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映画俳優の動きの個性とは何か。スターウォーズEP1のライトセーバーでの殺陣のシーンをめぐって。

動画

 ここでの文章の内容の元になった僕の動画です!ユーチューブで見れます!
内容は少し違いますが、映像で観れる分、動画の方が分かりやすいかもしれません。また、文章内での画像のシーンを、この動画の何分何秒のところで視聴できるかを、それぞれの画像の上に書いておきます。
では文章に入ります。

俳優達の動きの個性とは何か。

  私はスターウォーズEP1のライトセーバーでのある殺陣のシーンにおいて、俳優達の身体に現れる個性的な動きを目撃した。映画後半頃の下の画像のシーンでは、彼らが役としてライトセーバーで真剣勝負で斬り合う動きと、その動きを物語の辻褄のために操作しようとする動きが、二重化した動きとなってそれぞれの身体に現れている様に思う。
(動画 3:06〜)

上記画像のシーンにおいて、オビワン(青いライトセーバーの方)は、ダースモール(赤いライトセーバーの方)の背後をとり、ライトセーバーを水平方向に振るのだが、この時同時に上方向(画面若干右斜め上)に少しジャンプもしている。ダースモールはライトセーバーで斬られないように前方(画面左側)へダッシュで駆け抜ける。

2人の身体の動き。水色の線がオビワンで赤色の線がダースモール。

 ところでオビワンはせっかくのチャンスなのになぜ少しジャンプをしたのか。背後をとったダースモールの方に飛び込むようにライトセーバーを振りきれば倒せたかもしれないのに。
ここからは私の解釈だ。もしここでオビワンがダースモールを斬り倒してしまったら、勝負がついてしまう。それでは物語の都合上良くないので、ここで勝負をつけないために、オビワンを演じる俳優はダースモールの方とは違う方向に身体の動きをもっていく微調整を瞬間的に行った。それがあの少しジャンプしながらの一振りの動きだったのではないか。そして、ダースモールにしても、ダースモールを演じる俳優としても、ここで絶対に斬られる訳にはいかないので、全力で前方にダッシュして逃げた。

 このシーンでの彼らの動きの特異性は、お互いの演技の動きの中に「俳優達自身の微かな動き」を急激に感じられる事である。オビワンを演じる俳優の申し訳程度の小ジャンプ、その優しく繊細なコンパクトさ。ダースモールを演じる俳優の肩の関節ごと振り上げておもいっきり走る姿。
この彼らの動きは、劇中のライトセーバーでの決まりきった殺陣の動きと相対的に見る事で特異なものとして浮かび上がってくる。よってこの動きの特異性は、このシーンに到達するまでのライトセーバーの殺陣の鑑賞を経た観客の眼によって可視化されるものだ。
その瞬間、彼らの身体の物理的特徴やこれまでの生活からなる動きの癖や所作が、演技の動きともみ合いながら、歪んだ動きになって身体に現れる。それがオビワンの少しジャンプしながらの一振りとダースモールの全力ダッシュであり、これらは彼らの生きてきた身体そのものの主張である。
それは、演じる事によって炙り出された生の動きそのものであり、この映画のライトセーバーの殺陣のシーン固有の俳優の動きの個性である。

俳優達の動きと画面の関係性。

 冒頭に載せた画像のシーンにおいて、俳優達の動きの個性を目撃したが、それはこの映画の映像を映している画面にどの様に関係しているのだろうか。
冒頭に載せた画像のシーンに入る直前のシーンで、オビワンはダースモールを蹴飛ばして倒して、ダースモールの背後に身体を空中に回転させて回り込んでいる。そしてその後、ダースモールも身体を空中に向けて回転させながら起き上がる。
(動画 3:05〜)

オビワンの空中回転。
ダースモールも回転しながら起き上がる。

上記画像を見ていただくとわかると思うが、この2シーンにかけて、彼らは身体を空中で回転させてお互いの場所を左右入れ替えている。

2人の身体動きの形跡を私が線で示したものである。
水色の線がオビワンで赤色の線がダースモール。
このように2人の身体の位置が左右入れ替わっている。

そしてこれが冒頭の動きの個性が見られたシーンに繋がり、ダースモールはダッシュで、オビワンはジャンプで、お互いの身体は画面の左右外側に向かっていく。

これらのシーンを映像で通しで見ると、彼らの身体の動きはライトセーバーの光の残像によって線の形跡で示される。線の動きはまるで、左右両端にある紐を中央で結んで、再び左右両端へ開く様である。

左右両端にある紐を中央で結んで再び左右両端に開くような線の形跡の動きが見られる。

上記画像を見ていただくと分かると思うのだが、彼らの身体は画面の内側と外側をそれぞれ往復しながら、画面を左右に開閉させていくようである。

俳優達の動きと画面の関係性のその後の展開。

 前述したシーン以降、彼らの身体の動きによる画面の開閉は過激さと頻度を増していくので、その経過を見ていこう。
前述したシーン以降の画面の開閉は、打撃やライトセーバーのぶつかり合いによってお互いの身体の間を閉じる動きと、身体が画面の端に向かう事でお互いの身体の間が開く動きの反復によって行われていく。
例えば、前述したシーンの直後に続くシーンを見てみよう。
2人はライトセーバーをお互いぶつけ合った後、オビワンはダースモールに顔面を蹴られて、その反動で後ろにバク転宙返りをする。
(動画 9:32〜)

2人はライトセーバーをぶつけ合い…
ダースモールはオビワンを蹴って
オビワンはそのまま後方に向かって飛び
くるっと
回転
バク転宙返りする。

上記画像のシーンにおいて、2人の身体の間はライトセーバーのぶつかり合いやダースモールの蹴りで一旦閉じられてから、その後のオビワンのバク転宙返りで回転しながら外へ開く。つまり、画面の開閉が起こっている。
そしてその後に続くシーンにおいて…
(動画 9:36〜)

オビワンはダースモールの足元目掛けてライトセーバーを振るが、
ダースモールはそれを空中に身体を回転させながら避けて、
そのままオビワンを横切りながら通り過ぎる。
そして、ダースモールはそのまま画面右端に向かい
両手を広げたポーズをとる。

この時、観客はこのダースモールのポーズに気を取られがちだが、オビワンの方に注目してもう一度これらのシーンを見てみよう。

ライトセーバーを振った後のオビワンは、なぜかダースモールの方ではなく画面左端に向いている。
この挙動は、まるでオビワンが画面の外を見ているようである。
そして、ふとさりげなくオビワンの身体は画面の外へと向かっていき、
そのまま画面の外側へフェイドアウトして消えた。

 画面の外側がこの映像を映しているデバイスやスクリーンのある現実空間だとしたら、オビワンの身体は画面内の映像空間から画面外の現実空間に向かっていった事になる。そして、その後のダースモールの両手を開くポーズも、身体が画面外へと展開していく事を示唆している様にも見える。こうして画面の開閉は、画面外の現実空間までも巻き込んで行われていくのである。
そして次のシーンにはオビワンは画面中央にいて、ダースモールは身体を水平に回転させながらオビワンへ向かって、お互いにライトセーバーをぶつけ合い、画面は再び急激に閉じられる。

 ここまでのシーンにおいての一連の彼らの身体の動きを、画面の内と外を媒介するものとして考えてみる事にしよう。
彼らの身体が画面外へと見切れては、次のシーンでは再び画面内の中央でぶつかり合う。その反復。それはまるで、2人の身体が画面内の映像空間から画面外の現実空間にそれぞれの方向へ出て行って、そこにある空気を画面内の映像空間の中にそれぞれ持ってきては絡ませて、それを再び画面外の現実空間に向かって散布していく様である。

 そして、こういった諸々の出来事を起こす原動力になっているのが、彼らがあらゆるバリエーションで頻繁に見せる身体の回転の動きなのではないだろうか。
彼らの身体が回転する時、画面はズームアップする。ズームアップは画面の内側に向けて視点が狭まる動きの操作だ。対して彼らの身体の回転は、遠心力があり、それは外へと広がる動きである。
内と外、この2つの方向の動きが同時的に交通する事で、身体は回転しながらこちらに迫ってくる様である。そして、画角においても、それまで引きで見れていた身体が、回転すると画面外に少し見切れるのだ。
(動画 9:36〜)

身体が回転すると…
急に画面がズームアップ!身体が画面から見切れる。

 私がこれまで述べてきたシーンは、ライトセーバーの殺陣において終盤での出来事で、前半に比べて大変狭い場所で斬り合っているのが特徴的だ。しかし、斬り合う場所が狭くなればなるほど、身体の回転の頻度は増していく。そして、身体の回転による外への動きの広がりは、狭い場所の切迫感によってダイナミックに引き立つ。回転のダイナミズム!
この様な画面と身体の動きの相互作用から、私は双方においてのある関係性を見出す。

 回転して外へと向かう身体を、画面はズームアップで内へと捕まえようとする。そこで身体は、回転によって画面外の現実空間へとフェイドアウトして逃亡している。

 だとしたら、身体は何から逃亡しているのか。そもそもズームアップなどに見られる画面の操作は誰によって行われている事なのか。それは、誰か個人というよりかは、この映画の制作陣という集団的な作者の主体によるものである。もちろん、俳優達もその主体の一部である。もっと厳密に言うと、俳優達の身体は作者の主体によって演技の操作を施されている。しかし、俳優達の身体の「動き」は、画面を開閉して画面外の現実空間と画面内の映像空間を横断する事で、画面の操作から身体を逃がそうする。そして身体は画面外へとフェイドアウトして実際に画面から消えて、作者主体の操作からも逃れられたと思えた。しかし、すぐ次のシーンでは身体は画面内に戻っているのだ。結局、この映画内の身体は自身の動きを持ってしても作者の主体の操作からは逃れられないのだろうか。

 ここで私が冒頭に述べた俳優の動きの個性の事を思い出してみよう。彼らの動きの個性は、各々の身体が宿すこれまでの生活の所作が、演技の動きと揉み合う形で現れたものだった。そして、それは特定のライトセーバーの殺陣のシーンの鑑賞を経た観客の眼によって可視化される、この映画内固有に在るものであった。つまり、この彼らの身体の動きの個性は、彼らの身体だけによるものでも、ライトセーバーの殺陣の演技だけによるものでもない。それは、ライトセーバーの殺陣の演技と彼らの身体が内在するこれまでの生の歴史が「映画鑑賞」によって時空を超えて共同して作られた動きの認識なのだ。

 では、私がこれまで述べてきた身体の動きと画面の相互作用からなる諸々の出来事も、作者の主体の画面の操作とそれから逃れようとする俳優達の身体の共同による動きとして考えられないだろうか。それを裏付けるのは、前述した身体の回転のダイナミズムである。それは、作者の主体の画面の操作であるズームアップと身体の回転の遠心力による内と外の動きの共同によって引き起こされたものであった。
私がこれまで記述してきた、身体の動きによる画面の開閉や、画面内の映像空間と画面外の現実空間の空気の絡み合わせとそれの分布や、それらを引き起こす原動力としての身体の回転は、作者の主体の操作と俳優の身体の動きの共同による出来事である。これらの出来事は、上映中絶え間なく続く連続的な動きの流れとして、観客である私に認識される。それらは俳優の身体から引き起こされたものであったとしても、俳優の身体からは自立した動きである。その動きそれ自体。それこそが、映画という虚構の画面に目撃する生の実感としての身体である。

追記

 私は現在の制作において、絵画の演劇的振る舞いを用いて、絵画の画面内と画面外の場で起こる事を相互的に影響させていく術を考えている。そのため、ここで述べた俳優達の身体の動きと画面の相互的な作用には非常に参考になる発見がある。
こういった身体の動きと画面の相互的な作用(画面の開閉や、画面内と画面外の絡み合わせとそれの分布、それらの原動力としての身体の回転)を手がかりにした既存の絵画の分析の記述も行っていきたい。
そして、私が現在絵画の演劇的振る舞いを制作の一つのテーマとして用いている理由についても、おいおいここにまとめていくつもりだ。
その事は、これまでの私の活動と日本の鑑賞者との関係性からなるものとなる。

 最後に、このように一度この記述を締めたのだが、この記述の最中にも、また新たな問いが複数浮かんできたのだが、現在それら全てを掘り下げる余裕がないので、それはまたの機会にまわすことにした。
なので、思いついた事をここにメモしておく。

 俳優達の身体が画面の外側へと出ていく時、彼らの身体の向かう先を「現実の空間」と一区切りにしてしまって良いのか。また、彼らの身体の動きはシーンの繋ぎ繋ぎに、つぎはぎに映像内に埋め込まれたものである。そう考えると、映像内に埋め込まれなかった身体の動き、および身体の所在はどこにあるのか。例えばその事を、演技する事から逃亡する身体というテーマで既存の絵画の分析と組み合わせて考えていきたい。

 ここでは記述しきれなかった、2人の決着のシーンを分析したい。オビワンはダースモールに蹴られて、背後にある巨大な吹き抜けの穴の中へ落ちていき、かろうじで穴の内側にある手すりに捕まりぶら下がる。ここで画面の空間がまるっきり変わる。それまでは、2人の対面を横から見る平面的な空間だったが、オビワンの背後に見える穴の底によって、広大な奥行きによる空間が現れる。そして最後、オビワンがこの広大な奥行きの穴の中から外へと向かって身体を回転させながら舞い戻り決着に至るのだが、このシーンでの身体の動きと画面の相互的な作用をここでの全体の記述と照らし合わせて考えていきたい。

村井祐希 2023年4月頃 

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