短編小説奇々怪々「ひとだま饂飩」
第一景「実録うどんの怪」
「屋台」(Kさん・40代男)
この前さ、家に帰るのに近道しようと思って。
墓地を通るんだけどさ。
もう深夜になろうかという時間で。
墓石が黒い影になって並んでるんだよね。
墓石って全部形が違うじゃない。
高さとか大きさとか。それが影になってると
人が並んでるように見えるんだよね。
そうしてさ、みんなこっち見てるような気になるの。
それで、良いお墓と悪いお墓がなんとなく分かるの。
良いお墓っていうのはさ、お弔いが行き届いてるお墓ね。大事にされてるのが分かるんだよね。
で、悪いお墓っていうのはさ、蔑ろにされてる。
多分死に方もあまり良くない。
そんな悪いお墓の前を通ると、強烈に感じる。視線、というか、何か良くない気を。
前を通るだけで怖いんだよね。
それとね、これ、いつも気を付けているんだけど。
夜に墓地を通るときは毎回、道を変えてる。
悪いものに覚えられないように。
で、その日もね。墓地の中を通って帰ろうしてさ。
歩いてたら、なんか明かりが見えるのね。
墓地の中に。
で、何だろうと思ったら屋台、があるんだ。
墓地の真ん中に。
屋台の電燈が光ってる。
墓地、だよ?
人が通るはず無いじゃない。
いや、現に自分が通ってるんだけど、でも稀だよ。
商売が成り立つわけがないし、怖いよね、普通。
どんな奴がやってんの、と思って遠目に目を凝らしたんだけど、店員も客もいないように見える。
自分も歩いているからね、どんどん近づくんだけど。
やっぱり無人、なんだよね。
で、近寄って分かったんだけど、
その屋台お墓の区画の中にいるのよ。
通路とか、空き地とかじゃなくて区画の中。ちょうど二つ並んで区画が空いているところがあって、そこに屋台がある。
異常だよ。
だって、お墓の中だよ。
そこは死んでる奴の場所なんだよ。
もう気持ち悪くてさ、店員が何故かいないんだけど。そんな異常な店員、怖いじゃない?
戻ってくる前に去ろうと思って速足で通り過ぎたの。
そうしたらさ。
「おい」
って呼ばれたんだよね。男の声で。
振り返れないよ。
気付かないフリしてさ、速足で去った。墓地を出た。
だって誰もいなかったんだぜ。
で、とにかく怖かったのがさ。
「おい」って声掛けられた時に、
その声、俺の真上から聞こえたんだよね。
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「屋台 その2」(Yさん・20代男)
その日は友達と部屋で飲んでいて、夜中に酒が無くなったんでコンビニに買いに行こうって話になって。
で、俺と友人の二人で歩いてコンビニに行って。
この辺、勾配の大きな坂が多くて酔ってる時に歩くのは結構きつい。
で、コンビニ行く途中の坂も通称、地獄坂なんて呼ばれてる。
キツイんですよね、勾配が。
で、酒買って部屋に戻るんだけど。
途中で、屋台をひいてる人がいたんですよね。
道の向こうから歩いてくる。
今時珍しいなあと思って。
人力なんですよ。
男の人が一生懸命曳いてるんです。
重そうだから手伝ってあげようかな、とか。
思って、友達にどうする?って聞いたんですけれど、
友達が、全無視なんですよ、ね。
で、おい、なんだよって、言ったんですけれど。
結局屋台の人は通り過ぎて、友達も何も喋らないまま部屋に着いた。
お前、無視すんなよって言ったら友達が、馬鹿って言うんです。
お前気が付かなかったのか、って、友達が。
何が、って聞いたら。
俺たちが屋台と擦れ違ったの、坂道で。
俺たち、坂道を登ってたんです。
勾配がきつくて。
だから坂道を下ってる屋台が、転がらないように抑えるなら分かるんだけど
一生懸命曳く、って
逆なんですよね。
そんなこの世の理とは真逆の者と擦れ違ったんですよ、地獄坂で。
勾配がきついから地獄坂って呼ばれてるんだと思ってましたけれど、
もしかしたら別の謂れがあるのかもしれないですね
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「屋台その3」(Yさん・20代)
これもYさんの話。
友達と別の日にまた部屋飲みしてたんですよね。
で、腹が減ってやっぱりコンビニになんか食べ物買いに行こうかって外に出たんです。
途中で屋台があってね。
大きな松の木が生えたところがあるんですけれど、
そこで屋台が開いてる。
で、屋台も良いねえって、言って。毎回コンビニのおつまみも飽きるじゃないですか。
で、屋台に入って何がある、って聞いたら
悪いねえ、お客さん、今日は、もう終わっちゃったよって言うんです。
お店の人が。
で、ああ、そうなのって結局コンビニ行ったんですけれどね。
帰り道に同じ所を通るでしょう?大きな松が生えてるところ。
そうしたらまだそこに屋台がいて、客がいるんだ。
俺たちには終わっちゃった、なんて言ってたのに、
変だよね。
お父さんと、お母さんと、真ん中に小さなこどもがいる。
三人とも赤い服を着てる。
まあ、お店の人もさ、俺たちみたいな酔っぱらいの兄ちゃんの相手は、面倒だったのかもしれないね。
厭味のひとつも言ってやろうかと思ったけれど、小さな子供もいたし、何も言わずに通り過ぎたんだよ。
近く通ったら饂飩を啜ってる音がしてね。
親子三人で無言で饂飩を啜ってる。
そんなに美味しいのかな、なんて思ってさ。
部屋に戻る手前で、なんだか騒がしくてさ。
人がいっぱい集まってるの。
で、どうしたのって聞いたら、事故があったんだって。
大きなトラックが乗用車にぶつかって、親子三人即死だってさ。
車が潰れちゃっててさ、レッカー車で移動するところだったんだけど、
ガラスにね、血が、飛び散ってる。
部屋に戻って、よく考えたらさ。
屋台の親子って饂飩啜ってた訳じゃなくて、
あれ啜り泣いてたんだよね。
死んだ親子がさ、最後に屋台に入ったのかな、って友達と話をして。
俺にはお店の人が普通のおじさんに見えたけれど、
友達にはお店の人の顔がものすごく真っ青で気味が悪かったって。
で、俺も思い出そうとしたんだけれど、
お店の人の顔、全然覚えて無いんですよね。
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「屋台その4」(Yさん・20代男)
これもYさんの話。
二回も変な屋台を見たし、ちょっと夜中に出かけるのは気味が悪くて
友達と飲むことも控えてたんですよね。
そうしてたら、いつも飲んでた友達が死んだんですよ。
首吊って。
ショックでしたけれどね。
通夜に参列したんです。
ご焼香して、振り向いた時に会場の中を見渡して、参列者が見えるじゃないですか。
一人だけ白い服の人がいるんですよ。
なんだと思ったら、調理人の白服で、ニタニタ笑ってる。
ああ、屋台のアイツだ、って思いましたよね。
友人を迎えに来たんだ。
今晩はきっと大松の所に屋台が出て、友人がそこで饂飩を啜るんですよ。
そう思って改めて見たら、もう居なくなってたんですけれどね。
屋台を確かめに松の木の所には行かなかったです。
だって、そんな事したら
次は俺の番になりそうだし。
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「うどん」(Mさん・20代女)
不思議なうどんの屋台が出るって聞いて夜中に歩いて探してたんですよ。
死んだ人が食べに来る屋台なんですって。
私の彼氏が死んじゃったんで、会えるかなって。
何日か探して、屋台がいたんですよ。
で、遠目に見て、でも屋台はあって電燈が光ってるんですけれど、
誰もいないんですよね。
お店の人も。
意味が分からないんで、帰ろうとしたら。
目の前で火が燃えてるんです。
なんて言うんですか?鬼火、とか人魂、って言うんですかね。
で、その晩に夢を見たんです。屋台の店の人が饂飩粉の塊を捏ねてるんですけれど、それが死んだ彼氏なんですよね。彼氏が何度も捏ねられて、最後に饂飩にされちゃう。
出来上がった饂飩は若布饂飩かな、って思ったら若布じゃなくて
髪の毛だったんですけれどね。
若布饂飩は夢だけど、屋台と鬼火を見たのは本当。
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「怪人」(Rさん・50代女)
最近、子供たちの間で怪人饂飩人間、という話が広まっているんですよ。
夜に外を歩いていると、首が長い調理服の男が現れて、子供達に天麩羅饂飩と月見饂飩の何方が食べたいか聞いてくるんですって。
天麩羅饂飩と言えば全身を油で揚げられて、月見饂飩と答えれば首を落とされる。
でも、素饂飩が食べたいと云うと何もされずに男は消える、とSちゃんが説明してくれました。
あとね、怪人饂飩人間は饂飩のように体が伸び縮みするんですって。体、というより首が。首がろくろ首みたいに伸びる。
首が長い時ほど危険なんですって。
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「怪人その2」(Rさん・50代女)
※これもRさんが子供から聞いた話。
Rさんは自宅を使って自学自習形式の学習塾をやっている。
Sちゃんの友達のお姉さんが怪人饂飩人間に会った事があるんですって。
お姉さんが、夜に家に帰る道を歩いていたら、誰かが後ろを付けてくる。足音が後ろから聞こえて来るんですって。
それでお姉さんが振り向いたら調理人服を着た男の人がすぐ後ろにいたんですって。
それだけでも怖いのに、体が大きい、というより首だけ長い。
体型がおかしかったらしいんですよ。
その男の人に〇〇神社に行きたいから道案内してくれないか、って言われたんですけれど、異常ですよね。夜、ですよ。
夜の神社に、道案内してくれと言われても出来ないですよね。ちなみに〇〇神社って赤い鳥居がいっぱい並んでる所。
京都の伏見稲荷を小さくした感じで、昼間でも少し怖いんです。
断ったら男の人の首がグーンと伸びたそうですよ。
それでお姉さんは怖くなって逃げたそうです。
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「怪人その3」(Rさん・50代女)
※これもRさんが子供から聞いた話。
怪人饂飩人間が現れた時に蕎麦の話をすると怒ってうどんの国に連れていかれてしまう。
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第二景「大牟婁勘太郎少年の闇んでるニュース」
夜は益々闇濃さを増していた。窓ガラス越しに見える外界には恐ろしき魑魅魍魎が跋扈している。
奇怪な形の木の枝が、人面の岩石が夜の中に妖しく息づいているのだ。
「駄目だ…ッ…!」
大牟婁勘太郎少年は自室の電算機械に向かって悲鳴をあげた。
彼の毎月に一度放映している「大牟婁勘太郎の闇んでるニュース」は牟婁伏市の怪奇時事を特報するものであるが、締切を一週間後に控えても、未だ大牟婁勘太郎少年には放映すべき題材に何ら霊感が訪れない。
大牟婁勘太郎少年は電算機械の入力端末を握り締めて大いに困窮したのである。
その時、大牟婁勘太郎少年の耳に異音が聴こえた。
「何だッ…!」
大牟婁勘太郎少年は戦いた。
何かが…いる…!
振り向いた大牟婁勘太郎少年の目に窓ガラスから見える夜の闇濃さと、ゴオオオッと唸った一陣の風が庭に生う奇っ怪の樹木の枝ぶりを汚賤の悪魔の如く見せた事が、勘太郎少年の恐怖心を煽った。
「ウワーッ…!」
だが、風が過ぎれば奇っ怪の樹木の枝も今は物言わぬ、一植物に違いないのであった。
「なんだ…ッ…!タダの木の枝だッ…!」
だが、再び大牟婁勘太郎少年は驚愕する事になる。
手が、窓ガラスに張り付いたのである。
「ウワーッ…!」
ビタッ…!
確かに人間の掌が窓ガラスを揺らした。
「手だッ…!」
「手が…ある…ッ…!」
大牟婁勘太郎少年が戦く眼前に手は再た一ツ増えて窓ガラスに張り付いた。
「ギャーー…ッ…!」
更に大牟婁勘太郎少年は驚愕した。
手の向こうに顔がある。
それは美しい顔ばせの少女であった。
「あっ…ッ…!」
少女の目と、少年の視線が交錯した。
隣に住む御斎美津子が屋根伝いに大牟婁勘太郎少年の部屋に遊びに来たのであった。
「お姉ちゃんッ…!」
大牟婁勘太郎少年は窓を開けた。
「ホホ…ホホ…ホホッ…!」
御斎美津子は笑った。
「勘太郎ちゃんたら、驚いちゃって可愛いわ…ッ…!」
御斎美津子は勘太郎の五級上の学年であった。少年少女にとって五級の歳の差は大人子供の差に等しい。勘太郎少年は御斎美津子から子供扱いされ、それを否定し得ない自らに恥じ入るのであった。
「困っているのね、勘太郎ちゃん……!」
御斎美津子は言った。
「闇んでるニュースのネタが無いのね……!」
「ウワー…ッ…!」勘太郎は叫んだ。
締切まであと一週間。動画撮影には一両日を要し、音声編集には一日、動画編集には三日を要する。企画と構成の締切は実の所本日が死線であった。勘太郎には後が無いのだ。
その身悶えを見て御斎美津子は嗤った。
「ホホ…ホホッ…!」
御斎美津子の嗤笑は尚も大牟婁勘太郎少年の柔らかな精神に刺さるのであった。
「大丈夫よッ…!」
御斎美津子は言った。
「えッ…!」
勘太郎は、美津子を見た。
美津子は美しい少女であった。勘太郎にとっては姉も同然の幼馴染で、一番身近な大人であった。
勘太郎は美津子から大人の手ほどきを受けて、幼児から少年と成った。その美しい美津子の眼球が勘太郎を見据えている。
「人魂饂飩…ッ…!」
西洋人形のように整った美しい顔ばせの美津子は言った。
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「人魂饂飩…ッ…!」
勘太郎は言った。牟婁伏市の怪奇時事を網羅する勘太郎さえ、その事象を知らない。
「そうよ…ッ…!」
美津子は言った。
その恐ろしき響きに勘太郎はガタガタと震えた。
風が、ゴオオオと唸りながら、再た吹いて、庭に生う奇っ怪の樹木の枝を揺らした。
「人魂饂飩…ッ…!」
美津子は勘太郎に新たに生まれた牟婁伏市の怪奇について話し始めるのであった。
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ミニスカートの裾に若き肢体を覗かせる女子高生が、二人並んで歩いている。
鞄に付けた獣型のキーホルダーが揺れた。
夜である。
その二人の前に男が立ちはだかった。男の顔は月魄の影に落ちて見えない。首が、異様に長い。
異形の長い首の男が、二人を見下す。
「ギャ…ッ…!」
二人は悲鳴を挙げた。
「淫蕩め…ッ…!」
男は傍らの女子高生を指差した。
そして一人が女子高生の喉奥に腕を突ッ込んだ。
「ギャ…ッ…!」
喉奥に腕が挿入って女子高生(JK)が白目を剥いて嗚咽した。
「ギャーーッ…!」傍らの女子高生(JK)は其れを見て悲鳴した。
「ワハ…ハハ…ッ…!」
首長男の嗤い声が夜の住宅街に響いた。
男は女子高生(JK)の喉奥から腕を引き抜くと、その掌に白いオタマジャクシが握られていた。
「ギャーーッ…!」傍らの女子高生(JK)は其れを見て再た叫んだ。
掌の白いオタマジャクシは精神の深奥から捥ぎ取られて微弱に痙攣していた。
オタマジャクシを抜かれた女子高生(JK)は白目を向いたまま泡を噴いた。
「饂飩を、作って、やるぞ…ッ…!」
異形の首長男は言った。
「どんな、饂飩、でも…ッ…!」
奇怪な光景であった。傍らの女子高生、勅使河原茜子はそのおぞましさに震えた。
だが、尤っと勅使河原茜子を驚愕せしめたものは白目を剥いていた筈の黒天狗囃子は既に平静に戻り、無表情の上に氷のような冷たい美しさを湛えていた事であった。
「あ…ッ…!」
勅使河原茜子は友の生気の虚脱した人外の美しさに戦慄ッとしたのである。
悪夢のような光景であった。
首長男は黒天狗囃子の肉体の深層から取り出した白い蝌蚪を麺棒を用いて平らかに伸ばした。
扁平になった魄い蝌蚪は既に蠢動を辞めていた。
それを捏ねて再た伸ばして、伸ばした平面を複層に重ねて麺包丁で断裁して、黒天狗囃子の魂魄の蝌蚪は饂飩になった。
「あっ…ッ…!」
茜子は叫んだ。
「おうどん…ッ…!」
「はは…はは…はは…ッ…!」
首長男は饂飩を茹でながら嗤った。
「何の、饂飩を、作ろうか…ッ…!」
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屋台の長卓に座った囃子の前に山菜饂飩、そして、茜子の前には磯おろし海老天饂飩が供された。
虚脱の黒天狗囃子はまず汁を蓮華で一口啜り、それから箸に一摘みの饂飩を取って口中に入れた。
茜子は其れを見たが、無表情の囃子から、味は読み取る事が出来ない。
「分からない…ッ…!見ていても味が…ッ…!」
茜子は慄いた。
「食べるしか…無いンだわ…ッ…!」
茜子は恐る恐る汁を啜り、饂飩を口中に入れた。まず口蓋と舌で饂飩を食む。つるりとした生々しい食感が鋭敏の茜子の口内を侵した。その活性の感触が先ず驚嘆であった。
また茜子は奥歯で饂飩を噛んだ。弾力で奥歯が跳ねた。やはり奥歯にあっても饂飩は矢庭に蠢動する冗長の無脊椎動物であった。躍動する饂飩を奥歯で抑えて、擂り潰した。奥歯の圧潰に抗する弾塊のコシがある。
辛い汁の絡んだ弾力の塊がその艶やかさと雄々しさを残したまま、茜子の喉奥に落ちた。
「あッ…!」
茜子は叫んだ。
「美味しいわ…ッ…!」
そしてこの美食の源となった魄い蝌蚪を吐き出した黒天狗囃子を見た。
無表情に囃子は咀嚼を続けていた。
再び饂飩を食した茜子の脳裏に不吉の黒雲が広がった。茜子の思考は黒雲に覆われて、その暗中に映写機が動いた。いま茜子は脳内の映画館にて饂飩の見せるひとつの映画を視写するのであった。
脳内の黒雲はスクリーンでは紫煙に替わり、その元兇は黒天狗囃子の吸う紙巻煙草であった。
不良集団が体育器具室に隠れてヤニ吸いをしているのであった。
そのうちの一人が「ゲェッ」と煙を吐き出した。慣れないのだ。黒煙に。それを見て不良集団が嗤った。
黒天狗囃子は其れを冷淡に見た。
「静かにしな」黒天狗囃子は言った。
不良集団がひたりと忍黙った。彼らは心髄まで黒天狗囃子に支配されているのだ。
黒天狗囃子のは静かに冷たい美しさを湛えた無表情で、紫煙を吐き出した。
映画は次の場面に変わった。
ハゲ天の紳士が不良集団に絡まれていた。
「騙したな…ッ…!」
ハゲ天は言った。
「阿婆擦れめ…ッ…!」
黒天狗囃子は矢張り紫煙を吐いていた。
彼女がハゲ天に剥ぎ取られかけた制服を自ら脱ぐと、その肢体に着用されたものは女王品格のエナメル革ボンデージ下着であった。
「ゲェ…ッ…!」ハゲ天は言った。
「少女売春を貪るハゲ天と、其れを食い物にするアタシらとどちらが薄穢いのさ…ッ…!」黒天狗囃子は言った。
ビシイッ…!黒天狗囃子の乗馬鞭がハゲ天を打った。
「せめて乳を見せろ…ッ…!」
ハゲ天は言った。
「コイツは貰っていくよ」
ハゲ天の黒革財布は囃子の手の中にあった。
「ぐうう」
不良集団に殴られてハゲ天は呻いた。
美少年を囲いながら、女王品格のエナメル革ボンデージ下着を着て黒天狗囃子は不良集団に指図をして街の汚穢から搾取をさせた。
其れが黒天狗囃子の正体であったのだ。
その正体を人魂饂飩を食する事で茜子は見た。
今まで囃子は茜子の親友であったが、今や囃子は茜子の見知らぬ悪党頭の少女であった。
「知らなかった…ッ…!」
茜子は言った。
無表情であった黒天狗囃子の相貌が崩れて、囃子は泣いた。
ワァーーッ…!
「知られたく…無かった…ッ…!」
誰しも人間には親友にさえ見せ得ない汚穢の悪心があるのだ。茜子は囃子から生まれた悪心を沁々と噛んだ。
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隣家の姐である御斎美津子の話を聞いて、大牟婁勘太郎は唖然とした。
「人魂饂飩…ッ…!」
「そうよ…ッ…!」
美津子は言った。
「人魂饂飩は人心の悪事を暴くのよ…!」
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ヒタヒタと大牟婁勘太郎の運動靴と、美津子の革靴は夜道を歩いていた。
勘太郎は緊張を帯びた顔で、しかし唇に男児の決意を秘めて正面を見据えて歩いた。
御斎美津子は美少女の相好を崩す事無く物憂げに無言に歩いた。
二人は夜廻りして饂飩人間の屋台を探しているのだ。
饂飩人間の屋台の発見を無くして勘太郎の「闇んでるニュース十月号」の完成は無いのであった。
「見つから無い…ッ…!」
勘太郎は呻いた。
こんな事をしていては朝に成ってしまう…!
「もしかして」
美津子は言った。
「悪心が無ければ人魂饂飩には出会えないのでは無いかしら」
人魂饂飩は人間の秘める悪心を饂飩粉にして捏ねて作る。
材料たる悪心が無ければ饂飩人間は顕現しないかもしれないのであった。
「悪心…ッ…!」
勘太郎は言った。まだ幼き勘太郎には悪心が何処に行けば入手出来るのか知らなかった。
「街よ」
御斎美津子は言った。
「悪心は享楽の花畑に育つのよ」
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「スナック ピンクムーン」
「豚小屋劇場」
「キャバレー雌河童」
「ファッション居酒屋エロス」
カラフルなネオンが街中に光っていた。
勘太郎少年は其れらの意味する所を知らない。彼の目にはただ色鮮やかな電飾でしか無い。
それらの電飾の下には夜蝶と黒服の男達が巣食って、アラクネの網を仕掛けているのであった。
「此処よ…ッ…!」
御斎美津子は言った。
「此処が…ッ…!」
勘太郎少年は言った。
「悪心の花畑…ッ…!」
のそり、と。ハゲ天が美津子に近付いた。
「お姉ちゃんは、いくらだい」
「わたしは未成年よ、おじ様…ッ…!」
美津子は言った。
「ヒェッ…!」
ハゲ天は言った。
「シェヘラ、ヘラ、ヘラ」
「おじさんと一緒にお酒を飲もうよ…ッ…!」
「此奴が悪心よ…ッ…!」
美津子は叫んだ。
勘太郎は驚いた。こんなにも簡単に悪心が見つかる。世界は爛れているのだろうか。
「勘太郎!」
美津子は言った。
「虎次郎!」
勘太郎が叫ぶと、のそりと巨獣が現れた。勘太郎が以前、藁半紙に描いた虎である。勘太郎は藁半紙に描いたものを使役する事が出来るのだ。すかさず勘太郎は巨獣に乗るとハゲ天に対峙した。
「ヒェッ!」
ハゲ天は震えた。
「捕まえて」
美津子は言った。
僅か一刻間に花街にて美津子と勘太郎は三人のハゲ天を捕まえた。
勘太郎は虎次郎の背に乗り、美津子は今しがた捕まえた許りのハゲ天達が曳く橇に乗って、二人は再び墓地の大松に来た。
オロロ、オロロとハゲ天が呪詛を呟く。
その呪詛により瘴気が集まり、大気が淀んだ。
「そこだ…ッ…!」
美津子が額に嵌めた宝石から毫光を発すると淀んだ大気に饂飩人間の姿が現れた。
「サア…饂飩を、作れ…ッ…!」
勘太郎少年は言った。
花街で捕らえたハゲ天が三体ある。材料に不足は無い筈であった。
「強欲め!」
饂飩人間の首は怒髪天に伸びた。
「ゲェ…ッ…!」
ハゲ天達の喉奥から魄いオタマジャクシが次々抜かれた。
「さあ、何が望みか…ッ…!」
饂飩人間は言った。
「オクラ納豆山かけうどんよ…ッ…!」
美津子が言った。ネバネバ成分に含まれるペクチンとムチンには整腸作用があり、美容に良いのであった。
「肉力うどんを大盛りで…ッ…!」
勘太郎少年は言った。
食べ盛りであった。
「野菜天盛りうどんを…ッ…!」
ハゲ天は言った。
野菜の摂取に気を遣う世代であった。
「私もそれで…ッ…!」
「私もそれで…ッ…!」
他のハゲ天二人も追随した。
追随は社畜精神の巧緻である。
「良かろう…ッ…!」
饂飩人間は鮮やかな手際で魂魄を捏ねて饂飩にした。
それを茹でる傍らにそれぞれの具材を支度した。
寸毫の間に各々の眼前に人魂饂飩が仕上がった。
「完成だ…ッ…!」
首長の饂飩人間は益々首を高くして、さながら其れは古代文明のオベリスクであった。オベリスクが上気して発赤している。
それは文明の沽券であった。満を持して饂飩人間は丼椀を提供した。
「美味しい…よ…ッ…!」
美津子は粘り気のある汁の絡んだ饂飩を唇を窄めて啜った。
まず口内をはち切れんばかりの饂飩の弾力が満たした。
舌先でそれを転がして喉奥でそれを押し戻し、臼歯に乗せて咀嚼をする。弾力が亀裂してブツブツと饂飩が切れて弾けた。
爆発…ッ…!
美津子は口の中でグルテンが爆発したかのような錯覚をした。いや現に爆発したのだ。魂魄のグルテンが。
爆風が、美津子の口腔から噴出した。
勘太郎の、ハゲ天三兄弟の口からも爆風が噴出した。
ハゲ天の精神の最奥に秘められた謗り、妬み、謀り、悔悟と暴虐、色情の夜蝶たち。人生に蟠る悪徳がコシとなって噴火する。
「…ルネッサンス…ッ…!」
饂飩を啜るぞるぞるとした音が止まない。夢中であった。無我であった。至福の格闘であった。
満福。
膨らんだ胃袋から生気が潤滑していた。
美津子は胃腑から大きくため息を吐いた。
もう、これ以上、胃腑には入らない。美味であった。
「毎度…ッ…!」
饂飩人間は言った。
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第三景「牟婁伏市ローカルニュース」
行列の出来る闇饂飩!
牟婁伏市に出没する怪人饂飩人間の作る人魂饂飩はコシが強くてツルツル!
口の中で弾ける饂飩は生きているみたいだぞ!
饂飩はその人の悪心魂魄を材料に使うのでデトックス効果も抜群。
メニューは店主のこだわり産直品を使用。
納豆オクラ山かけ饂飩
月見饂飩
肉力饂飩
大海老天麩羅饂飩
野菜盛天麩羅饂飩
店主に頼めば何でも作ってくれるぞ!
君も牟婁伏市に来たら是非寄ってみよう!
悪心が強い人ほど美味しい饂飩ができるぞ!
善人の前には饂飩人間は現れないから注意が必要だ!
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第四景「黄泉比良坂墓地太郎探偵事務所」
…で?
と黄泉比良坂探偵事務所の所長にして当代随一の名探偵、黄泉比良坂墓地太郎は言った。
で?
それは同じく話を聞いていた
探偵事務所の助手、人三化七猫之助と、女子高生霊媒師である夜蝶アゲハもまた同様の反応であった。
で?
饂飩人間に出会って食レポをした、と要はそれだけの話であるのだが。
実は。
と依頼人である御斎美津子は話を続けた。
勘太郎少年の「月刊、闇んでるニュース」は動画配信サイトでローカル且つ変質的な人気を誇っている。今月の「饂飩人間レポ」もまた安定の人気を博して、饂飩人間の下には人魂饂飩を求めて悪心が凝り固まる人間が美食とデトックスを求めて日夜行列が作られた。
昼夜休みなく饂飩人間は饂飩を作り続け、不眠不休の過酷な日々は既に二週間に渡った。
その結果。
饂飩人間はグルテンを乾燥させきってひび割れて粉々になってしまった。
で?
人三化七猫之助は尋ねた。
で。
御斎美津子は言った。
「これが、その饂飩人間なんですけれど」
と風呂敷を広げると、そこには乾燥して粉々になった饂飩人間の破片死体があった。
「持って来ちゃったのかあ…」
猫之助は思った。
「これが饂飩人間…」
夜蝶アゲハは息を飲んだ。
「の、成れの果てね」
人三化七猫之助は言った。
「これをどうしろと?」
猫之助は訊いた。
「あの」
御斎美津子は言った。
「生き返らせて、欲しいのですが」
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黄泉比良坂墓地太郎の探偵事務所は所長である墓地太郎の客を客と思えぬ難儀の性格から、事件解決に於いては優秀な成績を納めているものの、顧客というものが付かず、依頼は全て墓地太郎の噂を誤って訊いた一見の客ばかりで、事務所はいつも閑古鳥が鳴いている。
食うに困った墓地太郎はつい先日も同業である賽河原地獄彦の助手兼荷物持ちという屈辱の仕事をこなして日銭を得たばかりであった。
つまる所、どんな仕事でも受けざるを得ない。それが当節の墓地太郎の状況であるのだが。
粉々になった饂飩人間を生き返らせるなんて!
無理な話だ。
事務所の良心、堅実派の人三化七猫之助は思った。
饂飩人間がどのような経緯で生まれたのか知らないが、インチキ霊能者の墓地太郎にそんな芸当が出来よう筈がない。
鼻でせせら笑ってこの哀れな女子を追い払ってしまうに違いない。
ちらりと猫之助は墓地太郎を見た。
墓地太郎は冷えていた。
無関心。全く興味が無い。冷たい視線で、少女を見ている。いや見ていない。恐らく途中から話すら聞いていない。
「先生、どう思われます…?」
猫之助は小声で尋ねた。
意見を訊ねているのではない。意図する所は「しっかり話を聞け」と伝えている。
「好みのタイプじゃない」
墓地太郎は小声で言った。
「ちょっと子供過ぎるし、おっぱいも小さい」
最悪だ。
猫之助は思った。
「お前の好みは聞いてない」そう思った。
稀代のコミュ障である当事務所の所長殿は他人と目を合わせる事も難しい性情で、依頼人が訪れても話の聞き役は主に猫之助の務めとなるが、困ったのはこの墓地太郎の密語である。
コミュ障を拗らせて他者との交わりが圧倒的に少ない墓地太郎の人間性は浅慮の極みであって、相対する人間の気質を斟酌する事は適わず、墓地太郎の人物評は正客の外見的特徴に僻するが、墓地太郎の拗れた性癖が尺度となるため、聞くに及んで耳汚し、不快の極まり、鄙俗、俗悪、下卑、野暮天、陋劣の人間性の披瀝であって、それが距離感の計れぬ墓地太郎にとっては密語にし得ない。声が大きい。密語の積もりが相手に聞こえる直言となる。
未だ子供に欠陥人間墓地太郎の性欲を以て品定めする事の下劣にして卑しい人品を露悪する事に猫之助は居た堪れなくなるのであった。
いつか天罰が下って死ねば良いのに。
猫之助は所長殿に対して心底希った。
以降暫しの駁論を割愛して、墓地太郎は言った。
「引き受けましょう」
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とは言うものの、饂飩人間の再生など余程黒魔術に精通しない限り出来うる筈もなく、そのような御仁に心当たりもない。
そして、困った時に呼び出されるのが
「何で俺なんだ」
同業者、賽河原地獄彦である。
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「つまり、勘太郎君の報道の信憑性を担保するためにも饂飩人間を生き返らせたい、と?」
地獄彦は言った。
「左様で御座います」
美少女御斎美津子は言った。勘太郎の饂飩人間ニュースは未だ視聴が伸びている。饂飩人間がこの有様では「闇んでるニュース」の報道価値が下がる。饂飩人間が最早存在しない事を知った視聴者から幼き勘太郎は猛火の苦情を受ける事になるだろう。それで勘太郎少年の幼芽の如き柔らかき精神がキズ付く事を、彼を溺愛して止まない御斎美津子は耐えられぬ。
「分かった」
地獄彦は言った。
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「地獄彦さんは、饂飩に造詣があるんですか?」
夜蝶アゲハが尋ねた。
「昔、饂飩屋でバイトした事がある」
地獄彦は言った。
「小麦粉は炭水化物であって」
と地獄彦は言った。
炭水化物はAlphaとbetaの二種の状態がある。
これはあらゆる炭水化物に共通する原則である。
例えば「生米」はbetaの状態にあって
beta炭水化物は人間が消化出来ない。
これに熱を加えるとAlpha化して「炊飯」となって人間が消化できる。つまり食物になる。
Alpha化した炭水化物も放熱、乾燥などで再びbeta化してしまうので、食する時には再度加熱するなどしてAlpha化しなければならない。
「つまり現況は」
beta化してしまった饂飩人間をAlpha化する事が目的である、と地獄彦は説明した。
このバラバラの饂飩人間の成れ果ては饂飩人間がbeta化して、グルテンを失った事に起因する。つまり、その再生とは小麦粉に戻った饂飩粉に塩水を混ぜて寝かせて再びグルテンを活性させ、加熱によってAlpha化させる事で、饂飩人間は再生するに相違ない。
「そのために」
バラバラになった饂飩人間を加工しやすいように金槌で叩いて小麦粉に戻す必要がある。
「うわあ…」
夜蝶アゲハは言った。
バラバラになったと雖も部位は残っている。饂飩人間の手足を砕くのは抵抗があった。顔半分になった饂飩人間の眼球と目が合った。
「うわあ…」
夜蝶アゲハは言った。
「よろしく…ね…ッ…!」
と饂飩人間が言った気がした。
それにしても。と夜蝶アゲハは思う。自分の魂魄ならまだしも他人の魂魄を饂飩にして食べるなんて、自分には無理だわ。不潔よ。そして、自分の魂魄を他人に食べられるのも乙女の屈辱。乙女にとって饂飩人間は危険な存在であった。それを再生する事に抵抗を感じた。
もし、饂飩人間を利用しようとする輩がいたとして、悪心饂飩の曝露を盾に恐喝が可能だ。悪心を持たぬ人間などいないのだから。
可能性の犯罪に夜蝶アゲハは戦慄っとした。そして御斎美津子を、見た。彼女が悪党でない保証があるだろうか。それこそ、彼女が大牟婁勘太郎少年を溺愛する御斎美津子である保証があるだろうか。御斎美津子を騙る他人かもしれない。先程の話に出た黒天狗囃子かもしれない。制服の下に女王風格のエナメル革ボンデージ下着を身に付けているかもしれない。
夜蝶アゲハは擬っと御斎美津子を名乗る少女を見つめた。視線に気付いた御斎美津子と目が合った。
夜蝶アゲハは彼女の美しい相貌の眼の奥底を覗いた。黒目の奥に底知れぬ闇がある。
それから視線を逸らしてまた饂飩人間の再生作業に精を出した。
コツコツと一同の槌打つ音が探偵事務所内に響く。
不毛の作業に事務所の面子は終始無言であった。固くなった饂飩を粉末の小麦粉に戻すのに数刻。地味な作業であった。
再び流砂となった饂飩人間を前に地獄彦は言った。
「ヨシ!」
その多量の小麦粉に塩水を加え、ポリエチレングローブを着けた地獄彦は揉み込みする。
力仕事であった。時にビニイルを敷いて夜蝶アゲハが、御斎美津子が饂飩人間粉を足踏みした。
だが、根気良い地獄彦の献身によって小麦粉の塊は再び粘度を取り戻したように見える。
「半日寝かせよう」
地獄彦は言った。
寝かせる間にグルテンが活性するのである。
その半日間を墓地太郎は寝て過ごし、猫之助は溜まった掃除洗濯を処理し、夜蝶アゲハと御斎美津子は学校の宿題をする事に費やした。
地獄彦は持て余した時間を使って事務所の冷蔵庫の有り合わせで小料理を数品作った。
それから小麦粉塊に粘度の戻った事を確かめ、捏ねて平らげて累ねて切って茹でて饂飩を仕上げた。
「あっ…ッ…!」
全員を呼び出して、丼によそった饂飩と小料理を振る舞いながら地獄彦は言った。
「つい、饂飩にしてしまった…!」
失態であった。
饂飩人間を再生するどころか、饂飩にして茹でてしまった。
温かな湯気が上気して、すっかり饂飩である。
これは間違いなく饂飩であって饂飩人間の原型は喪われたのである。
湯気立つ饂飩に美味を予感した。
「…出来上がりだ!」
地獄彦は言った。
仕方なしに、一同は饂飩人間の成れ果てを食らった。
食めば弾力、千切ればコシ。
馥郁の魂魄グルテン。
詰まる所、美味であった。
(短編小説奇々怪々「ひとだま饂飩」村崎懐炉)
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