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七つの幸運ep.刻ノ宮蓮珠「退屈だった彼ら彼女らの、成長の瞬間」④

4.

「──そっか。きみもいろいろと、大変なんだね」

 未処方硲。やくいらずはざま。元薬品会社『アクタボン』営業マン。現在再就職活動中。

 健康な身心を脱ぎ捨てて、未来に挑戦する社会人。

「そうでもありませんよ。ほんとうに大変なのは母だし、次に大変なのは父ですから」

 域還市から遠く離れたところにある大病院の待合室で、スーツ姿の男性と学ランを着た高校生が並んで座っている。スーツの男、硲は手に持った缶コーヒーを口に当てながら、視線を左手首に巻いた腕時計に移す。和やかに雑談を交わしながらも頻繁に時間を確認してしまうのは、彼がまだ会社勤めのサラリーマンだった頃の名残だろう。

 本日の未処方硲の用事は、すでに終わっている。

「いや、きみも十分大変だと思うよ。僕なんてこの年でまだ実家暮らししてるくらいだし。まあ、最近会社を辞めちゃってからなんだか居心地悪くて、次の会社が決まったら出ていこうとは思ってるんだけどね」

 実家暮らしにも一人暮らしにも、双方メリットとデメリットはあるが、精神的苦痛が少ないのは明らかに後者の方だろう。摩擦が起きなければ熱は生まれない。いくら血の繋がった家族とは究極には他人、自分以外のだれかと一つ屋根のしたで寝食を共にするなど、本来それだけでストレス過多だ。

 気の病み方を知らなかった以前の彼にとっては、縁もゆかりもない話であったのだろうが。

「……未処方さん。あなたは、以前は薬品会社に勤めてたんですよね」

「うん、そうだよ。営業職だけどね」

「薬品会社といえば」

 皺の寄ったスーツの肩が、ぴくりと震える。

「大変でしたね、『アクタボン』。知ってます? あの会社の専務が極道と協力して、域還市中の若者に薬物を流布していたって話」

 域還市薬物事件。男子高生の口から発せられるこの言は事実とはやや異なる──もちろん彼はそれを理解している──が、大衆の理解は概ね、このようなものだった。

 多くの人間は、他人の真実になど興味はない。

「……ああ、知ってるよ」

「こわいですよね」

「うん。こわいよね、自分たちの住む町で、当たり前みたいに危険薬物が横行していたなんて」

「そうじゃなくて」

 蓮珠はそこで、言葉を区切る。カメラのシャッターを押すみたいに。

「不正をマスコミに告発した人間が──自分の会社をメディアに売った裏切り者が、『アクタボン』の内部にいたってことがさ。とてもこわいことだな、って」

 蓮珠は視線を下に向けたまま、視界の端で硲の姿を捉える。そうして、首から提げた一眼レフに手をかける。

「……そうだね」

 しかし、蓮珠がカメラを向ける前に、硲は

「でも、別にそれでいいんじゃないかな。告発した人も、それでも会社に残った人も、それに──不正取引をしていた人も。自分がそうしたいと思って、そうしたことなんだろうし」

 その会社勤めをしていた頃の彼からは考えられない言葉だった。

 人生は、なるようにしかならない。し、したいようにできるわけではない。

 そうやって、妥協と折り合いで過負荷のない毎日に流されるまま生きていた。

「自分がなにを愛するのかは、自分で決めるしかないんだからね」

 愛に傷は憑き物。怪我も病気も知らない健康体は、愛を──自分の"好き"を知ることで、痛みを知った。

「今日の午前中は、芸能事務所の面接だったんだ」

「芸能人になりたいんですか?」

「まさか。僕みたいな普通な奴に、花形は似合わないよ」

 年齢や経歴を言い訳にしないのは、これまで心も身体も壊すことなく生きてきた彼が故の強さだろう。

 穢れを知らない強さ──弱さにも、脆さにもなり得る特異点。個性。

「僕はね、夢を持った若者が輝くための、お手伝いがしたいと思ってる。ちゃんと才能があって、努力していて、なにかになりたいと願っている人が、なりたいものになれるための、ね」

──スポットが当たるべきところに、スポットを当てたいんだ。

 強くもなく、弱くもなく。愛しもせず、愛されもせず。恵まれても、不幸でもなく。天才でも優等生でも超能力者でもない、普通で平凡で過不足のなかったただのサラリーマンは。

 異質な個性と才能に触れたことで、自分の好きを自覚した。代わりに、これまで当たり前のように受け入れていた常識とか世間体みたいなものを拒んだ。生活は苦しくなるし、実家にも居場所はなくなるし、大した実績の持ち合わせないアラサーの他業種へのジョブチェンジは想像以上に大変で、正直会社員時代のお仕事よりも就職活動の方が大変なくらいだ。

 それでも、いまの未処方硲を見て、以前の彼を知る者は、揃えてこう口にする。

『あいつは会社を辞めてから、なんだか楽しそうだ』

 幸せそうだ、と。

「ふうん……まあ、いくつになっても、夢を見れるのはいいことですよね」

「きみにはないのかい、高校生。役者になりたいとか、警察官になりたいとか、そういう将来の夢」

「さあ、先のことはよくわかりませんね。撮りたかった写真も、撮れたことですし」

「撮りたかった写真?」

「気にしなくてけっこうですよ。つまらないものですから」

 和やかな様子で話しながら、流れる手付きで一眼レフを構える。

「でも、まったくないものなんですか? 前に勤めていた会社に、未練とか」

「うーん、ちょっと寂しい気持ちが完全にないわけじゃ、ないけどね。でも、未練とかはないかな」

「次にやりたいことが、見つかりそうだから?」

「それもあるけど。でもね、僕はそもそも」

 蓮珠が覗くファインダー越しに映る、疲れた様子で、しかしどこか満足気でもある男性。

「薬って、あんまり好きじゃなかったんだ。苦いからね」

 未処方硲就職活動用のスーツは、クタクタに、くたびれてしまっていた。

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