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石手寺のマントラ洞のこと

10年ほど前の話。
四国は松山を訪れた時のこと。

「マッチ箱のような」の比喩で有名な路面電車を乗り継いで、市内循環路線から外れて行き着く終着駅は道後温泉であった。

賑やかな温泉街の入り口を過ぎて侘しい山裾を歩くと程なくして真言宗八十八霊場、「石手寺」に辿り着いた。

山門をくぐると50メートル程の参道が伸びてその両側に僅かな出店が並ぶ。どの店も小さなテエブルとそこに座る老婆が一つのセットになっている。テエブルの上にあるものはドイツ製と書かれた針の糸通しであったり数珠であったり十数年も以前から其処に陳列されているかのようなものばかりである。それが静けさと厳かさと相まって時が止まったかのような風情を醸す。

夏のことで、確か蝉ばかりが鳴いていた。

石手寺の最奥にはマントラ洞という洞窟が掘られていた。目立つ案内もないので参拝客の中には見過ごす人もいるかもしれない。

私が訪れた10年前のマントラ洞は中が全くの暗闇で、その暗闇の中を手探りに歩くと言うことは大変怖いことであった。

足元がおぼつかないことに加えて、暗闇に何が潜んでいるか知れず(気持ち悪い虫とか)
そういうものにうっかり接触する危険もある。
ともすれば緊張のあまり超常現象に遭遇してしまうかもしれない。

洞窟を横道に逸れると格子が組まれた牢獄のような所に出て、ここだけはうっすらと明かりが灯る。だが、その薄明に目を凝らすと牢獄の中には沢山の仏像が閉じ込められている。
当時の私はまさに予想外の(異常な)光景に恐怖が極まった。軽いパニックを起こし、逃げたい一心となった。が、逃げようにも元来た暗く恐ろしい道を戻らないといけない。此処に留まることも戻ることもできず、脳が全ての選択肢を拒絶する。一歩たりとて進むことができない極限状態に陥った。

だがしかし。

だがしかし、考えてみれば、

ここで恐怖を感じることは筋違いである。

と、言うことに気付いた。怖がることは全くもって私の傲慢であった。
気持ちの悪い虫も、超常現象も、暗闇も、マントラ洞も、沢山の仏像たちも、一切合切は私が生まれる前からそこにいて、先祖の御世から調和のもとに共存していた筈である。そこに突如、「私」が混入し、調和を乱しているのが今の状況であって、異物と呼ばれるべきものは他ならぬ私自身である。その私が、私以前に厳然する年長者たちの何をか畏れん。

それは大変に失礼な話に思われる。

私の視点でものを考えるから、私が馴染むことができない者達を恐ろしく感じるのであって本来持つべき視点は私を無くした自然の視点である。

そういった年長者たちの邪魔にならぬよう、慎ましく暮らす態度が求められるのではないだろうか。

人間奢りが過ぎると自分が地球上で一番偉いなどという誤解を生じせしめる。自分が一番偉いから自分の意のままにならぬ物が恐ろしいのだ。意のままにならぬ暗闇や虫や仏像が恐ろしいのだ。
実のところ暗闇に対する恐怖の正体は私自身のエゴイズムであったのだ。
自分の影を見たある人が、影から悪意を感じると宣うようなものである。影にも暗闇にも悪意などない。
もし、あなたが暗闇に立つときそこに正体不明の恐怖を感じるならまず人間の奢りを捨てよ。死体の気持ちで目を瞑られるのが宜しかろう。暗闇はあなたを染み染みと受け入れることだろう。


という話。

先日、「やまびこ」というトンネルを抜ける短編小説を書いた。物語では主人公がトンネルを抜けようとするとき、猛烈な恐怖に襲われ立ち往生する。だが、暗闇が怖いと思うのもまた彼のエゴイズムにほかならない。

あとがきに代えて雑文を序した。

(短編小説「やまびこ」村崎懐炉 跋文に代えて)
初出「村崎懐炉の文学日記」2018.02.07





幻想紀行「やまびこ」|murasaki_kairo|note(ノート)https://note.mu/murasaki_kairo/n/nfc8a2a1d44f3