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七つの幸運ep.刻ノ宮蓮珠「退屈だった彼ら彼女らの、成長の瞬間」③

3.

「あなたは、人を好きになったことはある?」

 捺鍋手愛須。おしなべてあいす。オーセンビル受付嬢。愛して恋する『発情姫』。

 博愛を捨て、恋愛に身を焦がす乙女。

「さあ、どうだろう。興味は絶えないんだけどね」

 蓮珠はシャッターを切りながら、質問の答えを返す。内容がどうにも曖昧で煮え切らないのは、仕事に集中しているから、というよりも、どう真剣に取り合ったところで、相手にとって満足のいく返答など、自分のなかには見いだせないことが、考えるよりも先にわかってしまっているからだった。

──好きとか、嫌いとか、考えたこともないな。瞬間はただそうやって、そこにあるだけなんだから。

 刻ノ宮蓮珠にとって、生きるとは、写真を撮るということ。いまを映すということ。真実を知るということ。それに過ぎない。そうでしかない。

「つまらないわね」

 恋する乙女との会話に時間を費やすのは、壊れた印刷機から刷り出される白紙の紙を眺め続ける行為に等しい。色恋に身をやつし出すと、人は途端にその話しかしなくなる。趣味の話も、政治の話題も、愚痴に陰口、笑い話から武勇伝まで、すべてが彼女の想い人へと集約されていってしまう。プライベートも仕事も、桃色一色に塗り込まれ、まるで花に滴る蜜で酔いしれる蜂のように、思考も行動も、ふわふわと落ち着かなくなってしまう。

 恋は甘えで、愛は病だ。恋愛は迷い。

「好きな人のいない毎日なんて、生きてる意味があるの?」

「その言葉、数ヶ月前のあなたにも聞かせてあげたいよ」

「あの頃のわたしは、好きな人がいるわけじゃなくて、人が好きなだけだったものね」

 博愛主義。差別も偏見もなく、だれかれかまわず人類を平等に愛する姿勢。特別も特例も受け付けない、ひどく排他的な貞操観念。

 捺鍋手愛須が、物心ついてからずっと縋り続けていた、歪んだ思想。

「でも、いまならわかるわ。あれは、きっとほんとうの意味での”好き”なんかじゃなかったんだって。あの人のことを好きになって初めて、そう思えた」

 彼女のその思想をぶっ壊したのは、ひとりの勇猛な喧嘩屋だった。

 硝子張響。がらすばりひびき。カラーギャング『スカイレッド』族長。

「響くんが、わたしの世界を変えてくれた。淡くくすんでいたわたしの景色に、鮮やかな彩を与えてくれた」

 ”戦場の悪魔”と忌み恐れられ、いろんなものを壊してきた男の存在が、いま、ひとりの女性の生きる意味になっている。

 その事実が、いったいどれほどの救いをもたらすか。

「彼はとっても優しい人なの。ただ壊すだけの野蛮な男なんかじゃない、強さのなかに弱さを抱えた、人の気持ちをちゃんと考えてくれる、優しい人」

「響さんとは、どれくらいの頻度で会ってるの?」

「毎日よ。……って言いたいところだけど、実際は、週に一度くらいかしら。彼、いまは抗争の後処理で色々と大変みたいだから」

 恋する乙女の思考回路が壊れた印刷機と同じなのは、なにも話の内容が真っ白になるからというだけではなく、自分に都合の良いように展開される解釈が誤印字を繰り返す機械のそれと酷似するからである。想いを馳せ、高揚した気持ちに包まれている間は、夢のなかでお姫様を演じられる。少女は女性になっても、少女のままなのだ。

「彼と会える日はもちろん最高に幸せだけど、会えないなら会えないで、それはそれで幸せなのよ。もちろん、寂しくはあるけれど……会いたいなあって考えてる自分を認識して、ああ、わたしはあの人のことがやっぱり大好きなんだって思える瞬間が、たまらなくうれしいの。それだけで、辛い仕事も、面倒な用事も、全部どうでもよくなっちゃう」

 博愛主義を振りまいていた頃の捺鍋手愛須にとって、仕事はまったく苦痛ではなかった。毎日たくさんの人間と顔を合わせることのできる受付業務は、全人類を愛する彼女にとって、幸せなことであったはずだから。同じ理由で、面倒な用事なども、あるはずがなかった。

 祝いと呪いは紙一重。救わば堕ちて、生すれば死するのが世の性。

 それでも恋は、そんなことすら、些細なことに変えてしまう。

「……そっか。じゃあ、次が最後の一枚だよ」

「あら、もう終わり? うまく撮れてたら響くんにも見せようと思ってるんだから、ちゃんとかわいく撮ってよね」

「はいはい」

 対象が百八十度変わっただけで、排他的であるところも、思い込みが強いところも変わらない。まるで舞台上に立っているみたいな大仰な仕草も口調も、以前のそれを引き継いでいる。嫌いなものや、面倒なことも増えたことだろう。退屈でなくなった分、生き辛さを感じる場面も多々あるかもしれない。

 それでも、彼女は前より綺麗になった。

「じゃあ、ひとつだけ、僕のほうからも聞いていいかな」

「いいわよ。なに、響くんのこと?」

 恋心は、どんなファンデーションや口紅よりも高級な化粧道具だ。

「うん、そうだね。あなたが愛する──恋する、硝子張響さんのことなんだけど」

 それをうまく使えないカメラマンほど、腕のないことはない。

「響さんの一番好きなものって、なんなのかな?」

 カシャッ。

 照れも恥じらいも、相手を思うからこそすれ。赤面は、立派に血の通ったヒトである証。

 なにかに順位をつけられるようになったことが、捺鍋手愛須の、いちばんの成長だろう。

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