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おとなの僕らにこそ刺さる、映画「ゆるキャン△」

仕事が忙しくて。うまくいかなくて。
うまく前に進めていない毎日を送っていると感じていた。

好きだったはずの作品の新作、それも映画が7月に公開されているのに、全く足を運ぶ気力が湧かず、気付いたら8月も終わりに差し掛かってしまった。
このぐらいになると、少しずつ公開を終了する映画館が出てきて、月がかわるとグッと減ってしまう。
僕は普段、映画館で映画を見ないので、そんなダイナミズムをよく知らない。ふと気付いた時には近隣の映画館での公開が殆ど終わってしまうような状況になっていて、いよいよ映画館に駆け込んだのだった。

このぐらいの時期になると、多少のネタバレがあっても怖くない時期なので、特に細やかな配慮はせずに書き進めることにする。万が一まだ見ていない人は、このあたりでブラウザバックをお勧めする。

偉大なる人を巻き込む力

ゆるふわな高校生だったはずの、映画のスクリーンに映し出されたキャラクターたちは、それはもう、精神的に学生気分の抜けない僕のような中途半端な大人ではなく、しっかりとした大人として描かれている。

山梨で育った彼らは、色々な地域で、それぞれの生活をしていて、気付けば仲の良い同士でも実際に会うことが少なくなっている。
その描写があった時点で、自らの状況と重ねてしまい、既に感情移入が始まっていたのだと、後から気付く。僕もまた、コロナ禍で、いやコロナ禍の前ぐらいでも、仲の良い友達と会う頻度は少なくなっていた。
もちろん、日々友人たちと常に会うことは考えにくいが、少なくなったその機会にとどめを刺すのには、コロナ禍は十分すぎるものだった。

仕事に…というより仕事に対する自らの責任感に忙殺され、たまの予定のない休日だけが癒し…そんな状況の(僕も強く感情移入できる状況の)リンのもとに、台風のようなあのキャラが登場するのである。
そう、大垣千明である。

僕はそれほどアニメを見る人間ではないし、映画や小説もどちらかと言えば苦手と自覚している。架空のストーリーの、架空のキャラクター。それを頭の片隅で分かりつつも、この映画での千明の、人を巻き込む力の描写には、とてつもない凄み、偉大さを感じざるを得なかった。

彼女は、殆ど無理やりリンや友人たちを巻き込んで、キャンプ場を作るというプロジェクトに参加させることに成功する。現実にこんなことをするヤツは、明らかにヤバいヤツだが、地域をおこす、盛り上げる時には、ある種の強引さが必要なのは、色々な地域の事例で証明されると思う。

そしてそれによって、久しく会っていなかった友人たちが再び集い・・・(ストーリーの紹介になってしまうのは本意ではないので、このあたりにしておくが)・・・僕が半分以上無意識に欲しているものがそこに描写されているとともに、仕事の葛藤や、大人になったからこそできること、大人になっても何でもできるわけではないこと…などの描写と相まって、いたく感情移入してしまう。

エンディングでも、その後の千明がやっている「人つなぎ」の様子が描写されている。人と人をつないで新しい価値を生み出すことの素晴らしさ、必要性、そしてそれを現実にやろうとするときの困難に思いを馳せ、これから僕が仕事をやるうえで目指すべきところ・・・というと大げさだが、そんなことを考えてしまった。

誰かと一緒に「事」にあたる

ゆるキャン△は、タイトルだけを見ると、単にゆるふわなキャンプをやるだけの作品のように聞こえてしまう。しかし、この作品の自分への刺さり方を引いた目線で見ると、自分たちが日々やっている仕事も含め、おとなになった自分が、自分ではない誰かと一緒に「事」を行うこと、そしてそれを人に伝えることの価値を表現した作品になっていると感じた。

誰かと一緒に「事」にあたって、それが新しい価値を生み出す。頭では分かっていても、どうしても自己満足の世界だけに陥ってしまったり、ひとを頼れず抱えてしまったりしてしまう。そうならないように、これから僕はどう考え、どう行動できるのだろう、ということを考えてしまった。

しかし、それがプレッシャーや脅迫観念のような形で僕に刺さっているのではなく、読書でいう読後感的なものは、ゆるキャン△の優しい世界の延長線上にあって、得も言われぬ充実感と心地よさがあったのだった。


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