見出し画像

短編小説「イタリアンロール」

市場町から御幸町へ抜ける石畳の細道を歩いていると目の前に。
蟹、がいた。
往来を横切ろうとしている。
進んでは止まり、止まっては進む。
小さなハサミを突き上げて、横歩きしている。

その蟹と目が合った。

虹色の泡が。
くるくると回りながら風に吹かれて飛んだ。

振り向くと地蔵のような老婆が二人、ちょこんと路傍に座ってシャボン玉を吹いていた。

「こんにちは」
一人の老婆が朗らかに挨拶をした。
「こんにちは」
僕も朗らかに努めて挨拶を返した。本日は晴天なり。交わす挨拶が心地よい。
それから振り向くと蟹は消えていた。老婆たちのシャボン玉が海風に吹かれて空高く舞った。

-------------------------------------
短編小説「イタリアンロール」
-------------------------------------

冨久家のイタリアンロールが何故こんなにも美味しいのか僕は知れない。

冨久家は市役所の裏にある小さな店だ。こじんまりとして目立たない。幟が立っているわけでもなく大きな看板があるわけでもなく、ともすると開店しているかどうかもよくわからない。だけど冨久家は開店していて客がぽつりぽつりと入店し、買い物袋を提げてまた出ていく。そんな光景を一日繰り返している。決して行列などできない。だけれども客足が途絶えない。

冨久家に置いてあるものはイタリアンロールという名前のロールケーキしかない。だから全ての客はイタリアンロールを買う。ショーケースの中でイタリアンロールは浅葱色の包装紙に包まれて積まれている。客が来るとお店の人はイタリアンロールをショーケースから取り出して、それを袋に入れて客に渡す。店と客のやり取りはそれだけだ。冨久家の中でそのやり取りが淡々と一日中繰り返される。

客はイタリアンロールを何より大切に扱う。イタリアンロールを手土産に人を訪ねる人間が多い。人に手渡すものだから恭しく丁重に扱う。

客たちはイタリアンロールを提げながら、今日会う人のことを考えている。特別な相手だ。とても大切な。イタリアンロールを買うときはそういう日なのだ。イタリアンロールを買う客たちは「それ」が幸運をもたらすことを信じている。

それは縁日に赴いた子供たちが金魚すくいで掬った金魚を大切に持ち帰ることに似ている。子供たちもまた信じている。金魚が幸運をもたらしてくれることを。
金魚を提げながら顔がはにかむのを堪えている。体が、スキップをしたくなるのを、堪えている。夜店が色とりどりの灯りを点して輝いている。

僕が冨久家に着くと、入れ替わりに婦人が出ていく所だった。
ロールケーキの入った袋を提げている。
袋が大きいのできっとロールケーキが二本入っている。
大勢が集まるんだな、と僕は思った。
店内に入ると店員が店の奥に戻ろうとするところだった。店の奥は工房になっており、イタリアンロールは暖簾をくぐった、その奥で作られている。

「いらっしゃいませ」店員が言った。
「どうも」僕は言った。
「イタリアンロールをひとつ」僕は言った。
「食べられるまでにお時間はどれくらいかかりますか?」
「2時間くらいかな」僕は言った。
「保冷剤入れておきますね」店員が言った。
「ありがとう」僕は言った。

店を出て少し歩くと狩野川沿いの堤防に出る。堤防を登ると上辺がプロムナードになっている。ジョギングをする人々や、或いは散歩する人々が互いに挨拶を交わしながら行き交う。この散歩道を三キロも川沿いに下ると海に着くのだ。

僕はこの先の港で友人と待ち合わせている。

伊豆半島を縦断して流れるこの川は水量が多い。滔々と水は初夏の午後をゆるやかに流れる。
潮風が河口から遡って町に流れていく。
太陽を反射して水面が光っている。
その水面を魚が跳ねる。

友人は元気だったろうか。
魚の跳ねた水面をボート部の学生たちが過ぎていく。
四人の学生たちが揃ってオールを漕ぎながら川上へと遡る。

気が付くと僕の目の前を猫が歩いていた。
踵をあげてしなやかな体躯を揺らしながら歩いている。
時々振り返って僕を見る。
僕が追いつくのを待っているようだ。
一定の距離を保ったまま、僕と猫はプロムナードを歩く。

猫が石段から堤防の内側へ降りた。堤防の内側は緑地になっており、若草が茂っている。
やはり猫が振り返って僕を覗くので、僕も猫について緑地に降りた。
猫に従って叢を歩く。
茶虎の猫で、色といい大きさといい僕の抱えるイタリアンロールみたいだ。
もしかしたらイタリアンロールの妖精だろうか。
それともイタリアンロールが欲しくて僕を化かそうとしているんだろうか。
僕と猫とイタリアンロールは歩き続ける。

堤防の上から子供たちがボート部の学生に手を振っていた。
その傍にまた、水面を魚が跳ねた。
海に近いこの辺りは汽水域になっており、跳ねるのは海から遡上した魚たちだ。
下流域では風も魚も潮汐も行き交っている。散歩する人、ジョガーたち、ボート部。
上ることと下ることの繰り返しで毎日が紡がれている。

猫が立ち止まって川を見た。
僕もまた立ち止まって猫の視線を追った。

ただ水面が煌々と光っている。
猫が暫くじっとしているので、僕は猫に近寄って抱え上げた。
人に慣れているのか大人しく猫は腕に収まった。
飼い猫のようだ。茶虎の毛並みが美しい。
背中を撫でると喉をごろごろと鳴らした。

港に着いて友人と落ち合った。友人は暫く前から港にいて、ぶらぶらと時間を潰していたという。

「ご飯を食べたんだ。」
「へえ、何を?」
「客が並んでいる店があったから、その後ろに僕も並んで。店員に何がお勧めか聞いたら海鮮のかき揚げ丼が名物だと言うからそれを食べた。そうしたら馬鹿にでかいかき揚げが出てきて、ちょっと食べるのに参った。」
「それから?」
「それから水族館に入った。」
「水族館。」
「シーラカンスがいた。大きかった。あれは僕よりも大きい。」

シーラカンスは古生代デボン紀から中生代白亜紀にかけて繁栄した魚類である。シーラカンスの仲間は肉鰭類と呼ばれる。字の如く肉質の鰭があり、鰭に関節を有する。種類によっては肺を持ち、肉鰭を使って陸上を歩いたり、木に登ることができた種もある。両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類といった脊椎動物の進化上の祖先にあたる。絶滅したと思われていたが、深海に暮らす種が1938年に南アフリカで発見された。

「僕たちのご先祖様というわけだね。」
「そうだね。三億五千年前のね。」
「三億五千年前。まだ僕は生まれてないな。」
「もちろんだよ。」

友人は装具をカチャリと鳴らした。半身が不自由なのだ。左腕と左足に装具を付けている。それをカチャリと鳴らしながらゆっくり歩く。彼の時間は緩やかに過ぎていく。

「あんなに大きな体で海を悠々と泳げたら気持ち良いだろうなあ。」
「そうだね。」

シーラカンスと一緒に深海を泳ぐ。
海溝を沈んで深く深く。
アンモナイト。
海サソリ。
三葉虫。
絶滅した魚竜たち。
古代魚の群れ。
生命の原始。
深く、深く沈む。
誰も見たことのない底を目指して。
マリンスノウ。
深海に降る雪。
デトリタス。
繰り返される生と死。
深く、深く沈む。

僕たちは河口に立って遠い水平線を見ていた。
「人間は何も知らないねえ。」
水平線の向こうに何があるのかも。
水平線の下に何があるのかも。
世界は人間の知らないことばかりで出来ている。

「自分のことだって分からないのに。」
僕は笑った。明日、自分がどうなってしまうかすら僕たちには知れない。

家に着いた僕と友人を僕の子供たちが出迎えた。
台所で買ってきたイタリアンロールをカットする。
友人は子供たちと遊んでいる。
子供たちにせがまれて絵を描いているらしい。

「何の絵を描こう?」
「かに。」
「蟹?」
「お庭にかにがいるよ。」
「へえ」
子供の笑う声がする。
それを聞きながら僕はお茶を淹れる。

イタリアンロールはシュー皮でロールケーキを包んだものだ。
シュー皮はバターと卵がふんだんに使われて、薄いわりに弾力に富む。噛むと甘味が染み出る。湯葉のようなくにゃくにゃとした食感が面白い。
しっとりしていて、乳児の肌に掌を這わせたような触り心地である。表面にアーモンドスライスが散らされて風味が良い。
焼き色が虎模様を描いている。そのシュー皮にカステラと生クリームが巻き込まれている。
カステラは溶けるような柔らかさ。潤いがあって歯ざわりも滑らかである。生クリームは甘すぎず上品で旨味がある。淡雪のように口溶けが軽い。その中心には洋酒が染みた栗の甘露煮が砕かれて散りばめられる。重なり合った味たちを虎模様のシュー皮が包んでいる。

子供の頃からロールケーキといえば冨久家であったので、すっかりこれが当たり前の味になってしまった。僕にとって冨久家のイタリアンロールは変哲のない普通のロールケーキだった。何処に行っても似たようなものが食べられると思っていたが、何処に行っても似たものが見つからない。

何度か類似のシューロールを食べたことがあるが、似て非なるものであった。カステラが乾燥してしまってパサパサしている。クリームがべたべたして重い。甘すぎる。風味に欠ける。シュー皮が焼きすぎて固い。
普通のロールケーキは冨久家でなければ食べられない。
冨久家のイタリアンロールが何故こんなにも美味しいのか僕は知れない。 

 僕は先程会った猫の事を考えていた。やはり似ている。イタリアンロールに。結局猫は腕の中からするりと逃げて草むらに消えてしまった。何でも、あらゆるものが手元から消えていく。
最後にロールケーキを食べたのはいつのことだったろう。その時、食卓を囲んだ人たちももう今はいない。

友人と子供が光の中で遊んでいる。

友人は一年前に自殺しようとした。死にきれなかった。病院を退院して失踪した。

彼は今日、帰ってきた。

皿に乗せたイタリアンロールとお茶を出した。目を輝かせて子供たちが群がる。

「冨久家だね。」
友人が言った。
「そうだよ。」
僕は言った。

一口食べて友人が言った。
「美味しい。」


〈 了〉

(短編小説「イタリアンロール」村崎懐炉)


地元で長らく愛される冨久家のイタリアンロール。

跋文に代えて
もしこの記事を読まれた何方かが、これは美味しそうだと思ってくれて、何かの機会にこのロールケーキを食べたとしても、多分ちょっと美味しい普通のロールケーキの味しかしないと思うのです。
もしかしたら東京の銀座あたりで売られる瀟洒なスイーツの方が余程美味しいと思うかも。
地域に愛された料理というものは地域の人間が子供の頃から幾度もその味に親しんでいて、そこには各人の思い出が染みていて。
そういう思い出も含めて郷土の料理は愛されているのです。
このロールケーキもずっと変わらぬ味で、いつもこの町に売られていて、
僕などはそこにある種の安らぎを感じるのです。
もしこの記事を読まれた何方かが何かの機会にこのロールケーキを食べるなら、ただ食べようとするのではなく、誰か素敵な人と一緒に食べて下さい。そうした思い出が味に染みて、次に食べるときはもっと美味しく感じることと思います。

----------------------------------------

(おまけ)
話の途中に出てきた「馬鹿でかい海鮮かき揚げ」。一人では食べきれない。

#小説 #詩人 #眠れぬ夜の奇妙なアンソロジー #ネムキリスペクト #スイーツ #冨久家