『シアワセの卵』
スプーンの上に、黄色と赤が乗っている。
夢は、オムライスみたい。
遠くから見てると、綺麗で、単純に見える。だけどちょっと掬ってみたら、ふわふわの卵に包まれていたその中身には、ぐちゃぐちゃのケチャップライスが詰まってる。苦い野菜が、肥えた鶏肉が、刻まれて、混ぜ込まれている。
はぁ。
域還市立大学の食堂で、一口分のオムライスの欠片が載ったスプーンを見つめながら、溜息を零す。多くの学生で賑わうお昼の食堂は、うるさくてあんまり好きな場所ではないけれど、大好きなオムライスがワンコインで食べられるのは、バイトもできずお金のないわたしにとって、すごくありがたい。でも今日は、そんな大好きなオムライスも、あんまり喉を通る気がしない。
まあ、食べるけど。
「はあ。今日のレッスンも、憂鬱だなあ」
スプーンを口に運びながら、もう一段、深い溜息を落とす。
わたしはいわゆる、アイドルの卵だ。街で芸能事務所のスカウトだという男の人に声をかけられて、最初は断るつもりだったけど、もともとそういった活動に興味がないわけでもなかったので、名刺だけもらうことにした。家に帰ってから軽い気持ちでお姉ちゃんに話をしてみたら、面白がったお姉ちゃんがお母さんへ伝え、びっくりしたお母さんがお父さんへ伝え、その夜、家族会議が開かれることになって──あまりの急展開に動揺したわたしは、真剣な面持ちで発されたお父さんの「本気なんだな?」という言葉に、つい、「うん。本気だよ」と返してしまい、そのテンションのまま、名刺に書かれた電話番号に、これからお世話になりますという旨を伝えた。そうして、わたしの芸能活動はスタートしたのだった。
正直、期待した──スカウトされたということは、自分では気付いていない才能が、わたしの中にも眠っているのではないかと──でも、現実は、やっぱり甘くはなくて。歌もダンスも素人のわたしが、すぐに人前に立てるはずもなく。せっかく事務所に入ったというのに、やることといったら、基本的な発声とか姿勢のレッスンばっかり。想像していた華々しさとは無縁の毎日に、何度も逃げ出したくなる。でも、大好きな野球中継を録画に回してこれまで興味のなかったアイドル番組を熱心に観るようになったお父さんとか、これまで以上に栄養を意識した料理を作ってくれるお母さんとか、口では茶化すようなことを言いながら、さり気なく美容のアドバイスをくれるお姉ちゃんの顔を思い出すと、先生の指導が辛いから辞めたい、なんて、とてもじゃないけど言えなかった。
これなら、反対されてた方がまだ、楽だったかもしれない。
はぁ。
「溜息ばっかりついてたら、幸せが逃げちゃうわよ?」
頭の上から、落ち着いた声が降りかかる。上目遣いで確認すると、紫色のパーカーを着た女の子が、背後からわたしの顔を覗き込んできていた。
「おはよう、瞳ちゃん」
「……おはよ。そーしちゃん」
クールな雰囲気を纏う彼女は、わたしが大学生になってから初めてできたお友達の、絡糸繰糸(からめいとそうし)ちゃん。数か月前、規定制服を脱ぎ捨てた大学生活にうまく馴染みきれず、この食堂でひとり黙々とオムライスを頬張っていたわたしに声をかけてきてくれたのが、このそーしちゃんだ。以来、わたしたちはお昼休みにふたりで会って、たわいもない雑談に興じている。
「どうしたの瞳ちゃん。ケチャップ付けた頬を膨らませて」
右手で頬に触れると、指にべちゃっとした感覚。はずかしい、ほんとについてた……。ティッシュもなかったので、舌先で指を舐める。ちょっと、すっぱい。
「そーしちゃんが、先生みたいなこと言うからだよー」
「先生? 午前中の授業で、教授からなにかひどいことでも言われたのかしら」
向かいの席に座りながら、そーしちゃんは、お得意の微笑み顔を浮かべる。的外れな発言は、きっとわざとだ。
たしかに、二限の小テストは散々だったけど……大学の講義の先生は、そんなことで怒ったりはしない。みなさん、授業よりも研究の方が大切そうだ。
「小学生じゃないんだから。学校の先生に注意されたくらいで、へこんだりしないよ」
「そう。ああ、ということは、『NANA』?」
さらに口元を釣り上げて、そーしちゃん。ほら、やっぱり。この子はいつもこんな風に、こっちが話す前から、わたしがなにについて考え、なにを思っているか、知っている。
『NANA』というのは、右廻芸能でもうすぐ発足される予定のアイドルグループで、わたしはそこのメンバー候補として、レッスンに励んでいる。デビューまでにちゃんと人前に立てるだけのスキルを習得しなきゃいけないんだけど……昨日のダンスレッスンでも、振り付けを間違えて、先生に叱られてばっかりだった。技術もないのに覚えも悪いなんて、いいとこなしだ。
「うん。また、こっぴどくしかられちゃった」
「いいことじゃない。見向きもされない方が、よっぽど辛いでしょう」
怒られているうちが華なんだから──頬杖を突きながら、そーしちゃんは笑う。たしかに、それはそうなのかもしれないけど……その言葉は、すくなくともいまのわたしにとっては、すごく無責任な言葉に思えた。
そういうのは、こっちの立場じゃないからこそ言えることだ、と思う。だれだって、怒られないよりも怒られる方が、イヤに決まっている。わたしよりも頭も要領も良いそーしちゃんは、きっとだれかを怒らせたり、イヤな思いをさせられたりしたことが少ないから、そう思えるんだ。
……とか、考えちゃうわたしは、イヤなやつだろうか。
はぁ。
「幸せって、なんなのかな」
「あら、わたしと『幸運』について、議論するつもりなの?」
ギロンって。べつにそんなつもりはないけど……。
なんとなく漏らした呟きが、そーしちゃんの琴線のどこかに触れたらしい。『幸せ』が『幸運』に言い換えられている気がするけど……まあ、どっちも似たようなものか。
「わたしは、幸運については一家言持つ女の子なのよ」
「そーしちゃんは、どちらかというと、幸せとは真逆っぽい雰囲気だけど……」
「あら、失礼ね。これでも、幸せになろうと日々努力を重ねているのに」
幸せになる努力って。どんな人生を送っているのだろう。
スプーンを、口に運ぶ。ふわふわ。
「『そんなんじゃ、チャンスを逃しちゃうよ』」
「え? なに、わたし、そんなに不運オーラが漂ってる?」
「ちがうよ。そーしちゃんのことじゃなくて。──そう、言われたの。先生に」
「瞳ちゃんが?」
「うん。それで、なんだか、わかんなくなっちゃって」
本音を言うと、怒られたことがイヤだったわけじゃない。いや、イヤはイヤだったけど、それはまあ、いつものことだし、もう慣れっこ(慣れるな)で。
ほんとうに、考え込んじゃったのは。
どれだけ練習しても、たくさん頑張っても。歌も踊りも、全然うまくなんなくて。どうしたらいいんだろうって、悩んでいるときに、その言葉を浴びせられて。
「なんていうのかな──結局、運なのかなって」
チャンスを逃がすよ。
チャンスというのは、デビューのことだろう。もしかしたら、もっと大きな成功のことを言っているのかもしれない。どちらにしても、それはいまのわたしからすれば、もうちょっと、後の話で。
わたしがいましている努力は、そのいつか来る『チャンス』を掴むためだけのものなの?
「うん。そうよ」
「え?」
あれれ?
ちょっとちょっと、そーしさん。ここは、相談の聞き役としてこれを言っておけば間違いがないワード第一位の、『そんなことないよ』を繰り出すタイミングなんじゃないのかな?
あまりにも歯に衣着せぬ友人の返答に目をぱちくりさせるわたしの目を見ながら、そーしちゃんは続ける。
「どんな物事も、最終的には、運にすべて委ねられる──天命に、運命に、抗いきれる人間はいない──そのなかで、すこしでも自分にとって都合の良い未来に進む可能性を高めることを、努力と呼ぶのよ」
なにも置かれていないそーしちゃんのテーブルは、きれいだ。そういえば、わたしはそーしちゃんがなにかを食べているところを、見たことがない。
「いつか来る未来のことなんて考えずに、いまの努力だけを見てほしい。それは、傲慢といえるんじゃないかしら」
幸せになる努力を積み重ねている。
そう言ったそーしちゃんの表情は、どんなんだったっけ。
前髪で隠れて、よく見えなかった。
「……そ」
「ケチャップ、またついてる」
冷たい左手が、わたしの頬に触れる。彼女は指についたその赤を、ポケットから取り出したティッシュで拭き取る。
ほんとうに、はずかしい。
「例えばね。二年前に起こった、薬品会社の汚職事件──覚えてる?」
「え……? ああ、うん。なんとなく」
たしか──薬品会社の偉い人が、やくざの組長から賄賂をもらって危ないクスリを渡してて、それが町中に広がって……とか、そんな事件だった気がする。それだけならよくありそうな(物騒なことだけど)話だけど、そのとき取引されたクスリが、当時たくさんあった「からーぎゃんぐ」を中心に、域還市中の若者の間で大流行して大変なことになっちゃったから、ニュースでも連日、大きく報道されたんだっけ。
唐突に振られた話題に困惑しながらも、思いの外すんなりと思い出せている自分に驚く。そこそこ大きい事件だったとはいえ……わたしとは、直接関係のないニュースだったはずなのに。ダンスの振り付けも授業の内容も全然覚えられないのに、こんなことばっかり覚えていても、しかたないんだけどな。
「瞳ちゃんはあの事件は、幸せな出来事だと思う?」
「そ、そんなこと……思えるわけないよ。わたしは、たしかに無関係だけど……でも。きっと、それで悲しんだ人とか傷ついた人は、いっぱいいるはずで」
その人たちにとって、その事実は。
幸せでも、幸運でも、ないはずで。
「そう思うわよね。でも──あの事件の陰で幸せになった人だって、いると思うの」
「事件のお陰で……?」
「いろいろな縁とか偶然……運が、重なって。巡り巡って、得難い幸運をその手に掴んだ人が、ね」
「そんなこと……」
あるのかもしれない。
すくなくとも、絶対にない! とは、言い切れない。
世間どころか、友達の食べ物の好き嫌いすら、ろくに知りもしないわたしに。
どこかのだれかが、幸せか不幸せかなんて、わかるはずもない。
「シアワセは、仕合せ──巡り合わせ、ともいうしね。自分が望む未来を、手繰り寄せようと努力すること。それが、わたしの考える『幸せ』よ」
「うーん、つまり」
わたしたちは授業どころか、プライベートでも食堂以外ではほとんど会わない。でも、一度だけ、そーしちゃんに半ば無理やり授業をさぼらされて、とある男性アイドルグループのライブに連れて行かれたことがある。
それが、わたしがアイドルに憧れるようになった、きっかけだった。
だから、いまのわたしの状況は、そーしちゃんが作ってくれた──手繰り寄せてくれた、チャンスでもあるわけで。
やっぱり、辞めたいなんて、口が裂けても言えないや。
たいてい、悩み事の答えなんて、最初から決まっている。
あとは、やるかやらないか、だ。
「なりたいものがあるなら、とにかくがんばれ! ってことかあ」
「そういうことね」
『人生、やなことのひとつやふたつあって当たり前──けどなあ。そんなもん、俺らのライブで吹っ飛ばせ!』
あのライブで、ソメマルくんも言っていたじゃないか。
やなことのひとつやふたつ──きっとあのステージに立つまで、立ってからも、彼はふたつどころではない、たくさんの『イヤなこと』を経験したことだろう。だから、あそこまで輝けるんだ。
わたしなんて、まだまだだ。
「甘いな、わたし」
「『夢はオムライスみたいなものだ』とか、思ってたんでしょ、さっきまで」
すご。っていうか、こわ。なんでわかるの。
そこまできたら、もうエスパー……っていうか、カミサマだよ。
かみさまそーしちゃん。
スポーンを、口に、運ぶ。ふわふわ。でも、ちょっとすっぱい。
「でも、美味しいのよね」
「うん。だいすきだもん」
食べ物だって、食べてみないと、どんな味かなんてわからない。
夢が叶うかなんて。未来がどうなるかなんて。考えててもしかたない。
やってみなけりゃ、わからない。
「夢は、だれかがスプーンに載せて運んできてくれるわけじゃないんだから。自分の力で、物語を良い方向に進めないとね」
「わたしの物語、かあ。そーしちゃんって、そういう言い回し、けっこう好きだよね」
文脈とか、物語とか。文学部のわたしにはけっこう、馴染み深い言葉だけど……それ、他の人にもちゃんと伝わってるのかな。そういえば、他の人とはふだん、どんな会話を交わしてるんだろう。あんまり想像がつかないな。
そーしちゃんの微笑を見ながら、ふと思う。
「でもさ。幸せって、夢とか、未来にあるだけじゃないよね」
「え?」
「ふとしたときに、気付く幸せもあるよなあって」
「どういうことよ」
「そーしちゃんと喋るこういう時間が、わたしにとって『シアワセ』だったりするのかもなあ、って」
お皿に盛られたオムライスの山を、もういっかい、スプーンで切り崩す。ふわふわの黄色と、なかから、赤く染まったケチャップライス。
一口分けてあげようと右手を前に差し出すけれど、そーしちゃんは固まったように、なんの反応も示さない。わたしと目は合いながらも、どこか遠くを見つめているみたい。
お人形さんみたいだな、と思った。
「……どうかしらね」
しばらくして、そーしちゃんは静かに首を振ってから、席を立つ。
「じゃあ、わたしはそろそろ、次に向かうとするわ」
「え、もう行くの?」
「もうって、そろそろ昼休みも終わりの時間よ」
食堂の壁に掛かっている時計を確認する。ほんとだ、いつのまにか、次の講義の時間が迫ってきていた。そーしちゃんと喋っているといつも、時間が過ぎるのが、なんだか早く感じられる。
「じゃあ、またね」
「ええ。また」
ひとりになってから、わたしは急いで、オムライスの残りを完食する。お腹がいっぱいで眠いけど、午後からは『NANA』のダンスレッスンだ。夢ばかりを見ているわけにもいかない。手鏡を開き顔を確認すると、また頬にケチャップがついていた。何回つけたら気が済むんだろう……恥ずかしい。右手の指で拭おうとして、テーブルにポケットティッシュが置かれてあることに気付く。さすが、カミサマそーしちゃん。明日か明後日かはわからないけど次会ったときに新しいのを返そう、と思いながら、ティッシュを一枚つまんで、綺麗に拭き取る。鏡の奥にいるわたしとにっこり微笑み合ってから、溜息を吐く代わりに、手を合わせる。
「ごちそうさまでした」
神様に、祈るみたいに。
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