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短編小説「眼丩蝶」

Q県の僻村で眼球が殖える奇病が発生したと聞いて私は自身が勤める雑誌編集部のデスクに出張許可を申出たのであるが、デスクの返答はつれない。

「何故ですか」と私は訊いた。
「読者が眼球の殖える奇病に興味が無いからだ」とデスクは言った。
巷間の人々は眼球の殖える奇病に興味がない。
そんな事で自らの眼球が殖えてしまったらどうするつもりだ。

「そんな事で自らの眼球が殖えてしまったらどうするつもりだ」と私は言った。
「知らんよ」とデスクは気疎く顔色を曇らせた。

眼球が殖える奇病に興味が無いなら、人々は一体何に興味があるというのだろう。

「お前は」とデスクが言った。
「自分の雑誌を読んだことがあるのか。」
「モチロン」と私は言った。
地方のフリーペーパーとは名ばかりで主たる項数は近隣エリアの性風俗店の広告に割かれる低俗誌だ。
私はそのピンク広告の片隅でコラムと名著たる文学作品の紹介を担当している。

「眼球が殖える奇病に興味が無いなら、人々は一体何に興味があるというのだろう。」と私は言った。
「だから」とデスクは言った。
「性風俗だよ」

眼球が殖える奇病に人々は興味を持たない。

「そんな記事を書くくらいなら、人気嬢の紹介記事でも作って来い」とデスクは言った。
「分かった」と私は言った。

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「ああ、あのエロ小説の紹介コーナーね」と黒服の支配人は私に言った
「読んでないけど、知ってる」
彼の斜視が私を不遜に猊下した。

「私の記事が雑誌の風格を一段上げてる」と私は言った。
「そうね」と黒服の支配人は言った。
「無料で嬢を紹介してくれるなら、宣伝にもなるし良いかな」

支配人はボーイに「明日香」を連れてくるよう言った。
「明日香はNGですよ」とボーイは言った。
「じゃあ大和は?」
「NGです。」
「NGばかりじゃ宣伝にならない」と黒服の支配人は言った。

「斑鳩」と呼ばれる嬢が、透過した衣服を身に着けて現れた。
「写真はプロフィール写真で良いの?」と彼女は言った。
「どれ?」私は言って彼女の示した写真を見た。

別人だ、と思ったが私は何も言わなかった。

「顔に書いてある」と彼女は言った。
「何も言ってない」と私は言った。
写真の加工以前に別人だ、と私は思った。
「顔に書いてある」と彼女は言った。
この写真が彼女の実像を加工して美麗に仕立てたものなのか、美麗の誰かを彼女と謀る写真であるのか篤と判断するために私は、彼女の顔と写真を改めて見比べた。
「この人、嫌い」と彼女は黒服の支配人に言った。
「エロ小説の紹介コーナーの人だよ」と黒服の支配人が言った。
「ああ、あの」と彼女は言った。

彼女の耳飾りが青く光った。
「その耳飾りは?」
「綺麗でしょう?」
「同じ色を知っている」
「そう?」
その色は構造色と呼ぶ。青い色素によって青く光るのではなく微細の鱗が毛羽立って青い光のみ反射する。それで人間の目には青く光るように見えるのだ。
減色した光源の下に置けば、反射する光が無いので灰色になる。
「蝶の翅だね」
「そうよ」
蝶の翅を耳飾りの中に封じているのだ。
その青く光る翅の裏側は。

「眼」
であった。眼、の模様。

翅裏に眼状紋を持つ、青い蝶。南米のモルフォ蝶には数種類、そのような翅を持つものが知られる。国内にはいない。
だが、そんな蝶が国内で唯一生息する村がある。
Q県M村である。

「Q県の僻村に眼球が殖える奇病が発生していて」と私は言った。
「Q県なら私の実家よ」と斑鳩が言った。
「そんな病気を聞いたことない?」
「なんて町?」
「M村」
「実家だわ」と斑鳩は言った。
「それを、あなたどうするの?」
「記事を書くんだ」
「あの雑誌に?」
「勿論」
「まさか」
と斑鳩は笑った。
「風俗情報誌に?」
「勿論」

「それが、どうしてこんな所に来てるのよ」
「デスクの許可が出なかった」と私は事情を話した。

「ふうん」と斑鳩は言った。

翌日。
私は朝に出社してから午後まで窓際の自席で珈琲を飲みながら話題の新刊を耽読していた。
「主人公である男が女に仕事も財産も簒奪されて、尚も抗おうとすることに性倒錯の様式美がある。」と、私は手元にメモをした。

その時、編集部の電話が鳴った。
「もしもし」
「ピンクムーンだけど、昨日の記者さん?」
「誰?」
「支配人の小黒だけど、偉い人いる?」

私はデスクを呼んだ。
「何の苦情だ」とデスクは言った。

黒服の支配人小黒とデスクは電話でいくつかの言葉を交わした。
「そんなことは」
「それならば」
「ではそれで」
とデスクの言葉が聞こえた。

電話を切ってデスクが言った。
「Q県に出張だ。」
「Q県M村に眼球が殖える奇病の調査ですか?」私は言った。
「Q県M村出身の風俗嬢と彼女の地元紹介も兼ねる宣伝記事だよ」デスクは言った。
「帰省?」私は尋ねた。
「そうとも言うな」

昨晩話をした斑鳩嬢の密着記事を作るのだという。
彼女の着ていた透過した衣服と、透けた肌を私は思い出した。
彼女の帰省費用は編集部が負担するが。
「お前の分は自費だ」
とデスクが言った。

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斑鳩の耳飾りがくるくると回る。
青い光沢とジャノメが交互に。

「眼状紋」とは文字通り目のような紋様で、それを体表に持つ生物が幾つかある。
国内で一般的なものは「ジャノメチョウ」で、翅にフクロウのような目の紋様が数個並ぶ。
ジャノメチョウの中でも「ヒメジャノメ」「コジャノメ」の眼状紋は紋様が顕著である。
山林に暮らす「クロヒカゲ」「ヒカゲチョウ」も同様の顕著な眼状紋を翅に有する。
蝶は止まる時に翅を閉じる。この閉じた翅の外側を翅裏と呼び内側を翅表と呼ぶ。
国内のジャノメチョウは翅裏、翅表ともに眼状紋を有しているが、同じタテハチョウ科のペレイデスモルフォなど、熱帯地域にいるモルフォ蝶の数種は翅裏は茶色地の眼状紋であるが、翅表はモルフォブルーという鮮やかな青い光沢構造を持っている。
この羽裏が眼状紋、羽表が青い光沢というちぐはぐとした紋様の機能については数説ある。
アフリカのBアニナナという蝶は雨季と乾季で模様が変わる事が知られている。昆虫が殖える雨季には、天敵となるカマキリを威嚇するため眼状紋が顕著となり、カマキリがいなくなった乾季に羽化する世代は天敵となる鳥族から目立たぬよう眼状紋を消す。そのような事例からモルフォ蝶の翅裏の眼状紋は、翅を休めている時に昆虫属からの捕食を回避するため、翅表の青い光沢は自然界の光礫に溶けて鳥族に見つかる事を回避するためと考えられる。

「ちなみに日本にいる青い蝶はアオスジアゲハなどのアゲハチョウ科、ムラサキシジミなどのシジミチョウ科が多い」
と私は汽車の中で斑鳩に説明をしたが、彼女は途中で興味が失せたらしく私を無視して窓外を見ていた。
私は彼女のうなじを見ながら、黒服の支配人が冗長に説明した覚書を反芻した。
「嬢に危害があったら賠償の責任を負う」
と要約すればそんなところで、同時にデスクからは「何があろうと会社は関与しない」旨の覚書も拝領した。
つまりは私はいま損害賠償的に無保険だ。
「何かするならちゃんとお金を取るからね」
斑鳩嬢は言った。

「何かするなら」
私は彼女のプロフィール写真を思い出した。
青い光沢を放つランジェリー姿の美女がソファに座っている。艶やかな美女と、どちらかと云えば童顔の。と私は彼女の横顔を見て蝶の翅の表裏のようだ、と思った。


「眼が殖える奇病なんて話はどこから聞いたの?」と彼女は言った。
「誰に聞いてもそんな話は知らなかったわ」

「だからスクープなんじゃないか」と私は言った。
私はその話を友人から聞いた。
彼は写真を見せてくれた。
小さな男の子の写真であったが、その子の眼は七つに増えていた。
頬骨から下顎にかけて大きさの異なる眼が増えている。それは蝶たちの眼状紋を思わせた。

「僕は眼球恐怖症なんだ」友人は言った。
眼状紋が想起させる恐怖心が本能なのか後天的学習なのか知らないが、集合恐怖症、トライポフォビアと呼ばれるものの一種であるのかもしれない。トライポフォビアは同型物が集合したものに忌避感を覚える恐怖症である。実例として、蓮の花が実となった後に種子が円状の集合を作ったもの。或いは珊瑚の肉芽、イソギンチャク、卵塊、蜂の巣、昆虫の複眼、角栓、例を挙げればキリがない。

友人はその後、Q県で行方不明になった。

「お友達を探しに行きたいの?」と斑鳩は言った。
「そうじゃない」と私は言った。

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10時間を掛けて私たちはM村に着いた。
吝嗇のデスクが温泉宿を予約してくれている、と思ったが吝嗇のデスクが予約したのは襤褸のビジネスホテルであった。
「シングルが二つ」
と受付で言われて、私と斑鳩は別個にキーを受け取った。

「相部屋じゃないの?」
私は言った。
「私と相部屋にしたらお金を貰うわよ」
斑鳩は言った。
「何もしなくても?」
「勿論」

そもそも、と斑鳩は言った。
「私、実家に行くつもりなんだけど」

「折角部屋を取ってるし」私は言った。
「実家に行くわ」
斑鳩は言った。
「一緒に行っても?」
私は言った。
「駄目に決まってるでしょ」
と斑鳩は言って、私は一人ホテルに残った。

時刻は夕方の五時であった。
日が暮れなんとしている。窓を開けると十一月の冷めた風が吹いた。

「この辺にご飯を食べる所は無い?」
私はフロントのボーイに尋ねた。

「無いですよ」
フレックレスの目立つボーイは言った。

「宿泊客はどうしてるの?」
「隣町まで歩きます」
「どれくらい?」
「一時間ですね」
「行き倒れてしまう」
「近所に食料も扱う日用品店がありますよ。様々な缶詰が売ってます。」

「歩いてどれくらい?」
「30分ですね。」

道端の草でも抜いて食べる方がマシだ。と、私は思った。

「食べれる野草を教えましょうか?」
ボーイは言った。

幸いにも通りがかりの牽引付属車付きのトラクターに乗せて貰う事が出来て、私は村唯一の日用品店、春谷商店に向かうのであった。

途中でトレーラーには女の子が乗り合わせた。

「ここは良い所?」
私は尋ねた。
女の子ははにかんで答えなかった。

田園の風を切ってトラクターは走った。

春谷商店には店番もなく、店内は翳りの中に沈んでいた。
私は奥に向かって声を掛けたが、人のいる気配は無かった。

改めて店外に出ると、入会地で村民が焚き火をしていた。
春谷商店のことを尋ねると、焚き火の一人が店の主人であった。私が雑誌の取材でこの村を訪れた事を伝えると店主は焚き火の中から蒸した馬鈴薯を呉れた。

焦げたアルミホイル紙を剥きながら
「塩を振って食べなさい」と言った。

村で作った蒸留酒を一杯貰った。

「眼球が殖える奇病を調べています。」
と私は言った。その後、村民は態度がにべなくなって私はホテルに戻った。

半刻、何もない田園の道を歩いた。終始、人の気配がする。暗闇に浮かんだ眼球が、私を覗くような。
不審と不気味と怖気に、心中そぞろになって私は独りである事を恨んだ。

同時に斑鳩嬢が恋しくなった。

「焚き火でもしない?」
私は携帯端末からメールを送ったが返事は無かった。

襤褸のホテルの自室にいて、私は外を眺めていたが、村のあちこちで篝火が焚かれていた。

「焚き火でもしない?」
私は再び斑鳩嬢にメールをした。

「明日ね」
と返事が来た。

「焚き火でもしない?」
私はボーイに言った。
「良いですよ」
ボーイは言った。
私たちは焚き火をした。
「バーボンがあるよ」
私は言った。
「グラスと氷を用意しましょう」
ボーイが言った。




程よく酩酊して前後不覚になった私は部屋に戻り、未明に、青い蝶と殺人鬼の夢を見た。

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翌朝、ホテルの外が騒然とする音で私は目覚めた。

「何の騒ぎ?」と私は二日酔いのボーイに尋ねた。
「山犬に人が食われたんですよ」とボーイは二日酔いの私に言った。

外に出ると駐在と思しき人物が村民と話をしていた。

「死んだのは春谷商店の店主だった」
私は言った。
「そうですか」
ボーイは言った。
「山犬が出るの?」
私は言った。
「この村では人が死ぬとそう云うんですよ」
ボーイが言った。

斑鳩嬢からメールが来て、私は半刻歩いて嬢を迎えに行った。

着いみればそこは春谷商店の隣家である。

「見せたいものがあるのよ」
と斑鳩嬢は言った。
家屋に入って斑鳩嬢は浴室に私を手引きした。

その浴室では、鹿の解体の最中であった。

「後で鹿肉を貰える事になったのよ」
斑鳩嬢は言った。
都会では見られぬ光景であるから是非見学して行けと云う。
仕方なしに私は解体見学に付き合った。

「山犬が出て春谷商店の店主が食われたよ」
と私は言った。

「そう」
と嬢は言った。

首の落ちた胴体から血がだくだくと流れていた。
首は家主の足元に無造作に転がっていた。
レインコートを着て獣族の血に塗れた家主が言った。
「欲しいのは後足で良いの?」
「ええ」と斑鳩嬢が言った。
「いま持って帰る?」
「後で取りに来るわ」と彼女は言った。
その後、家主は鉈で腹部を割って臓物を掻き出した。
裂けた臓物から胃液と共に砕けたエニシダが漏れた。そのエニシダの葉裏から多足類が這い出した。
白い多足類が這い出して、血液の溜まりを這った。私は斑鳩嬢にそれを伝えようとしたが、その時、家主の足が其れを踏み潰してしまった。
丁度、家主が前足を捥いだところであった。


私たちは鹿肉解体を見学した後に、村の観光名所を幾つか周り斑鳩嬢の写真を撮った。

それからバスに乗って隣町に赴き、駅前の喫茶店で軽食を食べた。
私はナポリタン、彼女はミートスパゲティを注文した。

「眼球が殖える奇病について村民は誰も知らない」と、私は言った。
「ふうん」
パスタをフォークで丸めながら彼女は言った。

その後、商店街の食料品店で私たちは雑多に買い物にして村への帰路に着いた。
バスに、他の乗客はいない。
私は窓際に座り、彼女は私の隣に座った。バスはゆっくりと田園を走った。
光が伸びて、私を、そして彼女を照らした。
私たちは食料品の紙袋を抱えて無言であった。
その私たちの間隙を車内アナウンスが訥々と流れた。

私たちが村に戻ると、駐在が言った。
「山犬が出たよ」

春谷商店の隣家の家主の首が落ちて、代わりに鹿頭が乗っていた。
「鹿の後足を貰うことになっていたのですが」
斑鳩嬢は言った。
「証拠品だからね」
駐在は言った。
「隣の家でも鹿をバラしてるみたいだよ」駐在は言った。

最後の撮影場所として斑鳩嬢が選んだのは鳥居であった。
「鳥居?」
「そうよ」
鳥居が山際に、半ば山林に埋もれて立っていた。
鳥居の奥に有って然るべき社殿が無い。
「焼けたのよ」
そう言って彼女は鳥居の下に立った。
私はカメラを構えた。

「脱いだ方が良い?」
と彼女が言ったので私はそうしようと言った。
「冗談よ」と彼女が言った。
私は写真を撮影した。
「冗談よ」と彼女が言った。
私は写真を撮影した。

「あ」
私たちの上を青い蝶が飛んだ。

蝶は飛んで彼女の小さな肩口に止まって翅を閉じた。
茶色地の翅裏に眼球が並ぶ。
その眼球が、私を見つめた。
瞬きするように数度、蝶は徐々と翅を捩った。

彼女もまた私を見つめた。
蝶と彼女の眼球が並んでいた。

私たちは御柱を回りながら写真を撮った。
「今日、帰るよ」と私は言った。
「そう」と彼女は言った。

私たちはホテルに戻り、写真を選んだ。最後に鳥居で撮った写真を一枚選んだ。

それらと、特集記事用の文章をメールに添付してデスクに宛てて電信する。

デスクの確認が取れれば、私の仕事は終わりであった。

私たちは電話を待っていた。
彼女の写真は雑誌の見開き二ページを使って掲載され、デスクは黒服の支配人から広告掲載料を受け取る。
発刊された雑誌を見た客が彼女を指名する。
彼女は黒服の支配人から歩合を受け取って、金銭は彼女の調度品に消える。
私は微々たる記事作成料を受け取る。
水の流れる如く潤滑の経済が廻っている。いま、私たちは電話を待ちながら経済の淀みの中にいた。

電話が、掛かってきた。
私は、電話に出た。

「変なものが写っている」とデスクが言った。
鳥居の奥に人影がある。
拡大すると、それは少年であった。顔が歪んでいる。
「歪んでいるのではない」とデスクが言った。
「眼が多い」
多重に露出されたように、少年の眼が殖えている。
歪に並ぶ七つの眼球。

「あの時、誰か、いた?」
私は彼女に尋ねた。
「いいえ、ただ青い蝶が飛んだだけ」

再び神社に行く前に、私たちは午睡をした。私は青い蝶と殺人鬼と七つ目の少年の夢を見た。
トラクターの荷台に乗って私たちが神社に着くと、鳥居の中には男がいた。

「ああ、」と男は言った。
私の友人だった。この村と眼球が殖える奇病を紹介し、その直後に失踪した。

「なんだ、殺人鬼かと思ったよ」と私は言った。
「どうしてそう思うの」
友人はレインコートを着ていた。雨でもないのに。
鉈を。此処には鹿もいないのに。
私は彼に七つ目の男の子の事を尋ねたかったが、斑鳩が私の袖を引いて帰ろうと言ったので、私たちは友人と別れたのであった。
私は振り返って鳥居の奥の空地にいる友人の姿を認めた。
友人の眼球は私たちを見ていた。

斑鳩が貰った鹿の後足を削いで、私たちは焚き火の準備をした。
村では夜になると篝火を焚く家が数軒あった。

焚き火に夜蛾が集まって、火中に消えた。
私は山犬を恐れていた。
「大丈夫よ」と彼女が言った。

私はアルコールを飲んだ。彼女もまた飲んで、私たちは再び無言になって焚き火を見つめた。
「今日は帰れなかった」私は言った。
「そうね」と彼女は言った。

酩酊して、彼女に寄って私は微睡み、眠りはやがて深く私を尋谷に曳く。

私は気が付くと横堀の洞穴にいた。
その洞穴は何処か施設の地下室を堀抜いて作られて、格子戸が洞窟を遮断していた。

彼女が傍らに眠っていた。
私は彼女を揺すったが、彼女は起きなかった。

暗中に視界が効かない。私の周囲に何かが飛んで頬を掠めた。
また飛んだ。
何かがいる。
ペンライトを挿頭すと、蝶であった。青い蝶がライトを反射して光った。

また、蝶が飛んだ。
洞穴の奥から蝶たちは飛んで来たようであった。
私は洞穴を手探りで歩いて奥に進んだ。
地面に点々と蝶がいて、一筋の連なりを作っていた。
その点在の先に革靴が転がっていた。土に汚れた足がある。斃れている。青黒く死んでいる。死体から流れた汁跡に蝶が口吻を伸ばしている。
私は改めて死体に光源を翳した。伏臥した死体の背中に蝶が群がっていた。
蝶たちの翅裏の眼球が一斉に私を見た。
屍体の腐汁を啜りながら、蝶たちが身じろいでいる。

蝶が青く光って一斉に飛んだ。私は蝶に塗れて、蝶は私を置いて飛び去った。
腐汁が抜けて偏平となった腐乱死体が残った。

その脇から再た一匹の蝶が這った。少し、大きい。
蝶が屍体の割れた背中に半身を入れて腐肉を食む。
肉厚の翅が蠢いた。
いつまでも飛び立たぬ横柄の蝶に私は近付いた。
翅を掴んだ。
翅では無かった。
其れは肉で、並んだ目玉が擬ろ擬ろと私を見つめた。眼状紋ではない。眼球だ。眼球の、蝶の如き、何か。
其れは身を拗らせ、私の指に外骨格の爪を食い込ませた。幾本もの肢が指に絡まる。尖った上顎が私を噛んだ。

私は手を振って其れを落とした。
落ちて、這って、それは亀裂に逃げた。


私は斑鳩を揺すって起こそうとしたが、彼女は起きない。体温は保たれていた。
脈を取ろうとして腕を捲った。
彼女の腕に紫斑が浮き出ていた。輪状の紫斑が眼状紋のようであった。
私は自分の腕を見た。私の腕にもまた紫斑が浮いていた。紫斑が掻痒に疼く。

私が微睡むと青い蝶たちは何処からともなくやって来て、洞窟を満たし、奥に横臥する屍体へ、或いは私に口吻を伸ばすのであった。
夥しい眼状紋が私たちを見つめた。私が腕を振るうと蝶たちは一斉に青い光を放って消えた。
青い構造反射と眼状紋が交互に私の視界に現れて、私を目眩ませる。
彼女は眠り続けた。
身じろぐ事もなく蛹のようであった。食餌もなく、排泄も無かった。
私もまた食餌の必要を感じず、排泄も無かった。囚われて幾日も経っている。静止した時間の中に私たちはいるようであった。


時々目玉蝶がやって来て私を噛んだ。
彼女の紫斑が濃くなって疱瘡となり痘頭から膿を吹いた。
彼女の腕は全体を無数の疱瘡に犯されていた。
私は彼女を甲斐甲斐しく摩った。

次第に疱瘡の膿は治まり、乾燥して角質化した皮膚が縦裂に割れた。その傷口が開口した時に、其処には小さな眼球が出来ていた。傷口は次々と開いて彼女の腕は無数の眼球が並んだ。

眼球は不随意に運動して、疲れると瞼に隠れた。瞼の下でも眼球は緩徐に動く。

眼球の起きている時間が次第に長くなり、動きも活発となって、或る日眼球が皮膚から零れた。彼女の皮膚から眼球が生まれる。生まれたばかりの眼球は弱々しく一所に群れた。
その頃、私の紫斑も同様の病状を経て眼球となった。私の腕に現れた眼球が私を見つめる。
生まれたばかりの幼齢眼球は斑鳩の疱瘡を齧って、少し眠り脱皮をした。数日をかけて幾度か脱皮する度、彼等は肥大して、蛹化して、その背中が割れた時、いつか見た肉厚の目玉蝶になった。

私の眼球虫も私から産まれて順調に育った。
恐らく眼球虫には雌雄の別があって、私の眼球虫は雄であった。

私の、そして彼女の眼球虫の凡そが成熟して目玉蝶になった頃。所狭しと這い回る目玉蝶に囲まれて彼女は目を覚ました。

「起きたの?」
私は言った。
「ええ」
と彼女は言った。
彼女は私の肩に頭を置いて、私たちは無言となった。
犇めく目玉蝶を見ても、彼女は驚かなかった。

目玉蝶たちは尾部を連ねていた。中心に私の目玉蝶がいる。彼等は交合しているのだ。

彼女の指が私の指に絡んだ。
私たちは目玉蝶の営みを見ている。
交合が終わると私の目玉蝶は死んだ。
死んだ目玉蝶に雌達が群れて、雄の目玉蝶は解体された。
それから雌の目玉蝶たちは洞穴の奥へ一匹、また一匹と這って亀裂に消え、とうとう全ての目玉蝶がいなくなった。

(短編小説「眼丩蝶」村崎懐炉)

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