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『クリスマスと蜘蛛』

 クリスマスの日に、しばらく会っていなかった友人から電話が来た。彼は人を殺したと言った。最初は冗談かと思ったけど、彼の緊張した声から、これがただの悪ふざけでないことがわかった。彼はすぐに僕の家に来ると言った。
 彼の電話を受けた時、僕はリビングの机で書き物をしていた。仕事の都合で何枚か書き込まなくてはならない書類があったのだ。しかし友人の電話を受けてからは、もちろんそんなものの続きを書く気などなくなった。僕は椅子に座ったまま、不安な心持ちで天井を見続けた。
 友人は十分ほどしてやって来た。彼は青ざめた顔をしていた。頬がこけ、目の周りがおちくぼんでいた。肌には潤いが欠け、瞳には生気がない。前会った時とは別人のようだった。僕は彼を座らせ、温かいコーヒーを振る舞った。
 友人は僕の顔を見ずに、テーブルの真ん中あたりを見つめたまま、黙っていた。コーヒーにも口を付けなかった。僕は彼が話し出すのを辛抱強く待った。
「先週女を殺した」彼は唐突に言った。しゃがれた声だった。「仕事先で知り合った女だった。美人だったし、頭もよさそうだった。仕事が終わってから、個人的に会うようになった。しばらくそんな関係が一週間続いた後で、ちゃんと付き合うようになった」
 友人はそこで神経質そうに、自分の右頬を指で掻いた。そして手をさっきと同じ膝の上に戻し、また話を再会させた。
「性格はとてもよかったし、話していて楽しかった。自分の生い立ちとか、両親のことを嬉しそうに語っていたのを覚えている。あまり裕福な家庭じゃなかったらしいけど、一生懸命勉強して有名大学に入り、心理学を専攻した。それから現在働いている旅行代理店に入社し、持ち前の集中力で遮二無二(しゃにむに)働いた。同僚や社長にも認められ、顧客(こきゃく)からの評判も良かったし、給料も良くなった。週末には街に出かけて服を買い、友人と食事をする」
 僕は彼の向かいに座り、テーブルの上で手を組み合わせながら、彼の告白に耳を傾けていた。彼は時々小刻みに首を振った。それは否定の意味ではなく、昔からの癖だった。
「彼女とは趣味も合った。音楽とか好きなサッカーチームとか。休みの日にサッカーの試合を見に行くこともあった。何度もキスもしたし、二度ばかり寝た。恋人という観点からすれば、彼女は文句のつけようがなかった」
「でも殺したんだね?」と僕は言った。しかしその声は僕の声でないように聞こえた。他人の声帯を使ったような違和感を感じた。
 友人は深くうなずき、僕の顔を見た。「殺した。それは間違いない」
「理由を尋ねても構わないかな?」
 友人は何も言わなかった。考えているのでもなく、迷っているのでもなく、ただ思考を停止させていた。
 僕は腕を組んで、言葉を選びながら言った。
「君の話を聞く限り、その彼女は人間的に素晴らしい人物で、人当たりもよく、誰からも好かれそうに思える。これは安直な考えかもしれないけど、君が彼女のことを語っているときは、その言葉がだいぶ好意的であるようにも聞こえた。そこに怒りや偏屈な偏りはなかったように思える。つまり君はまだその女性に良い印象を抱いているということだ。そうだね?」
 友人はそこで初めてコーヒーカップを手にし、自らを落ち着けるように飲んだ。まるでテリー・レノックスの言葉を聞いているフィリップ・マーロウのような具合だった。
「女と付き合いだして二カ月たったころ、俺は彼女のアパートを訪ねた」彼は語り出した。「部屋は整然としていたが、女性的な生活感があった。机には中国の旅行雑誌や中国語の参考書が何冊か置かれていた。
 彼女は言った。『今中国語を勉強しているの。いつか一人で中国に行きたい』。
『どうして?』と俺は聞いた。
『わからない。でもどうしても気になるの』」
 彼は唾を飲み込んだ。
「俺たちはビールを飲んでテレビを観ながら、他愛のない話をした。内容はよく覚えていない。それから自然な成り行きで、俺はこんなことを聞いてみた。『どうして俺と付き合ってくれたんだ?』って。彼女は不思議そうな顔をした。その疑問は俺が前から気になっていたことだった。彼女は美人で頭もよく、たくさんの人間に好かれている。家族の話を聞く限り、親に愛されて育ってきたようだ。それに対し、俺は平凡で取り得のない男で、別段付き合うに値するような人間でもなかった。俺の問いに、彼女は笑って言った。『聞きたい?』」


「あなたは蜘蛛の夢を見たことがある?」と彼女は言った。
「夢?」と友人は聞き返した。それから少し考えた。「いや……たぶん見たことないと思うけど」
「私ね、昔蜘蛛の夢を見たことがあるのよ」
 綺麗な女はリモコンに手を伸ばし、テレビのヴォリュームをいくらか下げた。画面にはさっきからお笑い番組が映されていたが、とくに面白い内容でもなかった。
「蜘蛛の夢はね」彼女は話を続けた。「私が小学校四年生くらいに見た夢なの。嫌にはっきり覚えてるのよ。なぜかって言うと、その夢を見たのがクリスマスの日だったから。だってそうでしょう?子供がクリスマスの日を楽しみにしていて、わくわくしながらベッドに入ったら、そんな怖い夢を見るんだもの」
「ということは、その蜘蛛の夢は、小学生の君にとって怖い夢だったんだね?」
 テレビに顔を向けた女は、小さな声で「そうね」と言った。友人は彼女の顔を見ていたが、彼女は目を合わせようとはしなかった。
「とても怖い夢だった。私は古い屋敷か何かにいて、明かりは壁にかかったロウソクだけで、ほとんど何も見えなかった。私はすごく怯えていて、でも前に進まなくちゃいけないってことは分かるの。そうじゃないと駄目だってことがね。だから私は進んだ。屋敷の奥へゆっくりと歩いた。しばらくするとね、両開きの扉があって、そこを開けると、広いダンスホールみたいな場所があるの。そこには床から天井まで、びっしりと蜘蛛の巣が張っていた。普通のじゃないのよ? 糸自体が凄く太くて頑丈なの。そしてよく見ると、その巣の中で人間が捕えられていたのよ。体に糸をぐるぐる巻きつけられてね。顔だけが出てた。それは私のお母さんとお父さんだった。祖父母もいたし、友達もいた。私は悲鳴を上げて、そこに向かって走ろうとするんだけど、お母さんが来ないで、って苦しそうな声で言うの。私はそこで止まる。どうすればいいかわからない。みんなは逃げろって言っているけど、怖くて足が動かない。ダンスホールの隅から蜘蛛の這う音が聞こえる。巨大な人食い蜘蛛はすぐそこまで来ているの」
 そこで彼女は言葉を切って時間を置いた。友人にその場の状況を思い描かせるように。
「それは怖い夢だね」彼は笑いながら、半ば顔をひきつらせて言った。「で、結局どうなっちゃうの?」
 女はビール缶を手に持ち、飲み口の穴をぼんやりと見下ろした。
「私は怖くて大声で泣き出した。絶望的な気持ちだった。でもその時、誰かが私を後ろから抱き上げてくれた。たぶん男の人だったと思う。顔は見えなかったけど、抱き上げられた時の高さから、身長の高い人だって分かった。何となく知り合いじゃないって感じがした。その人は私を胸に抱いたまま走り出して、ダンスホールを抜けて、廊下を戻っていった。私はその人の胸に顔をつけて、わんわん泣いた」
 そこでようやく、話の終りを意味するように、女は友人の顔を見た。彼は少しほっとした。
「それでおしまい。目から覚めると、私は涙と汗でぐしょぐしょ。すぐに母親のベッドに行った」
「なるほど」と友人は言って、咳払いをした。「ところで、僕は君に、どうして付き合ったのかを聞いたはずだけど」
「その男の人がね、今のあなたに似ているような気がしたの」
 友人は面くらった。女は無表情だった。
「おいおい、そりゃありえないだろう。だってその時の君と俺は一度も会ったことないんだから。それに君はその男の顔を見ていないんだろう?」
 女はうなずいた。「そうね。でもなんとなく、雰囲気が似ていたの。走っている時の息遣いとか、体のにおいとか、そういうの」
「へえ」
「私もあなたと会うまでは、正直その夢のことはすっかり忘れてた。でも初めて顔を見た時、私はびっくりしてうまく言葉が出なかった。覚えている?」
 友人は首を振った。「他にもクライアントがいたからね。君の顔までは見てなかったよ」
「まあとにかく、私はあなたに会ったのをきっかけに、その夢のことを思い出した。どうして今まで忘れていたんだろう? 当時は何日も忘れられなくて、しばらく母親と一緒に寝たくらいなのに。 それで私はあなたに興味を持った。あなたと付き合うことで、その夢の本質に少しでも近づけるかな、と思ったの」
「そう言えば、君は心理学を専攻していたっけ?」「ええ。臨床心理学。夢を解析して精神状態を知る」
「それでどんな結果が出た?」
 彼女は口をへの字に曲げた。「さあ? 実を言うと、途中でどうでもよくなったの。どうせ子供の見る夢なんだから、そんなに意味はない、ってね」「ダメだね。そんなことじゃジークムント・フロイトみたいにはなれないよ」
「いいの。私あの人みたいに天才じゃないから。ヒゲも生えないし」
 二人は笑った。
「でも」友人は言った。「俺が君を救ったっていうのは、不思議なもんだね。根拠はないけど、もしかしたら君はいつか俺に助けられる運命なのかも」 その時、女の表情に少し影が差した。それは唐突に現れた。顔の角度が変わったのはほんのわずかだったが、そこに出来た薄い闇は、友人から言葉を失わせた。
「どうかしら」女はぽつりと言った。「私はあそこで助けられるべきだったのかしら。ひょっとしたら、本当は私はあの蜘蛛に捕まって、他のみんなと一緒に食べられる運命だったのかも。時々そう思うのよね。私どうしても確証が持てない。今までずっとそうだった。私は生きてきて、自分の体に何かがねっとりまとわりつくように感じることがあった。何か大きなものに捕えられているように思えた。もちろん夢のことは忘れていたけど、その感じは急にやって来て、私をすごく不安にさせるの。今でもそう。私は何かに捕まっている。あのクリスマスの日からずっと。目をつむると、蜘蛛の這う音が聞こえるの。がさごそがさごそ、って」


「その晩、俺は女を殺した」
 友人は目の前で、静かにそう言った。
「首を絞めて殺した。大きな音はしなかったから、隣の部屋には聞こえていないはずだ。それから彼女の部屋にあった大きなキャリーバッグに死体を入れて、車で近くの山に行って埋めた。翌日から新聞を注意深く読んだが、若い女が失踪したという記事は見当たらなかった。彼女の職場に電話をかけると、ここ数日無断欠勤していると同僚の人間が言った。理由を聞いても、相手はよくわからないと答えた」
 僕は腕を組んで、目を閉じていた。なぜか強い無力感を感じ始めた。それは僕の内側からじわじわと広がっていった。
「俺は自首するつもりだ」と友人は疲れた声で言った。「彼女を殺してから、俺はいつも怯えていた。何かに触れると、彼女の首の感触を思い出して手を離してしまう。俺も蜘蛛の夢を見る。俺は蜘蛛から逃げている。巨大な蜘蛛だ。もう少しで掴まる。糸が飛んできて、足に絡まり、転ぶ。悲鳴を上げる」
「わからない」と僕は言った。
「俺だってわからない」友人はすかさず言った。「彼女を殺した本当の理由が、今でもわからないんだ。俺はあいつを殺したいと思って首を絞めたわけじゃないんだ。俺は彼女の話を最後まで聞いて、何か強い違和感を感じた。俺は女の一面を知った――いや、突き付けられたような気がした。そこには大きな歪みがあるように見えたんだ。彼女は素晴らしい人間だった。でもその素晴らしさの裏側には、俺たちが知らないような邪悪で黒いものがうごめいているように思えた。この女を殺さなくては、って思った。そうしなければ、まずいことになる」 
 そうしなければ、まずいことになる。
 痩せた男は、空気を入れ替えるように大きく息を吸い、大きく息を吐いた。部屋の中は寒々しく、人間の気配が妙に欠けていた。ここだけ世界から隔離されているようだった。
「これから山に行って、死体を掘り起こす」と彼は言った。「お前にも手伝ってほしい。俺はもはやハンドルも握れない。そして怖くて、一人ではいられない。俺が怖がっているのは、自分自身なんだ」


 僕と友人は山に向かった。運転は僕がした。後部席の足元にはシャベルが二つ置いてある。移動中我々は一言も口を利かなかった。午後三時の寒空には、暗く厚い雲が立ち込めていた。それは空全体を覆い、これから落ちて来るであろう雪の召喚に備えていた。
 山に到着した。我々は軍手をして、白い息を吐きながら、無言で土を掘った。冬の山は静かで神聖だった。だいぶ奥まで来ているから人が来る心配はない。熊もほらあなの中で身を丸めて眠っていることだろう。
 それから三十分近く続けて穴を掘ったが、キャリーバッグは見つからなかった。場所を変えたりもしたが、シャベルの先に固いものが当たることはなかった。
「そんな馬鹿な」友人は呆然と言った。「ここに埋めたはずなんだ。この木の下に。間違いなく」
「誰かが掘り起こしたんだろうか?」
「いや、そんな形跡はない。それにあてずっぽうで分かるような場所じゃないし、誰かが見ていた可能性もない。あのときの俺は注意深かったから」
 その後も真剣に付近を捜索したが、キャリーバッグは一向に見つからなかった。空気がさっきより冷たくなってきた。日が沈み、闇がやってくる。十二月の夜は早い。
 僕と友人は土の上に座り込んで、木にもたれかかった。どちらとも言うべき言葉をなくしていた。次に行うはずの行動が喪失していた。二人はただ沈黙と気だるさの中に身を沈めていた。
「君は誰も殺していない」と僕は友人に言い聞かせるように言った。
「いや、俺は女を殺した」彼は首を振って言った。そして軍手をした自分の両手を見つめた。「この感触は嘘じゃない。絶対だ。俺はあの部屋で蜘蛛の話を聞いて彼女を殺した」
「でも死体がないとすれば、君はいったい誰を殺したんだ?」
 友人は黙り込んだ。僕も黙り込んだ。
 気が付くと空から雪が降っていた。それは山の中にひっそりと落下し、土の中に消えていった。世界はクリスマスの本格的な登場を喜んでいた。しかしどこかで――少女が蜘蛛の夢を見ているはずなのだ。そして泣いている。大声で。絶望的な状況で。誰かが抱き上げてくれるのを待っている。「俺は確かに人を殺した」隣で男は断言した。「確かに殺した。そうしなければまずいことになっていたんだ。だから俺は首を絞めた。でもそれが誰だかわからない。誰だか思い出せない。それがすごく怖い。……蜘蛛は俺か?」
 僕は女の行きたがっていた中国のことを思う。中国の場所と、人と、物を思い浮かべてみる。雪がちらついている。それは地面にしみ込み、水となって、地下にいる何かの乾きを潤す。そしてそいつは人の肉を貪る。蜘蛛は――誰だ?
 どこかでがさごそがさごそ、という音が聞こえた。それはすごく近くからだった。僕と友人は同時に振り向いた。



        終

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