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たまたま

物事が自分事になっていく時には、「好き」が先行して立ち上がっていくようだ。では「好き」はどのようにして生まれるのか。

経験上、時間を効率的に使おうというような余白のない日常に好きは生まれにくいように思う。暇の中での偶然との出会いが必要ではないか。つまりたまたま出会ってたまたま好きになるしかない。

突き詰めれば世の中にはたまたましか存在しない。努力の成果も強い意志なるものも全部たまたまである。これを認めない限り、せっかくの暇の余白を黒塗りしてしまう。因果関係をハッキリさせるような原因志向で日常を埋め尽くそうとすると、一見して非効率な余白を無意識のうちに排除してしまう。

考えてみれば、いま自分事として考えるに至った地域との関係性もたまたまそうなったものであって原因やプロセスの説明をすることはとても難しい。「好きになっちゃったんだもん」としか言いようがない。そのような中動態的なあり方が結果的に無理なく自分事の範囲を広げていくように思う。

おさんぽ哲学で得た気づきでした。


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