションを鳴らして若者たちを追い払った。
それからミルト・フラメルは言った。
「だが、良かったよ。なかなか。アルバート・B・フォックスは何もできないクズだと思っていたがあんな才能があったんだな。」
「ありがとう」チャーリーは言った。
「次の仕事は」
ミルト・フラメルは言った。
「深夜のテレビショッピング。」
「商品は?」
「ダイヤモンド加工のフライパン。なんでも良いから大げさに驚いてくれ。」
「OK」
「今回も生中継だ。しっかりな。」
番組が開始して、テレビショッピングのホストを務めるクベック氏はアルバート・B・フォックス氏を迎え入れて言った。
「テレビを見たよ」
「なんの?」
「知らないのかい?さっきの番組。」
「なに?」
「アルビー、君のことが話題になっているよ。」
「どういうこと?」
「もう一回歌ってくれよ。さっきの歌声、最高だった。」

チャーリーは戸惑った。
「なに?」
チャーリーはカメラクルーの傍にいたミルト・フラメルに言った。
撮影班の隣にいたミルトも事情は分かっていないようだった。

「国内中でお前が話題だ。おい」
とクベック氏は番組スタッフに声をかけると、スタッフがミニPCを持ってきた。SNSの画面に大きくアルバート・B・フォックスが写っていた。それは先程の番組でヘレンと一緒に歌を歌ったチャーリーであった。
ハートのマークの隣に数字があって、その数字が見る間に増えていく。 
「この数字はなに?」
チャーリーは尋ねた。
「お前の映像が支持を受けてるんだよ。コメントを読んでみろ」

「落ち目のくせに歌が上手い」
「落ち目のくせに密かに練習でもしたのか?」
「落ち目のくせに目立ちやがって」
多くのコメントが寄せられていたが、概ねそれは好意的なものに思えた。

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テレサ・ジョーダンは特等のホテルの一室にいた。
ロウテーブルには開けたばかりのシャンパンがあって、彼女はそれをグラスに注いで口をつけた。
バスローブを着て窓辺に寄り街を見下ろした。

慢性的なトラフィックジャムが光る毛細血管のような網を作っていた。
その光る網の中に人々の暮らしを彩る街の灯りが煌めいていた。それらはある種の人々にとっては美しい光景であったが、テレサ・ジョーダンには何も感慨を呼ばない。ガラスの装飾が施された高貴の照明装置が、シャンパングラスの発泡が、仮宿に捕らえられた光の礫が煌びやかである事に、人はいつか感動を忘れるようなものだ。
バスルームには男が一人いて、シャワーを使っている。
彼はもう一度私を抱くかしら。テレサ・ジョーダンの関心事は見慣れた街並みから離れてスイートルームの中の男女の睦事に戻った。
もし彼が私を抱くなら、私はどうやって抱かれようかしら。歌手として活動し始めたテレサ・ジョーダンが男に出会ったのは先月で、地味で人気のない昼下がりのワイドショーに出演した時だった。テレサにとっては初めてのテレビ出演であった。
「ナチュラルが一番さ。」男は言った。
「良い相槌を教えてやる。俺の相棒がいつも収録前にこう言うんだ。おいアルビー、困ったらこう言えば良い。クールだ、俺よりも。お前よりノット・クールな奴なんていないんだから、ウケるぜ、ってさ。」
男は笑った。

「年齢は私の父親と同じくらいかしら。」テレサ・ジョーダンは思った。「でも父親とは全然違うわ。」
テレサ・ジョーダンの父親の口癖は「殺してやる」だった。父親からは溺愛されつつも、彼女は子供の頃から何度も父親の「殺してやる」を聞きながら育った。テレサ・ジョーダンが16歳になって初めてボーイ・フレンドを作ったときに、彼女はうっかり父親の口癖を真似た。
「殺してやる」。
ボーイ・フレンドは震え上がって、翌日二人は別れた。
父親が少しだけ、特殊だと知ったのはその時だった。
「父親とは全然違うわ。」
およそ威厳とは無縁で、軽薄に笑うアルバート・B・フォックスを見てテレサ・ジョーダンは思った。
テレサ・ジョーダンは番組が終わった後に、その男、かつての銀幕スター、アルバート・B・フォックスと食事を共にして、気が付けばベッドまで共にしていた。男には恋人がいたが、その後に別れたようだった。
数回の逢瀬を重ねて先日、盗撮された写真がゴシップ誌に掲載された。
それまで事情を全く知らなかったテレサ・ジョーダンの父親は激怒した。

「殺してやる」
テレサ・ジョーダンの父親であるジャンゴ・ジョーダンは言った。
だから二人は今日、駆け落ちした。
テレサ・ジョーダンは彼女の父親に簡単な手紙を書いた。火のように怒り狂った父親から何度もモバイル・フォンがあったが、テレサ・ジョーダンはモバイル・フォンの設定をデナイアルにした。

私、どんな風に抱かれようかしら。聖女のように、それとも娼婦のように?野獣のように、それとも女王のように?
再びシャンパングラスに唇をつけてテレサは思った。

バスローブを着て男が部屋に戻ってきた。
「シャンパンを飲む?」
テレサ・ジョーダンは尋ねた。
「ああ」
テレサ・ジョーダンの恋人であるアルバート・B・フォックスは言った。

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ベッドの上にいて、シャンパンを一口飲んで、アルバートはテレビをオンにした。
見慣れた女優だ。
ヘレン・オルビー。先月に別れた元恋人だ。コメンテーターとしてニュース番組に出ている。
隣にいる若い恋人、テレサ・ジョーダンに見せたい顔ではなかった。

「あんまり良い番組じゃないね。」
アルバートはチャンネルを変えようとリモコンを手に取った。

「彼は私のために歌ってくれたの」とヘレン・オルビーは言った。
「彼とのデュエットは私にとってとても美しい体験だったわ。」

なんの事だ?彼?アルバートは手を止めた。

「あなたの発言と共に先程の番組がSNSで大変話題になっておりますね。」
番組司会者のエウミール・Dは言った。
「ああ、映像が届きました。皆様もご覧下さい。愛の三角関係の只中にいるアルバート・B・フォックス氏とヘレン・オルビーのナイト&デイ」

映像が切り替わってアルバート・B・フォックス、いや先程ダイナーであったアルバートそっくりの男がヘレンをとともに歌っていた。

ブーッ。アルバートはシャンパンを吹いた。

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アルバート・B・フォックスの身代わりとなって一晩を過ごす事になったチャーリー・レッドマンは、アルバート・B・フォックスのマネージャーであるミルト・フラメルの運転する車で移動中であった。

チャーリー・レッドマンのモバイルフォンが鳴動した。
アルバート・B・フォックスからの音声通話である。

「お前は何をしているんだ!」電話口でアルバート・B・フォックスは怒鳴った。
「目立ってる!」
「怒鳴るなよ」
とチャーリーは言った。
「SNSを見たか?凄い注目だ!まだ増えてる!明日から俺が困る!」
「仕方ないだろう。そうなっちゃったんだから。」
「いまは何処に向かってる?」
「次の番組だ。オーディション番組。それより聞いてくれよ。テレビショッピングでガス台が爆発して前髪が焦げたんだ。髪を切りたいから報酬を10ドル増やしてくれ。」
「さっき10ドル渡したじゃないか。」
「さっきの店で使っちゃったんだよ。ヴァルダと二回手を繋いだ」
「無駄使いするなよ!」
「とにかく10ドルだ!」
「朝には990ドル渡すんだから、それでなんとかしろ!」

「おっと」
チャーリーは言った。
「なんだ?」
アルバートは言った。
「路上のゴミ箱が爆発した」
「気をつけろ」
「分かった」
「とにかく、もう、目立つなよ!俺は程々の注目と程々の仕事でスマートに生きたいんだ。」
「オーケー」
チャーリーは電話を切った。
後部ガラスの向こう側で火柱が立っている。
 「今日はよく爆発するね」チャーリーは言った。
「そうだな」退屈そうに車を運転しながらミルト・フラメルは言った。

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「シットだ。」
リー・ジョーダンは舌打ちした。
「また外した」
「さっきが500ドルだからペナルティは倍の1000ドルだ」
イアン・ペインは言った。
「シットだ」
リー・ジョーダンは言った。
「上手に逃げやがる」
「お前が下手なのさ」
「それならお前がやって見せろ、外したら今度のペナルティは倍の2000ドルだ。」
「焦るなよ、じっくり行こうぜ。」
イアン・ペインはタバコの煙をくゆらせながら言った。
「何事も楽しむ余裕がなけりゃダメだ。」
リー・ジョーダンのベッドサイドテーブルに置いたモバイルフォンが鳴った。
「ドン・パパだ」リー・ジョーダンは言った。
「アロー、パパ。」

電話の向こうでドン・パパことジャンゴ・ジョーダンは怒鳴った。
「お前たちは」
「何をやっている」

「何って?」
「アル中の酔っ払い一人始末するのにどれだけ時間をかけてるんだ」
「いつでも始末できるんだ、何をそんなに焦ってるんだ」
「寝呆けたことを言うなよ、お前たちは何が起こっているか知らないな?」
「パパ、何の話?」
「そこにテレビはあるか?」
「あるよ」
「オンにしろ」

テレビにはアルバート・B・フォックスの写真と彼のマネージャであるミルト・フラメルが運転するスポーツカーが上空のヘリから中継されていた。

リポーターが言った。
「いま、アルバート・B・フォックス氏はまさに次の仕事場であるABCスタジオに向かっています。果たして彼を捕まえる事ができる者はいるのでしょうか」
「なんだ、これは?奴が中継されてる。」
リー・ジョーダンは叫んだ。
「どうなってるんだ、パパ」
「我が息子よ、なんてマヌケだ!お前たちがグズグズしている間にすっかり状況は変わってしまった。いまやアルバート・B・フォックスは国民の最大の関心事だ。」
ジャンゴ・ジョーダンは言った。

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話は半刻前に遡る。
トークショーに出演していたヘレン・オルビーはカメラに向かって言った。
「彼を愛しているの、誰にも渡したくないわ。ねえ、アルビー。私の元に来て。聞いてるかしら。誰でもいいわ。もし、彼を私の元に連れて来てくれたら、1万ドル渡すわ。」
落ち目の俳優に付いた懸賞金は1万ドル。
このニュースは、瞬く間に広まった。
誰もがアルバート・B・フォックスを捕まえようと思った。不健康で足元もおぼつかない酔いどれを捕まえれば、たった一晩で10万ドル!

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ドン・パパことジャンゴ・ジョーダンは言った。
「これ以上騒ぎが大きくなる前にさっさと仕留めちまえ!」
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「今度は何をしたら良い?」
アルバート・B・フォックスに扮するチャーリー・レッドマンはアルバート・B・フォックスのマネージャーであるミルト・フラメルに尋ねた。
「フレディ・ロウが司会を勤めるオーディション番組だ。素人の芸を小馬鹿にして笑っていれば良いよ。」
ミルトは言った。

「さあ、スタジオに着いた。」
スタジオの前では群衆がチャーリーを迎え入れた。その騒乱に戸惑ってチャーリーはミルト・フラメルに尋ねた。
「どうなってるんだい?」
「どうなってるんだろう。とりあえず手を振って答えろよ。」
ミルトは言った。
「まるでスターみたいだ」

「ヘレン・オルビーの元に行くつもりは?」
リポーターとテレビクルーがマイクを向けた。
「なんだって?」
「ヘレンがあなたに賞金をかけましたよ。」
「いくら?」
「1万ドル」
「まさか」
「あなたをヘレンの元に連れて行ったら1万ドル支払うと。あなたは狙われていて危険だという声もありますが、今後SPを付ける予定は?」
「ないよ。」

「申し訳ないが、コメントは私を通してくれ。」ミルトが言った。
「彼にSPを付ける予定は?」
「ない。私が彼を守っている。」
「何か武道の経験はあるんですか?」
「昔、近所の年寄りにカラテを習った。彼に手を出す人間は私がカラテチョップをお見舞いする。」

「ギブ・ミー・ヤー・オートグラフ!」若者がチャーリーに近付いた。
「ああ、いいとも。」チャーリーは色紙を受け取った。
「ペンはあるかい?」
「あるよ」と若者は、若者に扮した殺し屋リー・ジョーダンは彼の持つリボルバーの銃口をチャーリーに向けた。

群衆はチャーリーの周囲で熱狂していた。
ミルトはテレビクルー達と話をしていた。
チャーリーは自分に銃口を向けた若者を見た。
知らない人物だ。
だが、俺は当に今この若者に殺されようとしている。
チャーリーの体から汗がひいて唇が冷えきった。

「バイバイ、アルビー」
リー・ジョーダンは言った。
「女癖が悪いのが災いしたな。」

この群衆の中の誰もが、俺の死に気が付かない。チャーリーは思った。
俺は死んだのだ。チャーリーは思った。
チャーリーは目をつぶった。せめて死ぬ前に、もっとも幸福なイメージを思い浮かべなくっちゃ!
チャーリーは自らが考える最も幸福な図像を思い浮かべようとした。
予想外にもバニーガールが脳裏に浮かんだ。
尻!
チャーリーは思った。
バニーガールの臀部についた丸いふさふさの綿球が、右に左に揺れた。
尻!
その瞬間に銃弾がチャーリーの眉間を撃ち抜く衝撃が、あるはずだった。
だが、衝撃はなかった。
どうやらチャーリーはまだ生きていた。

チャーリーは目を開けた。
銃口を向けた若い殺し屋が白目を向いて倒れる所だった。
倒れた後ろに女がいた。

「君は」見覚えがある。
アラビアン・ナイトのような顔を覆うベール。
バドの店で出会った女占い師だ。
「ペギー」

「こっちよ」
女はチャーリーを連れてその場を逃げた。
ヘリコプターに乗っているリポーターがそれに気付いた。
「アルバート・B・フォックスが何者かに、連れ去られました!皆さん、アルバートが誘拐されました。」

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深夜映画の放送に割って入ったニュース速報を見た本物のアルバート・B・フォックスは唖然として、口に加えたチョコレートを落とした。
「どうなってるの?」
隣にいるテレサ・ジョーダンが聞いた。
「どうなってる?」
アルバートはチャーリーに電話を掛けた。

チャーリーが電話に応答した。
「おい、チャーリー。どうして誘拐されてるんだ!」
「誘拐じゃない!」
「女に連れ去られている!」
「助けて貰ったんだ!それより、命を狙われたぞ!どういうことだ!殺されるとは聞いてない!」
「スターは命を狙われるものなんだよ!」
「人気も落ち目で何がスターだ!この泥被りめ!」
「なんだと!ケツを蹴っ飛ばすぞ!」
「蹴っ飛ばしてみろ!くたびれたロバみたいなアル中の老いぼれ!」

「どういうことなの?アルビー?」
アルバート・B・フォックスの若い恋人テレサ・ジョーダンが尋ねた。
「命を狙われているらしいよ。」アルバートは答えた。
「もしかして」テレサ・ジョーダンは言った。
「その先を言っちゃいけないよ」アルバート・B・フォックスは言った。

「君のパパはいくらなんでもそこまでしないさ。」
「でもパパはギャングスターだもの。」
「大丈夫。俺は死なないよ。例え殺されたって。」

電話口でチャーリーは叫んだ。
「聞こえたぞ!ギャングスターから命を狙われてるって!どういうことか説明しろ!」
「落ち着けよ、チャーリー。クールに行こうぜ。至極シンプルで単純明快な話なんだ。テレサ・ジョーダンは俺の恋人で、同時にギャング団のボス、ジャンゴ・ジョーダンの娘で、今俺たちは愛の逃避行の真最中なんだ。」

「死ね!」チャーリーはアルバートを面罵した。
「お前がいま此処に来て死ね!どうして俺がお前の代わりに殺されかけてるんだ!」
「運命だよ、お前が死ぬのも、それを俺と恋人がベッドの上でよろしくやりながら見届けるのも。早く外に出て盛大に殺されてくれ。」
「約束は反故だ。お前の身代わりなんて真っ平ゴメンだ。」
「チャーリー、冷静になろうぜ。お前は無職だ。一文無しのチャーリー・レッドマンだ。もし、お前が時々俺の身代わりをしてくれるなら、お前にサラリーを払っても良いと思っているぜ。」
「いくらだ」
「月に1000ドルだ。」
「1000ドルっていくらだ」
「100ドル紙幣が10枚だ。パープル・ローズのウェイトレスのパンツを10回覗けるんだぜ。」
「悪くない」
「そうだろう?」
「1500ドルにしてくれ」
「なんだと、文句があるなら900ドルだ。調子に乗りやがってポンコツめ。」
「文句はない」
「話は決まりだ」
アルバートは電話を切った。

「ポンコツはお前だ!」チャーリーは叫んだ。
ペギーが尋ねた。
「どうしたの?」
「アルバート・B・フォックスは正真正銘の糞野郎だ。」
「人を悪く言ってはいけないわ」
「君は優しいね、それにとてもビューティフルだ」
「あら、嬉しいわ。でも私の素顔を見ても同じことが言えるかしら。」
「言えるとも。人を見る目は確かだ。マスクを外しても良いかい?もし宜しければ君に口づけをしたい。」
ペギーは少し考えていたが「いいわ」と言った。

チャーリーはペギーに近付いてベールに手をかけた時、チャーリー・レッドマンの古き良き友人でバドのピアノバーを営むバドが現れて言った。
「おいチャーリー、ABCスタジオまでの抜け道はこっちだ!」

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懐中電灯で足元を照らしながらチャーリー達は下水道の側道を歩いていた。
「全くお前には驚かされる!」バドは言った。
「テレビに出演したアルバート・B・フォックスがどう見ても我らがチャーリー・レッドマンだ。一体何が起こったんだい?」
「紫のバラを探していたら、いつの間にかこうなったんだ。」
「バラは手に入ったのかい?」
「それが何処にも無いんだよ」
「畜生!」バドは叫んだ。
「可哀想なチャーリー。俺がバラを待っていたら間違いなく全部お前にあげるのに!」
「バド、お前は良い奴だ。」

「ねえ、待って。」ペギーが二人を止めた。
「誰かいるわ。」
「こんな所に?」
「ネズミじゃないのかい?」バドは懐中電灯で行先を照らした。
「誰もいないじゃないか。」
「変ね、いたのよ、確かに。」
「こんな下水道にいるとしたら、それは」
チャーリー・レッドマンは言った。
「ゴーストだ!」
「やめてくれ、怖い!」バドは言った。
「そうよ!怖いわ!」
「ハハハハ」とチャーリーは笑った。

「ゴーストよりも怖いものがあるんじゃないのかい?アルビー?」

下水道に知らない男の声が響いた。
ゾッとして三人は黙った。
「ハハハ」見知らぬ声は笑った。

「クイズを出そうか、ゴーストより怖いもの、なあんだ?」

声は聞こえるが、三人には姿が見えなかった。
声だけが三人を嘲っていた。
「どこにいるんだ!」バドは怒鳴った。

「おい、そこのヒゲ」声は言った。
「誰のことだ」バドは尋ねた。
「お前の事だ、他にヒゲはいないだろう?」見知らぬ声は言った。
「いない!」バドは言った。
「クイズに答えろよ。ゴーストよりも怖いものは?」見知らぬ声は言った。「俺は蜘蛛が怖い!ゾッとする。」バドは叫んだ。
「そういう話じゃない!」声は言った。
「俺の正体を当てろと言ってるんだ、トンチキ野郎!」

「殺し屋よ」ペギーが言った。
「正解だ」声が言った。
「殺し屋だって!」バドは恐ろしさのあまり震えた。
「怖い!」

「そうだよ、俺は殺し屋だ。どうやって殺されたい?溺れるのが良いかな。それとも焼かれるのが良いかな。ちくちく刺したり、首を締めたり。どんな殺しもできるんだぜ。」姿が見えない殺し屋は言った。
声が、下水道の壁に反響した。

「ひゃ!」バドが叫んだ。
「何か落ちてきた!毒蜘蛛だ!」
「大変だ!振り払え!」チャーリーは言った。
「助けて!殺される!」バドは言った。
「毒蜘蛛は何処だ!」チャーリーは言った。
「待て!」殺し屋の声は言った。
「まだ何もしてない!」
「怖いよ!」だが、恐怖に震えるバドには殺し屋の声がすっかり聞こえなかった。
「卑怯者!」チャーリーは憤った。
「何もしてないったら!」殺し屋は叫んだ。
「わああああ」バドは混乱して走り出した。
「待てよ」チャーリーはバドを追いかけた。
「落ち着け」殺し屋は二人を追って走らねばならなかった。

------
チャーリーはロープで縛られていた。
「死にたくない!」チャーリーは叫んだ。
その傍らにバドがいる。
下水道に現れた姿の見えない殺し屋、イアン・ペインはようやく姿を現してチャーリーに言った。
「アルバート・B・フォックスに娘を攫われて、息子まで怪我をさせられてドン・パパは怒っているんだ。更にはどこぞの女優がアルバートに賞金をかけて、横から奪い去ろうとする。どいつもこいつもギャング団に舐めた真似をしやがる。俺たちは怒っているんだぜ。怒ったドン・パパはどうしたと思う?」
「わからない」バドは言った。
「考えてごらん」イアン・ペインは言った。
「わからない!」バドは言った。
「当てたらいくらくれるんだ。」チャーリーは言った。
「当てても何もない」殺し屋であるイアン・ペインは言った。
「わからない!!」バドは言った。
「お前はケチだ。」チャーリーは言った。
「待て、俺の質問にだけ答えてくれ。」イアン・ペインは言った。
「混乱するから。」
「そろそろ答えを言ってくれ。」チャーリーは言った。
「もっと高額の賞金をかけたのさ、このバカに。女優の賞金が1万ドル。ドン・パパはその10倍の10万ドルだ。」

「10万ドル!」バドは叫んだ。
「そうさ、こいつを売れば10万ドルだぜ!」イアンは言った。
「そそられるだろう?」
「助けてくれ!バド!」チャーリーは言った。
「10万ドルだ!」バドは言った!
「何を言ってるんだ!俺は10万ドルじゃない!」チャーリーは言った。
「お前は10万ドルだ!」バドは言った。
「いいぞ!」殺し屋であるイアン・ペインは手を叩いて喜んだ。
「もっとだ!アルビー、ダチに売られて絶望しろ!お前は美味しそうな豚の丸焼きだ!」
「お前は美味しそうな豚の丸焼きだ!」バドは叫んだ。

ゴイン。鈍い音がした。
バドが振り返ると殺し屋であるイアン・ペインがゆっくりと倒れる所だった。
「なんだ!何の音だ!」縛られて状況が見えないチャーリーは叫んだ。

それはペギーがフライパンでイアン・ペインをやっつけた音だった。
「さあ、ABCスタジオに行くのよ!」ペギーは言った。

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ABCスタジオの前ではアルバート・B・フォックスを待つ群衆が人山を作っていた。
「来たぞ」誰かが叫んだ。
ある者はアルバート・B・フォックスの信者で彼に熱烈な握手を求めて手を伸ばし、ある者は恋愛主義者でヘレン・オルビーの元に彼を即刻連れて行くのだと使命感に燃えてた。またある者は暴力への信奉者であり、拝金主義者であり、ドン・パパことギャングスターのボス、ジャンゴ・ジョーダンが設けた高額の懸賞金を得ようとチャーリーに向かって捕縛縄を投げた。
それぞれの熱狂を、膨大な人波を、それ以上の熱狂を以てしてチャーリー達は跳ね除けた。
「サンキュー!サンキュー!」チャーリーは怒鳴り散らしながらABCスタジオのエントランスに向かって真っ直ぐに進んだ。
「握手は後にしてくれ!」バドもチャーリーの脇を固めながら群衆を押しのけ、チャーリーの為の道を作った。

正面玄関にはアルバート・B・フォックスのマネージャーであるミルト・フラメルが待っていた。
「アルビー!良かった!お前が誘拐されたかと思っていた。」
「大丈夫だ、ミルティー。俺は帰ってきたよ。」
「このヒゲは誰だ、それにこのご婦人も。」
「友人だ、大切な。」

---------------------------
番組の司会を務めるフレディ・ロウもアルバートの到着を歓迎した。
「お前のためにサプライズを用意したんだ。来てくれて良かった!」
「サプライズ?」
「番組はお前の人気にあやかってスペシャルステージを用意したよ。ビッグバンドまで用意して。」
そうしてテレビスタッフがチャーリーに衣装を手渡した。
「紫色のタキシード!装飾は紫のバラだ!」バドは言った。
「やったぞ、チャーリー!」
「本当?やった!」
「そうだ、今日の衣装だ。それを着て一曲披露するんだ。」フレディ・ロウは言った。
「見てくれ、ペギー。紫の薔薇を手に入れたよ!」チャーリーは言った。
「そうね」ペギーは言った。
「これを持って早く行かなくちゃ!」チャーリーは言った。
「待ってくれ、何処へ?」フレディ・ロウはチャーリーを捕まえて言った。
「俺の大切な人間に紫の薔薇を渡したいんだ。」チャーリーは言った。
「歌わなければ、その衣装は渡せない。」フレディ・ロウは言った。
「どうしても?」チャーリーは言った。
「もちろん」フレディ・ロウは言った。
「番組が始まる前にバンドリーダーと打ち合わせをしてくれ。」
「なんの曲を歌えば良いんだ。」
「任せる。バンドと相談して決めろ。」
チャーリーは渋々と了承した。
「お前のステージは番組の冒頭だ。番組が始まる。幕が上がる。階段がある。階段からお前が降りてくる。ビッグバンドが演奏を始める。スポットライトが当たる。お前が歌い始める。分かったな。」
「歌詞カートは持っても良いのか」チャーリーは言った。
「テレビショウだぞ。KARAOKEじゃないんだ。」
「歌詞カードがないと歌えない!」チャーリーは言った。
フレディ・ロウは渋々承知した。

---------------------
「今日はスペシャルなゲストを呼んでいるんだ。稀代の名俳優にして今晩のこの街の主役、まさに今10万ドルの懸賞首アルバート・B・フォックス!」
フレディ・ロウが紹介をしてステージの幕が開き、階段から紫のタキシードに身を包んだチャーリー・レッドマンが降りてきた。
バンドリーダーが指揮棒を振った。
バンドが演奏を始めた。


You must remember this
A kiss is still a kiss
A sigh is still (just) a sigh
The fundamental things apply
As time goes by・・・

----------------------
ダイナー・パープル・ローズのウェイトレスのヴァルダは店内のテレビを見て言った。
「あら」
先程の男が映っていた。
  As time goes by・・・
男の声が騒がしかった店内に染みていき、徐々に客は鎮まった。
   As time goes by・・・

--------------------------
  殺し屋であり、ギャング団のボス、ジャンゴ・ジョーダンの義理の息子でもあるリー・ジョーダンは怪我をして自室のベッドで寝ながらテレビを見ていたが、チャンネルを変えると怪我の元凶となったアルバート・B・フォックスが歌を歌っていた。
  As time goes by・・・
その隣にはやはり怪我をしてベッドに寝ているギャング団の殺し屋イアン・ペインがいた。沁沁と歌を聴いてイアンペインが言った・
「人生には余裕が必要だ」
「自分に怪我を負わせた理不尽な運命を許せるだけの」 

--------------------------- 
バドとペギーはスタジオの隅でチャーリー・レッドマンのステージを見ていた。
----------------------
アルバート・B・フォックスのマネージャーであるミルト・フラメルはステージで歌う彼の友人に銃口を向けた。 
   As time goes by・・・
だが、銃口を下げた。  
モバイル・フォンが鳴って画面にはドン・パパことジャンゴ・ジョーダンの名前が表示された。ミルト・フラメルはモバイルフォンの設定をデナイアルに変えた。
------------------------
紡績工場の製造部主任、ナット・アーモンドはワイフとテレビを見ていた。
「素敵ね。」ミセス・アーモンドは言った。
「ああ、ダーリン」ナット・アーモンドは言った。
      As time goes by・・・

----------------------
      As time goes by・・・
ホテルにいたアルバート・B・フォックスの恋人、テレサ・ジョーダンはチャーリーの歌声を聴いてひとつの決心をした。
 テレサ・ジョーダンは服を着て鏡で自分の姿を確認した。
それから彼女の目の前にモバイルフォンをセットした。

「アロー、アロー」テレサ・ジョーダンはモバイル・フォンに向かって言った。そして彼女は画面上のボタンを押した。

You must remember this
A kiss is still a kiss
A sigh is still (just) a sigh
The fundamental things apply
As time goes by・・・
-----------------------
チャーリーの歌う裏側、ABCスタジオの機材室にスタッフが駆けつけてきた。
「大変です。」
「なんだ」プロデューサーは言った。
「アルバート・B・フォックスの恋人のテレサ・ジョーダンが先程からライブ中継を発信しています。」

モバイルフォンの小さな画面にアルビーの若い恋人、テレサ・ジョーダンが映っていた。
「アルビーを愛しているの。もちろんパパのこともよ。」

「パパって?」プロデューサーは尋ねた。
「ジャンゴ・ジョーダンですよ。ギャング団のボスの。」
「ああ、10万ドルの賞金をかけた?」
「いまは25万ドルに上がってます。」
「どうして?」
「ヘレン・オービルと賞金額を競っています。」
「ヘレン・オービルの賞金額はいま20万ドル。あ、30万ドルに上がりました。」
「あんなくたびれた奴に?」
「そう」

テレサはライブを通じて父親に恋人との愛が本気であること。アルバートは誠実な男であることを訴えた。瀟洒なホテルの一室であるようだった。渦中の関係者であるテレサ・ジョーダンのライブ映像は瞬く間に視聴者を増やした。

「凄い視聴者数だ」プロデューサーは言った。
「本当」スタッフは言った。
「テレビより凄い」プロデューサーは言った。

テレサの背後にバスローブ姿の男が映った。シャワーを浴びたばかりのようで髪が縮れてボサボサになっている。何かを探しているようで、ウロウロしている。
「歯ブラシ知らない?」バスローブの男、アルバート・B・フォックスはテレサに尋ねた?
話しかけられて背後を振り向いたテレサは仰天した。
あられない姿のアルバートがいる。
「何やってるのよ!」
「歯ブラシ知らない?」
「ムービーが映ってるのよ!」
「ムービー?」
アルバートは画面を覗き込んだ?
「なんだい?これ?」
「きゃああ!」
テレサは慌ててアルバートを画面の外に押しやった。
そしてライブは突如オフになった。

番組プロデューサーとスタッフは顔を見合わせた。
「ライブ映像にアルバートがいたぞ!」
「いました。」
「じゃあ、今ここで歌っているあいつは誰なんだ!」
        As time goes by・・・  
チャーリー・レッドマンは朗々と歌う。

機材室にもうひとりスタッフが駆け込んだ。
「視聴者から電話が殺到しています。」
「どんな?」
「歌っているアルバートが偽物だという苦情と」
「と?」
「その偽物の歌が素晴らしいという賞賛と」
「と?」
「新しいスターの名前を教えろという問い合わせです」
「比率は?」
「圧倒的に後者です」
「フレディ・ロウに伝えろ。奴の正体を聞き出せ」

------
フレディ・ロウに尋ねられてチャーリーが語った物語は番組視聴者に大きな驚きを与えた。
「君の名前はチャーリー・レッドマン?」
「イエス」
「アルバート・B・フォックスではなくて?」
「イエス。」
「チャーリーと呼んでもいい?」
「イエス」
「新しいスターの誕生だ。」フレディ・ロウは言った。
「チャーリー、君のダミ声は天使のようだ。」


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歌い終えたチャーリーにペギーとバドが花束を渡した。
「バラだ」
「紫よ」
「これは何処から?」
「花屋の女店主が差し入れしてくれたんだ」
ペギーは言った。
「さあ、紫のバラを大切な人に届けて。」
「彼女はどこにいるんだろう?」
「テレビなのよ。名前を呼べば伝わるわ。」
「カメラはどこ?」
「あれじゃないかしら?」

チャーリーは言った。
「僕の恋人、見てるかな。ええと、君の前から急にいなくなってごめん。君に謝りたい。」

番組スタッフはプロデューサーに言った。
「何が始まったんでしょう?」
「わからん」
「あのカメラはさっき壊れた奴ですよ。映ってません。」
「そうだな」プロデューサーは言った。

テレビカメラはオフになったカメラに切々と語りかけるチャーリーとそれを背後で見守るペギーを放映した。
「なんであいつらは気付かないんだ。変な構図だ。」スタッフは言った。「顔のアップはできない?」プロデューサーは言った。
「カメラに寄りすぎてできない。」
「教えてやれ。」
「必死すぎて邪魔するのが。」
番組プロデューサーは言った。
「せめて音声だけは拾ってやれ」

「君に謝りたいんだ、エラ。君は何処にいるの?」
チャーリーは言った。
「君に会いたい。」

「ここよ」

とペギーは言った。
「ここ?」チャーリーは振り向いた。
ペギーはオリエンタルファッションのベールを外した。
「君は、エラ!」
「あなた、気が付かなかったの?」
「全く、気が付かなかった。」
「本当に呆れた人ね。」

「なんだ?」プロデューサーは言った。
「恋人と再会したようです。」スタッフは言った。
「もしかして感動的な場面?」
「たぶん」
「アップにして音楽を入れよう」
「わかりました。」
「照明も変えて」
「スポットライトを」
「わかりました。」


チャーリーは言った。
「エラ、言われた通りに紫のバラだよ。」
「そうね、紫ね。」
「僕は色が見えない。この世界は僕にとって白黒映画のようにモノクロームだ。」
「そうなのね」
「君の唇の色も、チークの色も。僕には灰色にしか見えないんだ。僕にとっては当たり前の灰色の世界では、君の魅力に気付くこともできない。君が今日と昨日とルージュの色を変えたところで僕は気付くこともできない。あの日、君は新作のルージュを唇に塗った。それから振り向いて「どう?」と尋ねた。僕は返事ができなかった。わからないんだ。新作のルージュが君の美しさを引き立てたのかどうか。それが急に恐ろしくなって、それで僕は逃げ出してしまった。」
「バカね、チャーリー、そんなことで。」
「僕自身が色あせた人間なんだ。街の季節が移り変わっても、君がどんなに着飾っても。」
エラはチャーリーの頬にキスをした。
「どう?」
「あたたかい」チャーリーは言った。
「それにホットだ。」
「何色?」
チャーリーはエラの顔を見つめた。愛くるしい微笑みを。チャーリーの頬に燃えるような温度を残した、エラの美しい唇を。新しいルージュを試したエラの唇がたとえ灰色であったとしても、エラは魅力的ではなかったか。あの時も彼女の唇は燃えるような温度を放っていたのではなかったか。
「赤だ。少なくとも僕にとっては。燃えるような情熱の色。」
チャーリーは言った。
「そうよ。」
もう一度、エラはチャーリーに口づけをした。

番組スタッフは言った。
「感動的です。」
プロデューサーは言った。
「音楽だ。音楽を鳴らせ。盛大に音量を上げろ。」

フレディ・ロウは叫んだ。
「番組始まって以来のスペクタクルだ!」
観客たちは立ち上がってアンコールを叫んだ。
「アルビー?いいや、チャーリー、アンコールだ。アンコールを頼む。」
「何を?」
「何ができる?」
「ニューヨーク・ニューヨークは?」
「いいとも」
華やかに照明がステージを照らして、ビッグバンドが前奏を奏で始める。

「僕には相変わらずこの世界は灰色だけれど、その灰色の中に色があるんだ。色を感知できるのは網膜ばかりじゃないってことさ。今日のカクテルが赤色だろうと、青色だろうと、あるいは紫色だろうと。人生はそんなに悪いものじゃなかったね。今の所ね。バドの店でバイオレット・フィズを飲んで、チャイニーズレストランでチャオズを食べてダイナー・パープル・ローズでブルーベリーワッフルを食べる。一人でも良いけれど、二人ならもっと楽しい。僕が赤で、君が青。違いがあっても気にしないで。交われば紫に」なる。良いことがあった日には紫の薔薇と紫のルージュを大切な人に贈ろう。ルージュと化粧品ならマクドナルド社を。」
テレビ画面にはチャーリー・レッドマンがルージュのコマーシャルに出演している。
人生はそんなに悪いものじゃない、今の所ね。

(了)

短編小説「ダーリン・イズ・イン・モノクローム」村崎懐炉

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