短編小説「恋の大瀑布」

僕の密室に。
女が居る。
夏の匂いが未だ残る残暑の季節。
彼女は上気していた。肌を湿潤させ、頬が薄い紅色に染まる。艶のある鬢髪が幾条、その貌に張り付いて、潤んだ目で僕を見て、口唇を震わす。

*****

小さな唇は戸惑い乍ら言葉を探していた。
唇の蠢動が全身に伝播して、彼女は振戦えながら細かな吐息を繰り返すのであった。平たい胸の膨らみの奥に隠す心臓の拍動が彼女が纏った空気をも震わせているようであった。その空気が僕の皮膚組織に触れて、僕の心臓も亦た彼女に添って動悸をひとつに累ねるのであった。

こんな美女を悩ませて、僕も中々罪な男で或る。

彼女の小さな唇から鈴の如き声が漏れ出づる。
「先生」

僕は努めて偉容を保って答える。

「何だね」
「先生は恋愛を如何な物だとお考えですか?」
嗚呼、恥じらい乍ら乙女の瞳は濡れている。彼女の唇が恋、と発する形而下のいと麗しき哉。

「其うだね、恋愛とは滝の様なものだ、と考えて居るよ。」

「滝、ですか」

「滝、だね。想いが強まる程、其れは大瀑布と成って、滝壺は深く抉れ、飛沫は水蒸気と成って虹を作る。恋と云う溢るゝ真情は尽きる事無く永遠に流落する。欧米諸国の連中は恋慕の情を募らせる事を恋に落ちると云うだろう。全く同感だ。恋情に物狂いて取り澄ました人徳は千々に乱れて激甚に落伍していくものだと僕は思う。」

「成程」と彼女は言い、潤んだ瞳で猶も僕に尋ぬるのであった。
「先生は恋をされた事は御座いますか?」

「否、無い。」
「それでは恋を、されませんか。」
美女の唇は甘美に僕を誘う。
其う、恋、恋である。
僕は恋に焦がれている。
君の奈落に沈みたい。
大瀑布と為って。
「ふむ。」
と応えた僕に乙女は開口して
「恋をすれば屹度、」
と言い淀む。

「何だね」
遠慮なく続け給え。
一ツ呼吸をして彼女は僕を見据えて言った。
「真っ当な作品が書けると思うのですが」

胸に閊えた思いの丈を、ひとつの強硬な意志で固めて吐き出した、と云う顔をしていた。

「ふむ。」僕は言った。

「僕の作品は不味いかね。」
「はい。」

と此の御嬢、三方ヶ原編集女史は確固に言った。

****
三月前に原稿取り立ての担当者が代わった。全担当は針金みたいな体型の、顔色が青くなったり、赤くなったりする信号機みたいな御仁であった。何時も胃痛に悩んで薬ばかり飲む不健康な人間であった。その御仁が何うなったのか知れないが、兎も角も担当者が若い婦女子に変わった。

雑誌社の依頼で僕は恋愛小説を当月書き上げて寄稿したが、脱稿した原稿を受け取って女史は戦慄いたのである。
「先生にお願い申し上げましたのは、恋愛成就に霊験あらたかな財布の、体験者の談で御座いましたね。」

「うむ。」

派手なピンク色のがま口財布だ。持つだけで意中の人物の惚気を射止めるのだと云う。僕の千変万化の文章力で、御利益に預かった人間の悦びの声をファンタジツクに表出せねばならない、のだ。

「まず、長過ぎます。」女史は言った。
「うむ、興に乗って神来が止まなく成った。」

「三人の体験者の談を、それぞれ二百文字程度で、とお願いしましたよね。」
「うむ、群像劇だね。」

「二百文字で三人分、総文字数は如何程になりますか?」

「ニサンが六百文字だ。」

「そうです」女史は僕の仕上げた原稿用紙の束を掲げた。

「これ原稿用紙で五十枚以上ありますよ。二万文字を超えているじゃありませんか。」

「大作に成った。」

「廃棄です。」
「そんな馬鹿な」

「嘆きたいのは此方です。」

ぴしりと弦を打ったような返事が却った。
「そもそも単なる体験談で、体験者の血塗られた生い立ちなど不要です。」
「いや、その下りが伏線となって」

「小説じゃありませんから。体験談ですから。恋の成功体験なのに爛れた愛憎劇が入り乱れ過ぎます。如何にして全員が略奪愛に偏るんですか。」

「人間模様を」表したかった、と言いかけた僕の言葉は即断に遮蔽される。

「最終的に登場人物が皆、不幸になってるじゃ無いですか。心中に失敗して自分だけ生き残って、『我は屍』って、誰が羨むんですか、こんな話。開運グッズの成功体験を書いて欲しいって私言いましたよね?」

「泣けるだろう?」

「とにかく全部、没、です。」

あまりの冷淡な物言いに到頭、僕の堪え袋が切れた。
「この芸術も理解出来ないファッキン売女が!」
だが女史の堪え袋も亦た既に切れていたのだ。
「芸術なんて頼んで無いって言ってるんだ、豚野郎!」

乙女の奥底に秘匿された堪え袋より溢れた熱情が怒気となって火を噴いた。

僕は元来寡黙であるから女御に口の喧しさでは敵わぬ。すっかり黙って仕舞った僕に女史の言葉が尚も刺さる。

「兎に角、ゾンビもマフィアもUFOも禁止ですから!」
それを禁止されて一体僕に何を書けと。

「先生の恋愛描写は感情が軽薄で陳腐です。浅くて陳腐!これでは小学生男子の書いたエロ小説ですよ!」

女史の口から堰を切ったような一頻りの罵詈雑言を浴びせられた。

****

喧嘩の後、(仲直りも兼ねて)僕達は昼食を食べに近くのカフェーに参った。
「経費では落ちませんからね」と三方ヶ原君は言った。
僕は既にして女給にカツレツをオーダーしていた。最初に言って呉れれば水で我慢したのに。
「先生、彼女を口説いてみて下さいよ。」と徐に三方ヶ原君が言った。

「彼女って」
「あのウェイトレスの」
「どうして」
「先生は、もっと恋を知るべきです」
「口説いたらランチが経費で落ちるのかね」僕は言った。
「良いでしょう」三方ヶ原君は言った。
話は決まった。

カフェーには二人の女給が居た。一人は美人だが少しく冷たそうな女子。もう一人は童顔で愛嬌のある女子。

「どちらにしよう?」
僕は女史に尋ねた。
「どちらにします?」
女史は言った。
「じゃあおっぱいの大きな方を」
僕は言った。

食前の珈琲を女給が運んだ時に僕は言った。
「結婚して下さい」
「あはは」と女給は笑った。
珈琲をテエブルに置いて女給は調理場に戻った。
「失敗した」僕は言った。
「あはは」三方ヶ原君は笑った。
「もう一回いきましょう、先生」
「今度はどちらを」
「どちらでも」
テエブルにパンが運ばれた。僕は女給に言った。
「結婚して下さい」
「あはは」女給は矢張り笑って、下がった。
「駄目だよ」僕は三方ヶ原君に言った。
「あはは」三方ヶ原君は笑った。

「先生、次が最後です。」
三度、僕は女給に交際を申し込んだ。その度に僕は笑われた。女給からも三方ヶ原君からも。
全く腑に落ちない。僕は憮然としてカツレツを頬張った。

食事を終えた僕達の目の前にアイスクリームの小皿が置かれた。先程の女給だ。僕達はデザアトを注文した覚えはない。
「これは?」僕は女給に尋ねた。
女給は破顔して「サービス」と言った。
銀盆で抑えた彼女の乳が形を変えた。

何故か僕は心臓が動悸して全身が紅潮するのを感じた。
「熱い」僕は言った。
「苦しい」
アイスクリームの匙を頬張る。バニラアイスは冷たく甘く舌先に蕩けた。
三方ヶ原女史があははと笑う。

****

その夜。
僕は文机の前に座り、仕事をしている。旅行誌に寄稿するコラムを仕上げなければならない。世話になっている雑誌社の厚意で、僕は先日関東の北縁にある僻村を旅した。
かつての炭鉱の町であり、往時は活況を呈したが、炭脈の潰えた今はうらぶれて老人と猫しかいない。町の真ん中には大きな鉄屑工場があり、その隣にラドン温泉が作られて現在も零細に稼働している。この町は其れ等の他に何にも無い。
僕は半日間、工場のベルトコンベアが鉄屑を運搬する様を眺めて過ごし、残る半日はラドン温泉に浸かり、夕刻には町の中心を流れる川辺を散策した。草原に腰掛けると何処からともなく猫が集まってきて、僕の周りに猫の輪を作った。
沢山の猫共は押し黙ったまま、凝っと僕を見ている。僕は博物館の骨董品にでも成った気分だ。猫共が何を期待しているのか知れないが、動くと興醒めされそうで、僕も猫に気を遣って銅像のふりをして時間を過ごした。
其うするうちに一匹の猫が言った。

「主は何をしているのかにゃ」
「僕は旅をしている」
「何故に人間は住処を棄てて漂泊するのにゃ」
「窮屈になるのさ」
「人間は偏屈だにゃ」
「別天地を求めて漂泊するんだ」
「ああ、竹輪が食べたいにゃあ」
「竹輪なら持ってる。先刻買った。」
「チーズが入っていないと厭にゃ」
「無論チーズも入ってる」

猫共はにゃあにゃあ歓声をあげて万歳をした。猫共は立ち上がって踊りだし、自己実現を祝福するオペレッタが始まる。にゃーにゃにゃー…。

僕は其処迄書いた原稿用紙にバツを呉れて、丸めて棄てた。
畳の上にゴロンと横になる。
つい誇張した。猫は喋らない。踊らない。歌わない。僕もチーズ入りの竹輪は買っていない。
神来が昂じて嘘を吐いて仕舞った。

「コラムって何だか知ってます?」三方ヶ原君の冷えた視線が目に浮かぶ。

「知ってるとも」僕は独り言を言った。

実際の所、川辺に現れたのは茶虎の猫が一匹で僕は茶虎に傍らの狗尾草を引き抜いて呉れただけだ。ちょいちょいと狗尾草を振ると、ちょいちょいと茶虎が前肢を振るった。ちょいちょいを繰り返すと仕舞いに茶虎は後足で立ち上がり、ちょいちょいと踊った。
僕はちょいちょいしながら懐のウイスキを取り出してちょいちょい煽った。
日は暮れかけて、向こう側からやってきた旋風が草原を揺らしてざりざりと乾いた音を鳴らした。

茶虎の猫が狗尾草に飽いて去ぬると僕は草原に一人であった。孤独だ。僕は思った。すっかり日が暮れていた。
旅の途次に出合ったものと云えばその茶虎の猫くらいで、他に覚えている事と云えば宿で出された味噌汁のなめこが随分大きくて美味かった事くらい。要するに旅行記を綴るにはお粗末過ぎる、何ンにも無い旅であった。旅に出て僕は自らの身に劇的なドラマが起こる事を期待している。美女と一緒に悪党に追いかけられたり、未知の文明が隠した秘宝を発見したりする。だが実際にそんな事は起こらない。何も無い儘、僕の旅は終わり、何も得ない儘、帰途に着く。疲労だけが残るそんな旅を思い返しながら、進まぬ筆先を見ている。
偶には酒を控えて珈琲でも飲もうか、そう思った。


珈琲。
日中の女給を思い出した。
或の笑顔。
或の女性。
アイスクリーム。

途端に僕は発熱して所在を失くし、居ても立ってもいられずに、部屋の内を逡巡と歩いた。頭内で彼女が微笑んで居る。
其して再た僕は文机に座って白紙の原稿用紙を睨めた。

「切ない」

其う書いてみた。
切ない。
僕は独りだ。
苦しい。

夜に抜け出して逍遥する。
日中に来たカフェーは閉店していた。ガラスの向こう側は小さな間接照明が灯っていて店内の椅子やテーブルが静謐の中に行儀良く並んでいた。カウンターの後棚には豆挽きのミルやサイフォン、それからコーヒーカップが鎮座する。
この長夜が明けて、朝になり女給が珈琲を淹れる姿を僕は思い浮かべる。

「あら」と声がした。
振り向くと、まさに件の女給殿であった。
「昼間の」と彼女は言った。
「ああ、」と僕は言葉を繋げようとしたが気の利いた言葉が何も思い浮かばず曖昧な相槌を打ったまま黙ってしまった。
「ええと」と彼女もやはり黙ってしまった。
一体、何を申したものか、大変気不味い。
「あの、じゃあ」と彼女は言って帰ろうとした。
「あの」と再び声を掛けて咄嗟に僕は女給殿を呼び留めて仕舞った。

「日中は突然の事で大変申し訳ない事を致しました。実は僕はしがない物書きで、昼間は編集の者と一緒にお邪魔をした次第ですが、編集の女史の悪乗りで女給殿を口説けと云うので、僕も経済的事情から逆らうことが出来ずに或のような世迷言を口走った次第。然し乍ら、貴君を美しいと思うのも亦た事実で、貴君を揶揄う心算も毛頭御座いません。決して悪戯な邪念が在つての事では無いのです。」

と云う意味合いの事を僕は言った、と思う。

「あら」と彼女は言った。
「小説を書いていらっしゃるのね。」
「其うです。此う見えて僕は大変な人気作家で其の名声は大宇宙の辺境の植民星の片田舎に迄及びます。甚だ忙しい身であるのですが、実は今は星の巡りと季節が悪く、全く本業の仕事がありません。詰まらない仕事を引き受けて日銭を稼いでおります。」と僕はそんな意味合いの事を云った。

「どんな小説を書かれるの?」
「主に恋愛小説を。男女の熱烈な恋の物語が得意です。」
「素敵ね、読んでみたいわ。」
「ちょうど新作を書き始めた所です。主人公の男は下らぬ小説ばかり書いては顰蹙を頂戴する稀代の不人気作家で。」
僕は少し言い淀む。彼女の瞳を一瞥する。彼女は他意なく聴いている。僕は決心して口を開いた。

「カフェーの女給に恋をします。」

「まあ。」と彼女は言った。
「それも一瞬の内に。どうしてそうなるのか分からない。前世の因縁なのか、季節の起こす魔法なのか。恋に不慣れで冴えない小説家は何うして良いかも分からない。何せ恋の経験など無いのです。女給殿に会いたくて夜を走り出しました。」

「何うなるの?」

「さあ、何うしたものか。筆が止まって仕舞った。何時もなら、此処でUFOが現れて女給殿が攫われて、宇宙の果て迄追いかける、と其んなお話に成るのですが。生憎今回はゾンビとマフィアとUFOは禁止なのです。」

「好きなら好きと云うべきよ。」
「知らない男から突然好きと云われても困るでしょう。」
「女子は誰彼好いて貰える事を喜ぶものよ。好きと言われる事を待っているの。」

「好きです。」
「ええ、良いと思うわ。」と彼女は言った。その彼女の目を見詰めて再た僕は言ったのだ。ゆっくりと、一語一語を正確に。
「好きです。」
其の言葉を聞いて女給殿は


と、其処まで読んで三方ヶ原女史は僕の玉稿を棄てた。

「陳腐!」
「駄目かね。」
「率直に申し上げて宜しいでしょうか。」
「言い給え」
「童貞臭がします。」
と顰め面で唾を吐いた。

「この後の続きを聞きたいかね。」
「興味もありませんが、聞いてあげても良いですよ。」
「僕の婉曲な告白に彼女も気付き、頬を染めるのであった。火照った二人は言葉も少なに川原を一緒に歩き、恋の進展もない儘、僕は彼女を家に送り届ける。其処で初めて気付いた事に彼女の実家は僕のいきつけの団子屋で、彼女の父母は実の所、長年の顔見知りであったのだ。娘を嫁にくれるために団子の主人が出した条件は、名店の誉れも高い当の団子屋の味を盗むこと。僕は米粉と餅粉を駆使して団子作りに没頭するのであった。だがしかし、みたらし団子の味わいの最後の秘密が解らない。僕は団子の秘密を探しに旅に出る。其れを見送る娘。『必ず僕は帰ってくるぜ』其う言い残し、僕は馬に跨って荒野を出立するのだ。」

僕は三方ヶ原君に壮大無比な物語を説明した。
「先生、」と三方ヶ原君は言った。
「なんだね。」
「殺意が湧きます。」
「駄目かね。」
「公害です。」
と女史は言った。

「先生、先日私は知人に薦められて坂口安吾の『夜長姫と耳男』を読みました。大変面白いお話しで御座いました。或る場面で傍若無人の夜長姫を見て耳男は、この人間を生かしておいては村民が死に絶えると感得して、夜長姫を殺そうとするのですが。」

「ふむ」
「いま、私は同じ事を思いました。」
「ふむ、ふむ?」
「いま先生を殺さなければ、世間様に迷惑が掛かります。」
「ふむ」
「そもそも先生は昨日の女給に恋をされたのですか?」
「ふむ」
「本当に?」
「ふむ?」
「それは恋ですか?」

三方ヶ原君の問いに僕は答えられなかった。恋が何たるか僕は知らぬのだ。

「乳の大きくて可愛い子に一寸親切にされて、其の気に成って仕舞っただけじゃ有りませんか?」

「恋は盲目。相手の事を知らぬ儘、自らの思い込みから始まるものだろう?どんな大瀑布の恋だろうと契機は些細な小川の如きものさ。」

「女性に対する免疫が無さ過ぎるのですよ。もう一度会って話をされては如何ですか。」

「昨晩会ったよ。」
「でも何も喋らず帰って終ったのでしょう?」
「そうだ。あれこれ喋りだしたら通報されそうな気配を感じた。」
「ああ、わかります。とても。」
三方ヶ原君は大きく頷く。
失敬な。

****

或る日の午後、三方ヶ原君と打ち合わせをしていたら突如、仕事場の呼び鈴が鳴った。入ってきたのはイタリア人のような日本人男性と、その秘書と名乗る日本人のようなイタリア人女性であった。

「先生の御陰で我が社の商品は人気沸騰中だめん。」

とイタリア人のような日本人男性は言った。
「鰐口君、資料を出すめん。」
鰐口君と呼ばれた女性は恋愛成就財布の売り上げ記録を見せて呉れた。
或る極点から爆発的に売り上げが伸びて居る。

「先生が作った体験談が受けて、此んなに売れためん」
続いて鰐口女史は某SNSを見せて呉れた。
「日本中で先生の体験談が話題にされてるめん」
SNS上で民衆が口々に僕の文章を褒めそやしていた。
尤も三方ヶ原君の迅速果敢に熾烈を極めた校正により当初の文章の実に97%が削除された後ではあったが。創作された体験談である事は既に発覚していて中には何処で調べたものか僕のプロフィールに迄言及している投稿記事も有った。削除された97%を加えた完全版が書籍化されると云う噂も出ていた。「恋の大瀑布」とタイトルが決まっているらしい。

「これは社長からのお礼です。」

と鰐口女史は僕にピンクのがま口財布を手渡した。

「何故此の商品が恋愛を成就させるのか貴君に分かるかめん?」
「さあ」
「ディスイズ『がま口財布』ですが、このフォルムは時代的に如何?」
「古めかしいね」
「女性が之を持っていたらどう思われます?」
「取り敢えずギョッとするよ。」
「イエス!詰まりギャップです。ギャップは恋のカンフル剤!メリケン人の心理学ではゲインロス効果と呼ぶのですよ!」
「はあ」
「加えて云えばこの丸みあるフォルムはセクシーだと思いませんか?」
とがま口社長は今度は三方ヶ原君に尋ねた。
「最初見た時は大人の玩具かと思ったわね。」
「イエス!それが大きく口を開く!男性の目の前で繰り広げられる痴態は男性の性嗜好を釘付けにする事でしょう!」

「狂ってる」と僕は女史に耳打ちした。
「イエス、ね」と三方ヶ原君も小さく答えた。
「では大切に使って下さいね」
と秘書は僕にピンクのがま口を握らせた。

彼らが帰って、僕は財布をまじまじと眺めた。パクパクと口を開いたり閉じたりしてみる。
三方ヶ原君が無表情に言った。
「先生、良かったですね。これで先生の恋愛も成就されますよ」

「ふむ。」僕は言った。
「もう一度カフェーに行きますか?」と女史は言った。
「ふむ」
と僕はやはり煮え切らない返事をした。

「ふむふむ、と先程から其ればかり。もう少し女性に対して積極的になれませんか?」と女史は僕を責める。
「だから先生は女性に好かれないのですよ。」
女史は苛立っていた。苛立ちながら正鵠を突く。其ういう事だ。僕は自問自答の末に結局何もしない事を選んで仕舞う。流される儘で自ら運命を切り拓く気概に欠ける。女性は強い男に導かれたいと願う時もある。其う云う意志力が僕は点で駄目なのだ。

僕は女史に愛想を尽かされ乍らも曖昧に「ふむ」と相槌を打つしか出来ぬ。熟々と駄目な人間だ、僕は。

一つ大きな溜息をついて女史は再び口を開いた。

「実は」

僕は其方を向いた儘、黙って聞いていた。

「あの女給さんは私のかねての親友で、時折カフェーに現れる素敵な殿御に本人も知らずの内に恋煩いをして、何もかもが手につかぬようになり、大層戸惑って居たのです。そこで私は一計を案じ、殿御を彼女の前に連れ出して、二人がお近づきに為れるよう一計を案じたのです。計らい事は成功し、殿御は彼女に恋に落ち、両片想いと相成りましたが、殿御の拗けた性格が災いして、一歩を踏み出す意気地がちっとも湧きません。何を促しても四の五の/\云う許り。蓋し困ったものですね。」

喋り終えて三方ヶ原君は珈琲を啜った。

「ふむ」と矢張り僕は言った。

「嘘ですけれどね。」と女史は溜息をついた。
「そうだろうとも。」

「実の所」と僕は言った。
「僕にも分かって居るのだ。僕の恋は叶うべくも無い。見ず知らずの男から好かれて喜ぶ女子など居ない。僕の存在等、彼女にとっては不気味なだけなのだ。警邏への通報案件だ。僕からして、本当に恋に落ちたのかと謂われれば、屹度違う。旅と同じで、僕は何時も僕の日常を破壊するドラマに焦がれている。凡庸な僕自身の力では辿り着けぬ桃源郷に連れ出して貰いたいのだ。冒険に憧れるのと同じく僕は恋に焦がれたのだ。
恋は大瀑布。其の水流に続く小川にさえ僕は入っていない。アイスクリームを貰って、僕は少しいい気になってしまっただけなのだ。親切にされて、浅ましくも、此の娘なら僕の事を好いて呉れるのではないかと期待しただけのことなのだ。自分は愛されたいのだ。にべもなく。愛されたい一心で、愛してくれる人間を欲するのだ。僕が愛しているのは利己だけで、本当に誰かを好きに成る事など屹度無い。」

到頭、僕は不甲斐なさが哀しく成った。此うして僕は独りなのだ。此の先もずっと。恋の瀑布を探して流浪の旅を続けて、砂漠の中の蜃気楼を追い掛けて幻の中に死するのだ。


僕の冗長な懺悔に黙していた女史が口を開いた。

「嘘の続きを話しても宜しいですか?」

「言い給え」

「煮え切らない殿御に呆れつつも、実は私も其の殿御のことが好きなのです。一歩を踏み出せぬ彼の弱竹の様な意気地無しの不甲斐無さ、男らしさの欠片も無い、情け無い姿が好きなのです。どうして其うなったのか、何を間違えたのか分かりませんが、此うなって仕舞ってはもう此の水流は止まりません。私の心の裡は水面に浮かぶ木の葉のように浮沈と回転を繰り返し、この行先は恋の瀑布が控えております。殿御が結局意気地の無さから女給との恋を不為にして未だ独りで居る事が浅ましくも嬉しいのです。殿御の傍に今も居られる事に胸躍り、鼓動が高まり、悦びと幸福に振戦えるのです。既に心の木の葉は瀑布に流落し、其の奈落に私は囚われたのです。好き、と思う気持ちが溢れて、或る日には虹を掛けて、或る日には陰鬱の霧となります。千々に乱れて戸惑い乍らも、恋心が止みません。不思議な事に其れ程に其の殿御の事が好きなのです。」

と女史はまたコーヒーを啜った。

「心から、とても。」


「ふむ。」と僕は言った。

****

と、此処迄書いて、僕は筆を置いた。

担当者が先程から傍らに侍り脱稿を待って居る。僕は先頃出版した処女小説が当たって奇しくも人気恋愛小説家となって仕舞った。甚だ忙しく筆も遅いので此うして担当を待たして仕舞う。編集者として長らく付き合った彼女から今度は自伝的な恋愛小説を書いて呉れ、と言われて渋々引き受けたが、何せ僕は恋愛経験など殆ど無い。だから僕が語れる事など限られている。彼女だって其れは承知している筈だ。ゾンビもマフィアもUFOも登場しない極めて地味な、僕の物語。果たして、此れは彼女の意に沿う物に成っただろうか。

最後の原稿用紙を手渡した。

彼女は無言で其れを受け取り、熟々読んだ。そして。

「馬鹿ですねえ、先生は。」
其う言って笑った。

「ふむ」
其れを受けて僕は曖昧に相槌する。

(短編小説「恋の大瀑布」村崎懐炉)

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