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『クジラ姫と悪質電波』


本作品は、短編小説集『クジラ姫と悪質電波』の中の一作品となります。

クジラ姫と悪質電波
 -追憶の浜辺 
 -ローランの遺体
 -クジラ姫と悪質電波


1 なぜ堕ちていく、友人たちよ

 最近はよく空クジラが座礁するという。
 悲しい話だ。俺は空クジラが好きなのだ。あの透明感には心が奪われる。あんな不思議な生き物はそうそういない。ところが、ここのところ、彼らが浜辺に打ち上げられているという。
 その日は土曜だったが、仕事の都合で会社に行っていた。午前中だけで用事が終わったので、近くのファミリーレストランで食事をとった。そしてそのまま家に帰ろうと車を走らせていたのだ。
 すると、浜辺に人だかりができているのが道路から見えた。もしやと思い、駐車場に車を止めた。革靴のまま砂浜を歩くのはあまりよろしくないのだが、構わず浜辺に下りて行った。人だかりの方へ近づいていく。見物人は何かを取り囲んで集まっているようだが、それがはっきり見えない。
「ねえねえ、どうしたの?」
 歳が近そうな男に話しかけてみた。無論、初対面である。彼は振り返って、
「え? ああ、またクジラが座礁したみたいだよ」と言った。
「クジラが? 普通の?」
「いや、空クジラだよ。ほら、あれ」
 男は人ごみの向こうを指差した。
「……まじで?」
俺はそう言って、少し背伸びをしてみた。見えた。透明で、大きくて、澄んだ水の塊みたいなもの。
 空クジラだ。
ごくりと息を飲み込んだ。間違いない。あれは、正真正銘の空クジラだ。
 見物人たちはひそひそとお互いに話をしながら、遠目からそれを眺めていた。彼らの表情には、不安とも取れるような、複雑な色が浮かんでいた。そうだ。ここには、本来なら打ちあがってはいけないものが打ちあがっているのだ。
 空クジラ。それは、空を飛ぶクジラだ。誰もその生態を知らないし、間近で見たという話もない。この街でしか目撃されていないので、ヨソの土地では飛んでいないのだろう。
 あるいは、あなたは疑問に思うかもしれない。クジラが空を飛ぶものか、と。確かに、海の中で生きる哺乳類としてのクジラは、空を飛んだりはしない。ただ水中を泳ぐだけだ。しかし、空クジラは、クジラのように見えて、クジラではない。それは全く別の生き物なのだ。いや、異世界から来た生物と言ってもいいかもしれない。
 その外見はクジラに似ている。のっぺりとした胴体、穏やかそうな顔、そして大きなひれ。だが、決定的な違いがある。それは透明さだ。彼らの皮膚は半透明で、その先が透けて見える。そして、体内は澄んだ水で満たされているのだ。体の中には、うっすらと内臓や骨を見て取ることができる。
 そして、彼らは空を飛ぶ。どういう原理で空中を泳いでいるのかは専門家でもわからないそうだ。鳥のように大きな翼で羽ばたいているわけでもない。まるで空が海であるかのように、彼らは遥か上空を、尾ひれを動かしながら、泳ぐように飛んでいるのだ。
 空クジラが上空を飛んでいるところを実際に見かけると、なかなか心を奪われる。幻想的で、綺麗な光景だ。この街の住人であれば、それが空を泳いでいる光景を、一度は見たことがあるはずだ。その記憶はずっと心に残り続ける。
 ところが、その空クジラが、今や浜辺に打ち上げられて、無残にも息絶えているのだ。こんな例は今までなかった。つい最近から始まった異変だ。すでに何匹かその死体が目撃されている。現実はもっと多いのかもしれない。すべての死がいが発見されているわけではないだろうから。そして、街の住人たちは、この奇妙な事態に、心をざわつかせている。俺も同じだ。
「……」
 腕を組んで、まじまじと空クジラを見つめた。やはり、死んでいるようだ。わずかに口を開け、生気を失った瞳が虚空を見ていた。体の大きさは、全長が3mほどで、それほど大きな個体ではない。もっと大きなやつが空に浮かんでいることもあるそうだ。我々のような街の住民は、歩いているとき、あるいは車を運転しているとき、自転車に乗っているとき、たまたま空を見上げて、彼らを見つけることがある。遥か上空を泳ぐように飛ぶ空クジラを目にするのだ。だが、そんな彼らの死体が、こうやって地上に打ち寄せられるなんて、前代未聞だ。俺も実際にこの目で見るまで、なかなか信じられなかった。しかし、ここ最近、それが相次いでいる。
 聴衆たちが、わずかにざわついた。
 死体の分解が始まったのだ。
 空クジラは、死ぬとその体が細かいちりとなって、空中に消えていくのだ。ほのかに光る体の粒子はまるでホタルみたいだ。光るちりは風に揺れて、どこかに運ばれていき、いずれ光は失われて無に帰した。徐々に死体がなくなっていく。最初は尾ひれから分解されていき、次には胴体、顔、そして目、という順番だ。
 気が付くと、我々が見下ろしていた死体は、完全に消え失せてしまっていた。まるで最初からそこには何もなかったようにさえ思えた。ほんの短い時間で、それは完全に消え失せてしまった。残っているのは、クジラが引きずられときにできた、砂の跡だけだ。
 むなしい気分だった。
見物人たちはぶつぶつと言いながら帰っていった。でも、俺はその場に立ち尽くし、死体が置かれていたところを眺めていた。まさか、空クジラが座礁するとは。あんな無残な姿で、浜辺に打ち寄せられてしまうとは。
 既にほとんどの見物人たちは帰っていた。いたのは自分を含めて三人の男だけ。彼らも俺と同じように、ぼう然と死がいの跡を見つめている。二人も空クジラに思い入れがあるのだろう。彼らを後にして、道路へと続く階段へ歩いて行った。

 空クジラはこの街の名物だ。他の土地で見つかったという話は聞かない。街の人間は、海の潮風を浴びながら、一度か二度はそれを目にして育つ。よそで育った人間にしてみればうらやましいことらしい。
 彼らの生態はほとんど明らかになっていない。空を飛ぶ生き物だし、その数も少ないので、研究するにはやりにくい生き物なのだ。おまけに連中は死んだらすぐにちりになってしまうので、死体を調べることもできやしない。生物学の世界ではまさに謎の生き物なのだ。
 そして実際のところ、実物を目にすることは滅多にない。半透明なので、空を飛んでいても非常に見えにくい。おまけにそもそも個体数が少ないので滅多にお目にかかれないというわけだ。かろうじてその姿を確認できるのは、朝日が昇り始めたころ、あるいは夕日の赤い光が差し込んだ瞬間だけだ。
 俺も一度だけ実物を見たことがある。本当に、たったの一度だけだ。あれは高校生のころだ。その年になるまで空クジラを見たことがない、というのは周りでも珍しい方だった。小学生のころはクラスの連中にバカにされたものだ。よほど運が悪いらしい。
 その日は部活のせいで帰りが遅くなったので、夜の海辺近くに一人、自転車をこいでいた。道の左側には浜があって、その先に波が打ち寄せている。いつもの下校コースだ。のんびりと馴染みの道を走行していた。
「ん?」
 ふと夜空を見上げると、何かが飛んでいるではないか。上を見たのは偶然だ。あれはなんだろう。雲でもないし、鳥でもない。飛行機でもない。それは大きく、長く、丸みを帯びた形をしている。
「マジかよ」
 思わず声に出した。初めて見たのだ。かつて小学生のころ、自分だけが空クジラを見たことがなかった。それがとても悔しかった。周りの友だちにもずいぶんとバカにされたものだ。しかし、高校生になって目にするとは。
 どうやら月明りのおかげでかろうじて見えているらしい。淡い光のおかげでその輪郭がうっすらと確認できるのだ。
「すげー」
 口を開けて、なかば放心状態で見上げた。なぜか、ペダルをこいだままで。当然、前を見ていないから、自転車が道路から外れてしまったのだ。タイヤが砂地にずぼっと入り込む。ご存知の通り自転車と砂は相性が悪い。摩擦のため車輪がうまく回らず、おまけに俺自身油断していたので、体がつんのめってしまったのだ。
「うおおっ!」
 自転車ごと地面に倒れてしまった。盛大な転び方だったので、顔から下に突っ込んでしまう。口の中に砂が入ってじゃりじゃりする。
「ぺっぺっ!」
 唾を吐きながら悪態をついた。ケガはないが、シャツの中にまで砂が入っていた。なんてこった。
 空クジラは? 上を見上げるが、どこかに行ってしまったようだ。
「あーあ、もったいな」
 そう言ってため息をついた。チャリでコケたあげく、制服は汚れ、しかも空クジラを見逃してしまうなんて。俺ってば、なんてツイてないんだろう。いつもこうなんだから。やれやれ。
 これが初めて空クジラを目にしたときの記憶だ。その後は、ツイていない自分にほとほと呆れてしまい、肩を落として家に帰ったのだろう。
それ以来、この歳になるまで、彼らを見ていない。久しぶりに見たのはそれが死体となって浜辺に打ち上げられていたときだ。つまり俺の記憶の中に、彼らのまともな姿は残っていないというわけなのだ。

2 クジラ姫が現れた

 自分自身のことを話そうと思う。
 確かにこの話は空クジラが中心の物語なのだが、ある程度は俺のことも語っておかねばならないだろう。なぜなら、これは彼らと、それに関わる俺、そしてクジラ姫の話なのだから。
 俺はこの街に生まれ、この街で育った。十年ばかり県外で生活したこともあるが、やはり生まれ故郷には愛着がある。再び地元に戻り、とある中小企業に就職したというわけだ。会社は医療器具を扱う卸業者で、自社の開発は滅多に行っていない。俺は営業としてあっちに行ったりこっちに行ったりしているのだ。稼ぎはたいしたことはないが、仕事は安定しているし、街での暮らしには安らぎがあって、この傷ついた心を癒してくれた。社長は俺の経歴を踏まえた上で雇ってくれた。小さな会社だが、居心地は良い。不満はなかった。
 今はもう若くはないが、かと言って歳を取り過ぎているというわけではない。適度に働き、適度に楽しんでいる。実家に住んでいて、家には母親と妹がいる。妹は今年で24歳になり、やはり地元の企業に勤めている(地方新聞の会社だ)。母親は犬の散歩をしたり、スーパーのパートに行ったり、親父の墓参りをしたりしている。家族関係は良好だし、俺が戻ってからというもの、親子の間に再び絆が生じたような気もする。妹と母親は俺が帰ってきてほっとしたようだ。
 仕事の面でも問題はなかった。営業が得意だし、既存の顧客を回る業務がほとんどだったので、蒸し暑い夏を除けばまあ楽な仕事だった。社長からは「今度海外に行ってもらう」と、励ましなのか脅しなのかわからない言葉をかけられてはいる。
 しかし、仕事をしていても、心をときどき支配するのは、途方もない虚無感だった。まるで心の中にあるものがごっそり落ちてしまったような感覚だ。これを読んでいるあなたはそれを味わったことがあるだろうか。まるで胸がドーナツになってしまったような……いや、この言い方は正しくない。なぜなら、ドーナツには最初から穴がついているのであって、途中からできたわけではないからだ。
 重い話になって恐縮だ。
 だが、話はもっと重くなる。空クジラが座礁しているのだ。やつらは声もなく死んでいった。自らの死の原因を訴えることすらできなかった。そう思うと、胸に切ない思いが生まれた。良からぬことが起きているはずなのだ。だって、そうじゃないと説明がつかないじゃないか。彼らはあんな風に朽ちていくべき生き物ではないのだから。
 でも……俺に何ができるというのだ? ただのしがないサラリーマンに、原因不明の座礁事件を解決することなんて、到底できやしない。歯がゆい思いを胸に毎日を生きていかなくてはならない。
 ある日のことだった。俺はマツダアテンザを運転して、会社から家を目指していた。仕事が立て込んだので、時間はもう七時を回っている。早く帰ってシャワーを浴びたい。今日も暑い一日だった。昼前に外回りをしたので、その分汗をかいてしまったのだ。
 普段、会社帰りには海岸沿いの道路を通る。いつもの通勤ルートだ。朝と夜に海を眺めつつ、会社に通うのだ。その日もいつもの道路を走行していた。そして、車を運転しながら、頭では空クジラのことを考えていた。どうも連中が座礁しているという事実にしっくりこなかった。第一、この街で育ってきた俺は、彼らが浜に打ち上げられるなんて話は聞いたことはない。だって、そもそも彼らは空を飛んで暮らしているのだ。そんな生き物がどうして浜辺に打ち寄せられるのだ。どうして今、彼らの座礁が相次いでいるのだ。見当もつかない。
「空クジラよ」、誰にともなくつぶやいた。「なぜお前は死んでいく」
 車を運転しながら、夜の海に目をやった。海は穏やかに波打っていた。街灯の光が浜辺に届き、黒々とした水の動きが見えた。いつもの光景だ。
「ん?」
 いや、いつもの光景に見覚えのないものが映り込んでいるではないか。大きなものが砂浜に横たわっている。だが、その正体がわからない。夜の暗がりと同化していて、なんとなくシルエットが見えるだけだ。長く、のっぺりとした形をしているようだが。
 ちょっと待て、あのシルエット、見覚えがある。はっとした。
「まさか」
 そう呟くや否や、車を近くの空き地に停めた。車から降りて、小走りに浜辺に向かった。階段を下り、浜辺を歩く。もはや靴の中に砂が入ることなど頭になかった。それを自分の目で確かめたい一心だったのだ。
 道路から見た、謎の物体の前に来た。
「……まじか……」
それは空クジラだった。
 目を疑った。だが、まぎれもない、本物の空クジラが地面の上に体を横たわらせているのだ。半透明の体、水の塊のような外見。それは夜の浜辺では、黒々とした楕円形のオブジェのように見えた。これは……座礁しているのか? 最近、相次いで目撃されている空クジラの死体なのか? いや、違う。こいつは生きている。呼吸をしているようで、体がわずかに動いているし、その瞳にはまだはっきりとした生気が宿っていたし、死んでいるときの生臭さがない。
 俺は生きた空クジラと対面しているのだ。そんな人間が今までにいただろうか? ここまで人が近づけたという例を俺は知らない。もちろん、浜辺に打ち上げられ死体を別にすれば、の話だ。そもそも、こいつはここで何をやっているのだ? 彼らは夜な夜な地上に降り立ってこういう風に休憩するのか? そんな話も聞いたことがない。
 自分が相対しているのは、ビッグサイズと表しても過言ではない大きさだった。こないだ浜辺に打ち上げられたのはせいぜい3メールほどだが、こいつは全長15メートルはありそうだ。顔から尾に至る長さもさることながら、体の厚みも相当だ。こんなでかい生き物、動物園や水族館でもなかなか目にできない。
「おーい」
 声をかけてみた。返事を期待していたわけではないが。なんせ生きている個体にここまで近づいたためしはないので、どう接していいかわからない。
「もしもーし」
 再び声をかける。返事はない。
「元気ですかー?」
 彼は相変わらず遠くを見ていた。穏やかな目だ。澄んだ色をしている。優し気な老人みたいな瞳だった。あらゆるものごとを知っていて、その悲しい側面や、さびしげな物語までわかっているようだった。そして、どうやら俺みたいな人間に対してこれっぽっちの興味や関心も持っていないようだ。 
「ふう」 
 さて、どうしたものか。今の自分にできることなどなかった。相手の方も何かをしてほしい、というわけでもなさそうだ。考えうる正解としては、スマートフォンでフレームに自分と彼を収め、その写真をしかるべきネットの世界に放流してやるという手段だ。俺は一躍有名人になり、美女インスタグラマーから称賛の言葉を受け、愚かなテレビ局が「ダイレクトメッセージを送ってもよろしいでしょうか?」と俺に接触を試みてくるというわけだ。素晴らしい。問題は、スマートフォンの電池残量が現在皆無であり、写真はおろか電卓機能で今月の給料を計算することもできないということだ。
 まあ、座礁しているわけではなさそうだし、このまま置いて帰っても問題ないか。後は自分で勝手に空へ飛んでいくんだろう。それにしても貴重な体験をしたものだ。生きた空クジラを目の当たりにできるなんて。
「さらばだ、空クジラくん。下界でゆっくり休んで行ってくれ。あとくれぐれも、お仲間に座礁するなと警告しておいてくれ」
 そう言って、彼に背を向け、その場から去ろうとした、その瞬間。
「ねえ」
 背後から聞こえたその声は、俺をひどく驚かせた。だって人の気配なんてなかったのだから。人間って心底驚くと声が出ないものだ。胃が縮みあがり、背筋がぴんとする。すぐさま振り返り、声の主を見た。
 そこには女の子が立っていた。
 女の子? なんでこんなところに? 頭は驚きと混乱で満たされた。情けない話だが、めちゃくちゃ動揺していた。だって、夜中の浜辺に女の子が一人でいるなんて、普通ありえないじゃないか。おまけにここは人里離れた寂しい海岸だ。近くに民家もない。ここに来るには車を使うしかないし、子供が一人で来られるような場所じゃないんだ。
 俺は無理やり気持ちを落ち着かせた。かつての訓練のたまものだ。目の前で毛沢東が蘇ってバターを投げてきても三秒後には冷静になれる。その子の外見に目を向けた。
 歳は十代の前半といったところか。まだその顔には、少女特有のあどけなさが残っている。かわいらしい女の子だった。薄暗くてしっかりとは見えないが、ずいぶんと整った顔立ちをしているようだ。日本人ではないようにも見えるが、本当のところはわからない。不安げに眉を寄せ、恐る恐るといった感じでこちらを見上げている。
 彼女は白のゆったりとしたハーフのワイドパンツに、上は半袖のセーラー服を着ていた。足には水色のビーチサンダルをはいている。そしてとても目立つことに、彼女の髪の色は水色だった。いや、それは水色というよりも、まるで海の中に太陽の光が差し込んだような、深く奥行きのある色合いだった。その髪に俺の目は釘付けになった。まるでそこを見ていると、自分が海の中で波に体を預けているような気分になった。
 この子とは初対面のはずだが、どうも初めてという気がしない。昔、どこかで会ったように思えるのだ。でもそれはたぶん勘違いだろう。だってこんな目につく格好をした女の子に出会ったら、もっと鮮明に覚えているからだ。
 一方、少女は多少不安げな、そして緊張した顔をしていた。どうやら何かを決意していて、勇気を振り絞ってそれを実行しようとしているところらしい。
「君は?」、俺はおずおずとたずねた。
 少女はゆっくりと口を開いた。
「お願いが、あるの」とその子は言った。
 なんだなんだ、いきなり。
「お願い?」は聞き返した。「どうしたんだ? 迷子?」
「キミに、空クジラを救ってほしいの」
 一瞬、言葉を失った。彼女の言っていることがわからなかった。空クジラを救う? なんの話だ? この不思議な子と、我々の横にいる生きた空クジラは関係があるのか? だが、話が全然見えてこない。
 こちらがぽかんとした顔をしていると、少女は言った。
「知ってるでしょ。最近、空クジラがじゃそうしていることを」
 じゃそう? なんだ、それ。ああ、座礁のことか? まあ、言いづらいと言えば言いづらい。なんだか彼女がかわいく思えてしまった。
「ああ、知ってるよ」と俺は言った。少し余裕が戻ってきた。じゃそうのおかげだ。「近頃、浜辺に打ち上げられているらしいね。でも、正直な話、俺にはどうしようもないな。助けてあげたいのはやまやまなんだけど」
 少女は首を振った。「違う。キミにしかできないことなんだよ。お願い、話だけでも聞いて」
 君にしかできない? どういうことだ。冷静に考えろ。まず、俺は今、不思議な状況に立たされている。隣には生きた空クジラがいて、目の前には変な服装をした少女がいる。これだけ見ればまるでマンガかアニメのような展開だ。しかし、こっちはしがないサラリーマンで、未だに状況が読み取れない。
「なあ、それはともかく、おうちはどこなんだ? 近くに親御さんはいるのかい? 俺でよければ――」
「違うよ! そんな話をしたいんじゃない!」と少女は言った。「ねえ、お願い。ゆっくり話をさせて。いいでしょ? 話を聞くくらい。私、あなたのことを知ってるんだよ」
「俺のことを?」
「そう」
「いやいや、初対面だぜ、君とはね。一度会った女性の顔は忘れないんだ。男とミニチュアダックスフンドは別だけどね。何の話をしているんだ?」
「高校生のころ」と彼女は言った。
「は?」
「君が初めて空クジラを見たときのこと。自転車に乗っていたよね? 学校の近くを走ってた。で、転んじゃった。口の中に砂が入ったよね? スクールバッグの中にも。その中からマンガとエッチな本が出てきたでしょ」
「おいおい……」
「マンガはハンターハンターの新刊で、エッチな方は――」
「わかった! わかったから……」、俺は慌てて言った。「読者に誤解されるからやめてくれ……わかったよ」
 そうは言ったものの、ますます状況がわからなくなった。彼女の話したことはずいぶん前だし、それは誰も……自分以外の誰も知らない話だったからだ。なんてことだ。
 まずはこの子とゆっくり話をした方がよさそうだ。彼女と一緒に、浜から道路へと続く石の階段に腰を下ろした。

3 とにかく事情を聞いてみた

 彼女は開口一番にこう言った。
「まず、結論から言うね」
「そうだな、頼むわ」
「私はクジラ姫。空クジラを表象する存在なの」
「……」
「キミが理解できないのはわかるよ。でもね、お願いだから、そのまま聞いて欲しいの」と彼女は言った。「私は、遥か昔に生まれて、その時から、空クジラと共に存在してきたの。この世界ができたころから、今に至るまで。そしてたぶん、これからもずっと存在し続ける。私は言葉を話す曖昧な概念なの。形を保っている一つの象徴なの」
「質問」、俺は手を上げた。「どこまでが本当で、どこまでが嘘?」
「エッチな本は隣のクラスの武田君から借りて、そのまま借りパクしてて、後日妹さんに見つかってお母さんに報告されて――」
「オッケー了解、全部信じるわ。なんでもござれだ」、つーか何でそんなことまで知っている。この子は神様か何かなのか。
「話を戻すと、私はクジラ姫として、ずっと空クジラの背中に乗って、世界中の空を泳いでいるの。アフリカとか、ヨーロッパとか、中国大陸とかね」
「……なるほど」、それから俺は首を振った。「いや、待ってくれ。空クジラって、ヨソの土地にもいるのか? そんな話聞いたこともないぜ」
「普通、あの子たちは人の目には見えないからね。世界中の色んなところを飛んでいるよ」
「嘘だぁ。そんなこと聞いたことないぜ。俺たちは、空クジラはこの街にしかいないって聞いて育ったんだもの」
 少女は困ったような顔をした。「そうなんだよね。空クジラは普通、誰の目にも見えない生き物なの。他の場所にいても誰にも気づかれることはない。レーダーにも引っかからないし。鷲とかカラスには見えるんだけど。でもね、この土地だと、なぜかクジラたちの姿が見えるようになってしまうの」
「なんで?」
「わからないよ。たぶん、この土地が不思議な力を発しているからじゃないかな。その力のせいで、空クジラが可視化してしまうの。たぶんね。まあ、今まで害もなかったから特に考えたこともなかったんだけど」
「信じられない話だな」、俺は乾いた声で言った。
「空クジラは世界中を泳いで回るだけじゃなくて、こことは違う別の空間を行ったり来たりもできるの。だから余計、姿が発見されにくいんだよ」
「別の空間ねぇ」、もはやSFのような話である。
「私とあの子たちは、色んな時代の色んな土地を見てきたよ。科学が発達するずっと前から。まだ中国がバラバラだったときとか、ローマが世界を支配していたときのこと、日本に邪馬台国があったときのこととかね。ナチスがポーランドに侵攻してたくさんの人を殺してしまったとき、ユダヤ人が土地をめぐってパレスチナ人と戦争をしたとき。エボラ出血熱にかかって、血を吐いて死んでいくウガンダの人たちも見たよ。津波にさらわれて、ガレキで体をずたずたにされた人たちも。悲しいことばかりじゃないけどね。みんなの笑顔もたくさん見てきたし、みんなの喜びもたくさん目の当たりにしてきた。そこに人がいる限りね」
 俺は言葉を失っていた。こんな状況を一発で理解できるやつなんているのか?
「……その話が全部真実だとする」
「そう言ってるじゃない」
「まだ頭が追いついていないんだ。もしものことだと思って話を進めたい。君はクジラ姫で、空クジラとともに、数千年も生きてきたとする。君は世界の悲惨な光景を目にしてきたし、逆に喜ばしい景色も空から見下ろしてきた、とする」
「うん」
「そんな君が、どうして声をかけてきたんだ? 君はさっき、俺に空クジラを救って欲しいと言った。それは空クジラの座礁に関する話だという。俺にどんな関係があるんだ?」 
 彼女は真剣な表情を浮かべた。どうやら本題に入るらしい。
「そう。キミも知っている通り、最近は空クジラが次々と死んじゃってる。原因は不明。理由もわからず、浜辺に打ち上げられている。でも、私はその原因を知ってるの」
 少女の瞳には、まぎれもない怒りの炎が燃えていた。
「誰かが、空クジラにとって有害な電波を流して、みんなをざそうさせているの」
 誰か? やつらの死は人間のせいなのか。いやいや、その前に。
「座礁(ざしょう)ね」と俺は訂正した。つい気になったのだ。「有害な電波って?」
「空クジラたちの脳に影響を及ぼして、狂わせちゃう電波のことだよ。狂った空クジラは、空を飛べなくなっちゃって、海に落っこちちゃう。だから浜に打ち上げられちゃうの。しかもその電波は空クジラにしか効かないから、わざとやっているに違いないの」
「どうしてそんなことをしてるんだ?」
「そんなの知らないよ。どうせアタマのおかしい人なんじゃない。その人はここしばらく、その電波を定期的に流しているの。今はたまたま流れてないから、あの子も平気なんだけど」
 少女はそう言って、向こうにいる空クジラをちらりと見た。彼女の眼はどこか悲し気だった。
「どうやら毎日二十四時間流せるわけじゃないみたいだね。だいたい朝の時間に一時間くらい、その電波がこの辺りを流れるの。私たちはその時間にはここを飛ばないようにしているんだけど、それを知らないコたちは電波を受けちゃって、そのまま海に落ちちゃうの」
「ひでぇ話だ。真実だったら動物保護団体が怒り心頭だが、なにぶん空クジラの生態もわかんないし、有害電波が流れてるってことも知らないから、対策のしようもないな」
「そうなんだよ。でも私はなんとかして、その電波を止めたいの」
「それじゃ、解決策1。そのことを警察に知らせて、電波を流してるやつを探してもらい、とっちめてもらうってのはどう?」
「だめだよ。第一、そんな証拠がないから。それに犯人はとっても悪いやつで、ずるがしこいから、警察の追求なんて簡単に逃げちゃうよ」
「……相手は民間人だろ? この国のおまわりさんをなめてもらっちゃ困るぜ。違法駐車の取り締まりと不審者の職務質問に長けているだけじゃなく、そういったおバカさんも捕まえてくれるぜ、きっと」
 少女は首を振った。「話はそんなに簡単じゃないの。電波を流しているのは、どうやら一人とか二人とか、そんな次元じゃないんだよ。次元が違うんだよ、もう。数十人っていう規模で、大きな研究所を根城に、電波を飛ばしているんだよ」
「マジで? そんな大がかりな感じなの? だったら、なおさら警察やら何やらが気づくはずだぜ」
「でも、全然取り締められてないってことは……」
「なるほど」、俺は唇をなめた。なかなか深刻な事態だ。「世間にバレないよう、よほど巧妙にやっているってことか」
 とんでもない話だ。こんなことが現実で起こっているとは。
「じゃあ解決策2。その朝の時間に電波が流れているってことはわかっているわけだから、その時間はここら辺を通らないようにする。仲間の空クジラにもそれを伝える。これで空クジラは大丈夫」
「それもだめ。私は全部の空クジラと意思疎通ができるわけじゃないの。必ず電波を浴びちゃうコが出てくる」
「うーん、そうなのか」
「それにね、最近、有害な電波が強くなったり、時間が長くなったりしている気がするの」
「……まじで? そんなことまでわかるの?」
「私にはわかるんだよ。きっと犯人が機械を改良して、より強力にしようとしているんだよ。きっといつかは、一日中、広い範囲まで電波を流すつもりなんだよ」
「クソだなそいつは」
「クソだよ」、女の子はぷんぷん怒った。「しかもね、そいつが空クジラをただ単に寄せ付けないようにしている、ってわけじゃないと私は思うんだよ」
「と言うと?」
「犯人の目的は、空クジラの絶滅」と彼女は言った。「絶対にそう」
 腕を組む。話が見えてきた……ような、見えてこないような。だって、この話のほとんどはこの子の推測なんだから。証拠があるわけではない。でも、なんとなく真実味がある。それはこの女の子が、空クジラと唯一通じ合える存在だからだ。
 俺は口を開いた。
「……で、つまり、君が俺にお願いしたいのは、こういうことだ。警察も手が出せない犯人を、被害がもっと大きくなる前に、俺に捕まえてほしい、と」
「そういうことだよ」
「なんでだよ!」
「キミしかいないんだもんだって!」と少女も叫んだ。
「その理由を示してくれ理由を!」
「一つ目! この街で生まれ育った人であること! 二つ目! 腕っぷしが強い男の人であること!」
「いくらでもいるわ、そんなん」
「三つ目!」、少女は三本の指をこちらの顔の前に突き付けてきた。思わずのけぞってしまう。「空クジラが大好きであること!」
 俺は言葉を失った。クジラ姫は続けた。
「私……キミがいつも、会社の帰りとか休みの日に、空を見上げているの、知ってるよ。空クジラを探しているんだよね? 君は空クジラが大好きじゃん。しかも、そのクジラたちがじゅしょうしていることに納得がいっていない。キミ自身も、その理由をずっと探してきたんでしょう?」
 まあ、確かにその通りだ。つうか、じゅしょうて。受賞してどうする、座礁だ。
「私、知ってるよ。キミの心に深い傷があること」
「っ……」
「だからこそなんだよ。キミは救いを求めている。そして空クジラのことを愛している。そんな人じゃないとこの事件は解決できない。私にも、他の人にもできない。三つの条件に当てはまっているのはキミしかいなかった。だからキミにお願いしているんだよ」、クジラ姫の声は切実だった。「このままだともっとたくさんの空クジラが死んじゃう。でも私にはどうすることもできない。だって私は人間でもないし、カミサマでもないんだから。ただの象徴なの」
 そんなこと言われたって困る。俺だってただのサラリーマンなんだから。歳もそんなに若くない。お金もそれほど持ってない。実家暮らしで、結婚してなくて、彼女もいない。二か月前に恋人と別れたが、それほど残念にも思っていない。過去の古傷を背負っていて、まだそれが癒えていない。悪者をぶちのめすヒーローなんかじゃないのだ。
 クジラ姫は消え入りそうな声で言った。
「すごく無責任なお願いをしている。そのことはわかってるんだよ。君1人で、大きな悪に立ち向かってもらうなんて。でもね、君にしか頼めないの」
 俺は考えた。じっくり二十秒考えた。家には母親もいる。妹もいる。自分に何かあったら、二人はとても悲しむはずだ。彼女たちは既に父親を亡くしている。そして長男までいなくなれば、家庭には男が永久不在となってしまうわけだ。そんな目に遭わせるわけにはいかない。
 でも、俺の中には、行きたいという強い思いが存在していた。と言うか、俺はクジラたちを救いたいのだ。彼らはあんなむごい死に方をするべきではないのだ。そして彼らを死に追いやっている連中を許すわけにはいかないのだ。それは正義と言うよりも、個人的な哲学だった。俺は空クジラを助けたい。もし、それが本当に自分にしかできないとしたら、断ることなんてできるだろうか?
 俺く息を吐いた。それはため息を超えた、重い重い感情のすき間風だった。
「しょうがねぇなぁ」と俺は言った。「どれ。一回、行ってみようか」
「ほんと!?」
 少女の目はきらきらと輝いた。小さくガッツポーズしている。そこだけ見ると、とても数千年も存在しているとは思えない。本物の十三歳の女の子みたいだ。実際はとんでもないババアなのに。いやいや、そんなこと考えてはいけないのだろう。
「でもね、まじでやべぇ、って思ったら引き返すからね。それでもいい?」と俺は聞いた。
「それはちょっと……」
「なんでだよ!」消費者金融か。「まあいいや、とにかく、君の言う組織が実在するかどうかだけでも確認しようや」
「そうだね」、クジラ姫は真剣な顔でうなずいた。「じゃあ、キミの車で行こう」
「あれ。あの空クジラには、俺は乗れないわけ? 一回乗ってみたいんだけど。おっかねぇけど」
「乗れないよ。落っこちちゃうもの。人間は」
「へーえ」
 釈然としない説明だったが、仕方ない。あのクジラ姫が自らそう言っているのだ。こっちに反論する権利はない。
 重い腰を上げた。上げる前はずいぶんと重く感じられた自分の腰だったが、車に向かって歩き出すころには、意外にも軽く思えた。覚悟を決めたからだろう。膝も笑ってやがる。俺が笑えない面をしていたから、膝が空気を読んでくれたのだろう。
 俺は運転席に、クジラ姫は助手席に座った。この席に、見た目年齢13歳、実年齢数千年の女性を乗せたのは初めてだ。さしものクジラ姫もシートベルトはきちんと締めてくれた。ドライバーとしてはありがたい。シートベルトを締められるということは少なくともこの子は俺の幻覚ではないようだ。
「じゃあ」と少女は言った。「カーナビに、研究所があると思しき場所を入力するね。それほど遠くないところなんだけど」
「いいよ」と俺は言った。「本当に、行っていいのかい?」
「キミが行くと決めたのなら、ね」
 車を発進させた。もう後には戻れない。

4 いざ戦場へ

 カーナビの進路は、街の北東部へと至る道筋を表示していた。俺もその方面へ行ったことはほとんどない。観光として栄えているわけでもなく、住民の数も少なかったはずだ。確か山がちな土地で、切り立った崖があったり、鬱蒼とした森が広がっていたりしたはずだ。街の人間や観光客もまずそこには訪れない。だからこそ、そこに研究所が建てられたのだろう。
 道中、クジラ姫はこんなことを言った。 
「空クジラはね、人々の思い出を運ぶの」
「思い出?」
「そう。みんなが忘れてしまった思い出。古びた記憶とか、かすれた過去とか、薄れた感情とか。人は色んなことを忘れる生き物じゃない。だから新しいことをどんどん覚えていける。でも、過去に押しやられていく思い出は、ちょっとずつその人の心から離れていって、最後にはぽろん、と外に飛び出ちゃう。クジラたちはそれを素早く飲み下す。長い時間をかけてそれを消化するんだよ。とっても長い時間。気が遠くなるような年月がかかるの」
 突拍子もない話だった。それはおとぎ話のようなものだった。しかし、空クジラそのものがおとぎ話みたいなものではないか。横にいるこの子も。
「突拍子もない話だ」、俺の声からは気力が失われていた。
「空クジラがいないと、思い出は食べられることなく、溜まっていってしまうんだよ」
「溜まるとどうなんの?」
「どんなに美しい思い出でも、最後には腐っちゃう。嫌なにおいがするし、どろどろとしているし」
「においとか、どろどろしているとか、まるで実在する『もの』みたいじゃないか。そんなもん見たことがないぜ」
「人間には見えないからだよ。それは空クジラよりも透明で、小さくて、あの子たち以上に無口な存在なの。それは静かに腐っていって、ぐじゅぐじゅになっちゃう」
「ふうん」と俺はうなった。いちいちツッコむのも億劫だ。「でもさ、確かに思い出が腐るのは悲しいよ。俺も買っておいたレタスが腐っちゃうと胸を裂かれるような思いになる。しかし、クジラの胃の中で消化されるのと、自然に腐っちゃうのとでは、そんなに差があるだろうか? 別にいいんじゃない? クジラが食べなくても。俺らには見えないんだし、害はなさそうだ」
「キミはあの子たちがいなくなってもいいって言うの!?」、少女の顔は怒りで真っ赤である。
 慌ててなだめた。「ごめんごめん、そういうことじゃないんだ。ただ、どうして空クジラは思い出を食べる必要があるのかなぁと、疑問に思ってただけさ。まあ、自然の摂理っていうことなのかもしれないけど」
 彼女はふーふーと呼吸を荒くさせていたが、やがて落ち着いた。
「空クジラが思い出を食べるのは、ただお腹が空いていて、それを食べないと死んでしまうから。でもそれ以上に、思い出を食べることは大切なことなの。それを腐らせないために」と少女は言った。「思い出が腐っていくと、今度はそこから邪悪なやつが生まれてしまう。とっても邪悪で、救いがなくて、恐ろしいものが」
「……どういうこと? マジの話?」
「そうだよ。絶対に、それだけは避けなくちゃ」
 少女はそれ以上言わなかった。話題そのものに触れたくないようだった。しかし……腐った思い出から生まれるものというのは? 俺には想像もできないが……なんとなく、冗談抜きで危険なものなんだということはわかった。彼女は空クジラを助けることに加えて、その邪悪なやつが生まれるのを防ぎたいらしい。まあ、話の大筋はわかった。自分たちのやろうとしていることは、おそらく世の中にとっていいことなんだろう。それだけでも確認しておきたかった。
 三十分ほど車を走らせて目的地に向かった。気が付くと山の奥深くへ来ていた。道路は整備されていてそこそこ広い。車の往来は多いようだ。だが、普通こんな山の中で車の行き来が多いはずがない。やはりこの先に何かあるのだ。
「ここで車を停めて。これ以上車を走らせると相手にばれちゃう」
 言われた通り、道の端に停車させた。車のライトを消すと夜の森は真っ暗だった。車内に置いておいた懐中電灯を手に取り、二人で夜の山道を登っていった。しばらく歩くと、道の向こうに灯りが見えた。
「隠れよう」と俺は言って、木陰に二人とも身を隠した。
 なるほど、確かに研究所がある。でかい施設だ。二階建ての白い建物で、もう夜だというのに煌々と光を放っている。おまけに監視塔もあって、サーチライトで周囲を照らしているではないか。やたら厳重である。どうやら一般的な民間施設ではないようだ。あの中でコアラとかパンダがすやすやと眠っているということはないだろう。
「まいったな。警備がえれぇ厳重だ。こりゃ入るのもひと手間だぜ」と俺は言った。
「どうしよう……研究所に入れないと、空クジラを救うことができないよ」
 少女は泣きそうな声で言った。
「うーむ」と俺はうなった。「君の好きな飲み物を当ててやろう。カルピスだろ? 特技なんだ、相手の好きな飲み物を当てることが」
「いや、梅こぶ茶だよ」
「なんでだよ!」
「そんなことより、どうするの? これから」
 俺は咳払いをした。
「まず、正面からの侵入は不可能だ。一発でバレちまうからね。だが、出入り口は複数あるはずだ。正面の入口だけだと、火災が発生したときに逃げ道が一か所だけで、たいてい死んじゃうからね。建物を作るときの決まり事なんだよ。だから正面以外の入口を探す。例えば、警備員の出入り口とかね。つまりうまく警備員の人とお友達になればいいってわけ」
「すごいね。さすがだね」、少女は感心したように言った。「どうやってお友達になるの?」
「本当に仲良くするわけじゃないさ。ちょっと眠っててもらうだけ。おそらく施設の出入りはカードキーで制御されているはずだ。そこでカードキーを拝借して中に入るわけ。そんで施設内で有害電波を発してる機械をぶっ壊すって流れ。君はそれが終わるまでここで待っててくれ」
「わかったよ」と彼女はうなずいた。「気を付けてね。弱いけど、すでに電波が流れているよ。中に入ったら私は手助けできない。ごめんね」
「はいよ。まあ、生きて帰ってくる予定ではいるけど。応援しててくれ」
「応援してるよ!」
 俺は身をかがめて、小走りに林の中を通った。サーチライトの光を警戒しつつ、素早く位置を変える。少女と一緒にいたところからやや離れた場所に止まる。息を潜ませつつ、後ろを振り返る。もうそこには、あのクジラ姫はいなくなっていた。おいおい、すべてが幻覚だった、とか言うんじゃないだろうな。俺の気が狂っていて、あの少女は幻だったとか。まったく、とんでもない一日だ。浜辺になんか寄っちまうからだ。いつだってこうなんだから。
 頭の中でぐちぐちと文句を言いながら建物の裏手に回った。木や草に隠れて静かに近づく。やれやれ、ワイシャツやズボンが土で汚れてしまった。明日、クリーニング屋に持っていこう。裏口に着くと、やはり警備員が二人いた。
「……おいおいまじかよ。なんであんなもん持ってるんだ」
 嫌になる。ここは本当に日本か。防弾チョッキに防弾ヘルメット、そして手にはサブマシンガンときた。見る限り、あれはMP7だ。こっちの位置がバレれば数秒でお陀仏の銃なのだ。そんなもん、普通は国内にあるわけがない。この国の治安はどうなっているのだ。
 俺は石を投げた。どこかに当てるというわけでもなく、その辺に軽く放っただけだ。ぽてん、と小さな音がした。しかし、その音はしっかりと二人に聞こえたようだ。彼らは顔を見合わせ、うなずくと、音のしたほうにゆっくりと近づいていった。
「誰だ!」
 草むらに向かって銃を突き付けている。なるほど、しっかりと訓練されている。周囲の警戒を怠っていない。これじゃあ攻撃する隙がない。ただの警備員ではないようだ。おそらく傭兵だろう。
 草むらの中から二個目の石を放った。これは予測していまい。今度はより大きな石を、力任せに、建物の壁に向かってぶん投げた。鈍い音が響き、石がいくつかに砕け散った。警備員は驚き、さっと壁の方を向いた。こちらに背を向けた形になる。死角から投げたのだから無理もない。
 素早く草むらから飛び出し、その勢いで片方の男の顎にパンチを繰り出した。少々難しい角度だったが、計算通りにいった。その拳で男の脳は揺れ、彼はその場に崩れ落ちた。
「あっ!」
 もう一人の男がこちらに気付き、銃を向けようとした。それも計算通り。右足を振り上げ、相手の銃を蹴り上げる。吹っ飛びはしなかったが、男はトリガーから指を離してしまった。俺はそのまま体をひねり、回し蹴りで相手の頭を蹴飛ばした。男の体が後方に吹っ飛んだ。おや、まだ意識があるようだ。拳をもう一発。お休み。
 辺りを見回した。よし、他に警備員はいない。意識を失っている二人を草むらに寄せておき、車から持ってきていたビニール紐で木に縛り付けた。あとしばらくは目を覚まさないだろう。ついでにカードキーと銃を持っていこう。さすがに丸腰はまずい。
 あまり時間はない。あいつらを倒したのはいずれ知られるだろう。巡回中の警備員は、定期的にお互いの安否を確認するものだ。その前に目的を果たさなくては。裏口の扉をカードキーで開けて、中に入った。
 俺は研究所の中をひっそりと動き回った。所内に人は少なかったが、武装した警備員が目を光らせながら歩き回っていた。彼らに見つからないよう細心の注意を払って移動した。サラリーマンにもなってこんなことをするはめになるとは。俺も運が悪いというものだ。だが、泣き言は言ってられない。
パソコンが無数に置いてある部屋にたどり着いた。部屋の中には誰もいない。どうやら定時退社したようだ。ホワイト企業でけっこうだ。ちょっとパソコンをいじってみよう。当然のようにパスワードがかかっている。はあ、機械には苦手なのに。少々時間をかけて、パソコンをハッキングした。所内の地図を入手することができた。ざっと確認してみる。なるほど、あの場所がセキュリティ統括室で、ここが電力供給室で、ここが男子トイレか……いざとなる前に用でも足しておくか。
 どうやら、メインコンピューター室という部屋に例の装置があるらしい。だいたいの部屋の位置を頭に叩き込んだ。これでいいだろう……ん? 『極秘文書』といフォルダがあった。おやおや。極秘と書かれてあって読まないのは、ひまわりの種を畑に植えないようなものだ。意味がわからない。
 興味本位で、フォルダを開いてみた。
「……なんてこった」
 とんでもないものを見てしまったのかもしれない。この研究所には空クジラ座礁装置がある。なんと、それは政府主導で作られた装置だったのだ。まだ研究段階だが、いずれこの装置を改良して完全なものにするらしい。どうやら空クジラを根絶やしにすることが目的みたいだ。壮大な計画だ。だが、この計画にはあるものが欠けている。それは目的だった。なんでこんなことをする必要があるんだろう。どうして政府は空クジラを絶滅させたいのか。その目的がどこにも書いていないのだ。当然のように、空クジラの絶滅を呼び掛けている。これではカルト宗教だ。
 まったくここはわけがわからない。調べれば調べるほど頭がこんがらがる。これだけ巨額の資金を投入して、多くの人員を投入しているというのに、やっていることははなはだバカげている。だが、何はともあれ、ここにある空クジラ座礁装置とやらを破壊しなくてはならない。一刻も早くそれを達成しなくては。
 部屋を出て、目的地に向かいながら、少女の言った言葉を思い出した。
『思い出が腐っていくと、今度はそこから邪悪なやつが生まれてしまう。とっても邪悪で、救いがなくて、恐ろしいものが』
 やつらの目的は、そのことと関係しているのだろうか? だが……邪悪なやつって、なんのことを言っているんだろう。今となっては何が飛び出してきても驚きはしないが、つい昨日まで現実の世界を生きていた自分にとっては理解が及ばないことだらけだ。わかっていることは一つ。ここの連中がやろうとしていることはろくでもないことで、さっさとそれを止めないと大変なことになるという話だ。
 様々なセキュリティを潜り抜け、数人の警備員に素敵な夢を与えながら、メインコンピューター室にたどり着いた。そこは広大な研究所の最深部にあった。一番大事なところは一番奥にあるってわけだ。物陰に隠れながら、ひそかにその部屋に入った。
 その部屋は学校の体育館四つ分くらいは十分にあった。バスケ部とバレーボール部が紅白戦をやっていてもまだ余裕があるくらいだ。そしてその中央部に、巨大な機械があった。
「あれが座礁装置か……」
 俺はつぶやいた。なんともバカでかい機械だ。あれが有害電波の発生源らしい。現在稼働していて、微弱ではあるが電波を発しているようだ。あれを壊さなくては。しかしどうやればいいんだろう。ファイナルファイトのマイク・ハガー市長よろしく、素手で機械をぶっ壊すということはさすがの俺もできない。直接あのコンピューターに接続して、システム内部からデリートを試みるしかないか。
 部屋を見渡した。……おかしい、ここには警備員が一人もいない。ここにくるまでけっこうな人数との出会いと別れを経験したのに。嫌な予感がする。しかし、いずれにせよ、こっちには悠長にしている時間は残されていない。意を決し、中央のコンピューターに歩いて行った。キーボードと巨大な液晶画面がある。これを操作すればいけるだろう。……やはり、パスワードの入力が必要なようだ。無論そんなものは知らない。ハッキングでいけるか? しかし、もう時間が――
「そこまでだ」
 背後で声が聞こえた。
 ゆっくりと振り返る。相手を刺激しないように。そこには、白衣を着た男が立っていた。歳は五十代の前半くらい。身長は低く、メガネをかけている。口元にはいやしい笑みが浮かんでいた。彼はくっくっくと耳障りな笑い声をあげた。
「いやぁ、よくここまで来れたね。見事な腕だ。うちの傭兵はけっこう選りすぐったつもりなんだけどね。元自衛隊……それもレンジャーかな?」
 俺はにやりと笑った。「外れ。でも、まあ近いものかな。どっちにしろ自衛隊出身じゃないよ。いろいろわけがあってね」
「ほほう。興味深い……君にはいろいろ聞きたいことがあるんだがね」
「おいおい。研究者さんよ、立場がわかっているのかい。こっちは銃を持っているんだ。偉いのはこっちで、偉くないのはあんただぜ。ご理解できた?」
「例えばだな、私の雇った連中が突然裏切ったとする。研究者である私には非常にまずい状況だ。銃で撃たれたら困る。そこでだ、研究所所長である私が『発砲停止』と言うと、安全装置が強制的にかかる銃を彼らに支給していたら、どうする?」
 持っているサブマシンガンから、カチャ、という音がした。どうやら安全装置がかかってしまったらしい。しかも、それを解除することができない。これでは撃てない。
「『発砲許可』」と俺は銃に向かって言った。「『発砲許可』。『発砲許可』。……『撃っていいよ!』」
「お前の声で反応したら意味がないだろうが間抜けが」、男はあざけるように言った。
「一応やってみただけさ」
 銃を床に放り投げた。今となっては無用の長物だ。
「どうやってここのことを知った? 誰から雇われたんだ。君のボスを言いたまえ」
「ボスなんかいないよ。さっき知り合った女の子が教えてくれたんだ。これがとびっきりかわいい女の子でね。座礁という言葉が言えないんだ。必ず噛んじまうんだ。見た目はまだ子供なんだけど、どうやら数千年も生きているみたいだぜ。クジラ姫って言うんだと」
「ふん。真実を言うわけがないか。ふざけた顔と、ふざけた話。付き合いきれんな」
 おやおや、真実を言ったつもりなんだが。頭に柔軟性を備えてもらいたいものだ。
「このまま警察に通報して、君を侵入罪でひっとらえてもらうこともできる。だが、連中に我が研究所をいろいろと荒らされても困る。私だって司法を自由にできるような権利はもっていない。だからこうしよう。君にはここで死んでもらう」
 首を振った。「そいつは困るな。家に帰ってサボテンに水をやらないといけないんだ。第一、それは無理な話だ。さっきセキュリティ統括室で、警備員間の連絡網は絶たせてもらった。あんたから連中に連絡するのもできないわけ。あんた、素手で俺に倒せると思ってるのか?」
「思ってないさ。だからこんなものを用意した」
 男は白衣の内側に手を突っ込んだ。何を取り出す気だこいつ。お互い仲良く名刺交換というわけにはいかなさそうだ。
「超高出力熱線銃だ」と男は言った。その手には不思議な形をした銃が握られていた。拳銃ほどのサイズだが、見たこともないような形状をしている。「これを食らえば鉄だろうがなんだろうが一瞬で溶けてしまう。お前の体が特別頑丈でない限り、一撃でどろどろだな」
「すごいシロモノだな」と俺は言った。喉がカラカラに乾いていた。「トイザらスで売っているのかい、それは?」
 男は鼻で笑った。「おもちゃじゃないさ。私が作った本物の銃だ。あいにく物騒な仕事をしているものでね、注意は怠らないようにしている」、男は銃を構えた。構え方を見る限り、素人ではなさそうだ。「さて、少しは話す気になったかな? それとも遺言の一つでものたまってみたらどうだ」
「ケツを洗ってから眠りやがれ」
 俺は姿勢を引くくしながら、真横に走り始めた。すると男はすかさず打ち始めた。まばゆい光が弾丸の速さで飛んでくる。幸い命中はせず、それは研究所の壁にぶちあたった。ふざけんな、でかい穴が開いてやがる。あんなの食らったら一たまりもない。
 部屋の隅に、機材が積まれて壁になっているところを見つけた。滑り込むようにしてその後ろに隠れる。機材の壁は分厚いので数発なら耐えられるだろう。
「仲直りしよう!」と俺は叫んだ。「命だけは助けて!」
「よしきた。まずはそこから出てきてごらん」
 男はそう言いながらこちらに向かって乱射している。あの野郎、仲直りする気はゼロのようだ。この壁ももうもたないだろう。くそ、どうすれば。
「ちくしょう、武器も持ってねーってのに。うわっ!」
 がつん! と音がした。冗談じゃない、この壁はもってあと一発だ。歯ぎしりをしてしまう。
「おい!」と俺はやけになって言った。「あんたのその銃、エネルギー切れとかないのかよ!」
 男の高笑いが聞こえた。「その前にお前の人生を終わらせてやろう」
「なんだよおもしれぇこと言いやがって……ん?」
 脳裏に一筋の光が走った。思わず目を見開く。そうか。その手があった。
「いくしかないか」
 小さな声でぼやいた。危険極まりないが、そうする他ない。
 男が挑発するように言った。「おい、逃げなくていいのか? それとも降参して白状する気になったか」
「あんたの狙撃の腕がへたくそすぎて、撃たれる心配がないだけさ」
「たわけが!」
 案の定、男は撃ってきた。それと同時に俺は走り出した。あの銃は連射できない。そのわずかな隙に安全が生まれるはずだ。
 部屋の出口に向かい、外に出た。すかさず男が追ってきた。歳のわりに足が速い。おまけに銃を持っているのだから、単純にこっちに勝ち目はない。だから一心不乱に走り続けた。目的のあの場所へ。
 鬼気迫る状況だったが頭は冷静だった。と言うか、まるで他人事みたいに、自分に対してあきれた思いさえ持っていた。やれやれ、俺は何をやっているんだ? もう二度と、こんなことはしないと誓っていたのに。二度と過ちを犯さないために、この街に戻ってきたというのに。息の続く限り、全力疾走を続けた。でも、と俺は思った。今、何かのために必死になっている。何かのために、命を懸けている。どこか充実した思いが胸の内に広がっていた。もちろん、楽しいとまではいかない。だが、俺の中で生のエネルギーがほとばしっているのを感じた。
 確かあの部屋はそれほど離れていないはず。すぐに着くはずだ。なのに、俺ときたら、ずいぶんと疲れちゃっているではないか。呼吸は乱れて、体は重い。無理もない。こちとら六連勤の末に、善良な成人男性たちと拳を交え、あげくには命の危機を経験しているのだ。疲れていないほうがおかしい。一方で、得体の知れない銃を持って、奇声を上げながら走ってくるあの男は、八時間睡眠、体調良好、頭のカツラはハイクラスのブツときている。いくら俺に戦場での実戦経験があるとは言え、ここまで差があるとさすがにキツいものがある。
「はあ……はあ……」
 まずい、このままじゃ追いつかれてしまう。早く、早く着かなければ……焦る思いを抱きながら、廊下を右に曲がった。
「あっ!」
 あった。あの部屋だ。
 間違いない、この部屋に入りさえすれば……
走り寄り、扉に手を伸ばした。
 ドン!
「うわっ!」
 開けようとした扉に、熱線が命中したのだ。
 男が熱線銃で扉を撃ったんだ。
 野郎、俺ではなく、あえてドアの方を狙いやがった。
 鉄の扉が溶けて、取っ手の部分がぐちゃぐちゃになっている。これでは部屋に入ることができない。
 ぼう然とした。男は笑いながら近づいてきた。
「くくく。動いている的よりも、止まっている的の方が撃ちやすいものだな」
「……くそ」
「お前の狙いは途中からわかっていたさ。お前はこの『電力供給室』にたどり着きたかった。ここに入ってエネルギーをストップさせれば、空クジラ座礁装置を停止させることができるからな。だが、そのたくらみももう無駄になったな。そもそも無鉄砲な計画だったな。止めたところで私からの追求から逃れられるわけでもない。まあ、とっさの判断にしては良かったか。だが、もう観念するがいい」
 これはやばい。絶対絶命だ。もう逃げ道がない。とっさに口を開いた。
「待て待て。最後に一つだけ、聞きたいことがある」
「無駄だ。今すぐ死ね」
「計画が杜撰(ずさん)過ぎるだろう、あんたら」
 男の眉がぴくりと動いた。賢いやつほど、けなされるとプライドが我慢できないものだ。
 拳に次ぐ第二の武器、口から出まかせの術で、時間稼ぎを試みることにした。
「……どういうことだ?」
「あんたらの計画のことだよ。やりたいことはわかった。でも、目的がわからない。空クジラたちを絶滅させてどうするつもりなんだ?」
 男はバカにしたように笑った。「そんなことか。いや、お前にそれを説明してやる義理はない。だが、これだけは言っておく。目的の達成のためには、空クジラをできる限り多く処理しなくてはならないのだ」
「クジラがいなくなったらあんただって困るだろう。だって思い出を食うやつがいなくなるんだぜ」
「記憶の残滓をむさぼる生物なぞ邪悪な存在だ。可及的速やかに廃絶しなくてはならない。いや、それ以上に、私は記憶の残滓が腐敗することを望んでいる」
「なんで?」
「わからんのか? 腐敗の中にこそ生まれるものもあるのだ。私はそれを現世に呼びだしたい。それは強大な力を持った怪物だ。それは腐敗物の中にしか生誕しえない」
 クジラ姫の言っていたこととつながった。理屈はさておき、空クジラが死に続けると、どうやら得体の知れない恐ろしいやつが生まれるらしい。彼女はそれを止めたい。一方、この男はそれを成し遂げたい。そういう構図なのだろう。
「でだ」と俺は言った。「あんたは、その怪物をこの世に生み出して、どうしたいわけ?」
 男はにやりと笑った。
「この世界を、救うのだ」
 俺は深くため息をついて、右手の人差し指を自分の頭にぐりぐりと押し付けた。
「あんた頭が狂ってるぜ、盛大に」と俺は言った。「電波野郎。それも、相当悪質だ」
 男は鼻で笑った。「お前は状況を理解していないからそう言えるのだ。じきにこの世界は破滅の道を歩む。それを止めることはできない。きれいごとは言ってられない。我々は自分たちが生き残るためだったらどんなことでもする。そう誓ったんだ。それだけだ」、彼は銃を構えなおした。「さあ、死ね」
 クソが。時間を稼いだところで、名案の一つも浮かばなかった。頭の体操は普段からしておくべきだ、ということの好例になった。
 さすがにもう終わりだ。あのクソみたいなやつのふざけた銃でどろどろにさせられるのか。やれやれ、とんでもない目に遭った。あの女の子に恨みはない。なんてったって自分でやると決めたのだから。
 覚悟を決めた。
 そのときだった。
『ねえ』
 それは、頭の中に響いて聞こえた。
 あの少女の声だ。
 おいおいマジかよ。
 どうやら、どこかから頭に直接話しかけているらしい。テレパシーみたいなものか。とんでもない芸当だ。
 彼女は言った。
『私が合図するから、そのタイミングで伏せて』
 弾丸の速度で飛んでくる熱線をよけるというのか。相当シビアなタイミングだぜ。そんなことが――
『いま!』
 脳内に大声が鳴り響いた。
 俺はとっさに伏せた。それはもう、肉食動物ばりの反射神経で。一瞬で視界が大きく下がる。床にはいつくばって、男の顔を見た。
 男はまさに引き金を引くところだった。やはり銃は発射され、熱線が飛来する。だが、伏せたおかげで、それは無事に頭上を通過していった。後ろの方で壁に当たる音がした。おそらく、コンクリートの壁はどろどろに溶け、穴が空いていることだろう。
 なんとか避けることができたが……
 また撃たれる。もう終わりだ。銃口は完全にこっちに向いている。一方、俺はつぶれたカエルみたいに地面に伏せている。もう動きようもない。次の一撃を食らって死ぬんだ。アーメン。南無……
 突然、世界が暗黒に包まれた。
 それは一瞬の出来事だった。気が付くと、俺と男は真っ黒な空間にいた。
 研究所の廊下ではない。見たこともないような別の場所だ。
 そこでは、黒の世界がどこまでも続いていた。
 我々は、まるで時間が止まったように硬直し、呆気に取られていた。男は銃を構えたまま、口を大きく開けて、周りを見渡していた。俺は地面に這いつくばったまま、恐る恐る周囲を眺めた。自分たちがさっきまでいた研究所はどこに行ったのか。自分たちはどこに来てしまったのか。二人とも思考が状況に追いついていなかった。
 俺はゆっくりと立ち上がって、あたりを見回した。
「なんだ……ここは?」
 見渡す限り、全てが黒だ。その中で、二人だけが色を有していた。まるでオブジェクトが一切存在しないゲーム画面のようだ。プログラマがゲームを製作する前の、最初の画面みたいだ。
 ここには、建物も、木も、山もない。空には雲も太陽も浮かんでいない。全てが黒色なのだ。そんな土地があるはずがない。そしてここには一切の灯りもないのに、俺は男の姿をはっきりと見ることができた。相手の服や顔立ち、表情に至るまで。まったくの光がないというのに、ものをしっかりと目にすることができるのだ。
 まさに異世界だ。
 何が起こっているのか、わけがわからなかった。
 驚いているのは男も同じだった。激しく動揺しているのがわかる。
「お、お前! 何をしたんだ!」と男は叫んだ。その表情から余裕が消えていた。
「違う!」と俺は言った。「俺は――」
「お前が、お前がぁ!」
 彼は取り乱し、こちらに向かって熱線銃を乱射してきた。
「うおっ!」
 幸い、相手がパニックになっているせいで、かすりもしなかった。しかし一心不乱に撃ってくるではないか。逃げないと……って、どこへ? この暗黒の世界で、どこへ逃げるっていうんだ? このだだっ広い、遮蔽物もない空間で。
「死ねぇ!」
 男が叫ぶのと同時に、目を疑うようなことが起こった。男の目の前に、突如として巨大な壁が現われたのだ。それは急に地面からせりあがってきて、一瞬のうちに男の目前にそびえ立った。やつの姿がすっかり隠れてしまった。
 いや、あれは壁じゃない。
 空クジラの口だ。それも相当大きい。今まで見たこともないようなサイズの口だ。それがぱっくりと開いたまま地面から出てきたのだ。
「なぁ!!」、男が叫んだ。「これはぁ!」
 男が逃げ出そうとするときには、もう遅かった。ばくん、とクジラの口が閉じた。その風圧で体が揺れるほどだった。
「なんてこった」、俺はぼう然とつぶやいた。
 男は食われてしまった。
 口の先だけが地面から出ていたクジラは、ゆっくりとその全身を地表に出してきて、その体を暗黒の地面に横たわらせた。その重さから地面が揺れるほどだった。全貌が明らかになる。とんでもなく大きな空クジラだった。見たことのあるもの中でも一番大きい。小さなビル一つ分くらいはありそうだ。
 全身が露わになると、俺の視界はその大きな体で埋め尽くされた。こんなサイズの空クジラが存在するとは。自然界にこんな生き物がいるはずがない。こいつがあの男を飲み込んでくれたおかげで一命をとりとめたのだ。しかし、どうして……
「ありがとう」
 後ろから声がした。振り向くと、そこにはあの少女が立っていた。彼女はわずかに微笑んでいた。それを見て、俺はこう思った。
 ああ、ようやく終わったんだ、と。
 腰が抜けてしまいそうだったが、なんとか踏ん張った。
「ここは……どこなんだ?」と俺は聞いた。
「空クジラの世界だよ」と彼女は言った。「言ったじゃない。空クジラは色んな世界を行き来できるって」
 確かに言っていた。思い出した。でも、あんなにあっさり言ったから、俺も覚えていないし、読者もその部分を読み飛ばしているんじゃないか。
「まあ、世界といっても色々あるんだけどね。ここはその世界の中でも、一番寂しくて、静かで、何もないところなんだ。空クジラは、そういう色んな世界を行ったり来たりできるんだよ。キミがあれを止めてくれたから、私たちはキミとあいつをここに入れることができたんだ。あれっていうのは、えーと、あの、しょらクジラじゃそうしょうち
「空クジラ座礁装置ね」と俺は言った。なまむぎなまごめなまたまご。「でもさ、俺はあの機械を止めようと、電源そのものを切ろうとしてたんだ。ところが結局追い詰められて、それはかなわなかった。いったいどうしてあの装置が停止したんだ?」
「キミはさっき、あいつの銃の攻撃を避けたでしょ? あの攻撃はどこにいったと思う? 廊下の突当りの壁に当たったんだよ。そしたら壁に穴が開いた」
「……まさか、壁の中を伝っていた電線を溶かしちゃったのか?」
「その通り」、彼女はウインクをした。
 これが、偶然だってのか? 
 男が撃った光線は、俺に当たらず壁に命中した。その壁の中には、電力を供給している電線が通っていたというわけだ。おかげで電線は焼き切れてしまい、研究所内の電気が止まってしまった。それで空クジラ座礁装置が完全停止したということらしい。
「たまたまなわけがねぇ」と俺はつぶやいた。「すべて予定通りだったってことか?」
「そうでもないよ。キミが私を信じてくれたから。キミが死の恐怖に打ち勝って、私の言葉に従ってくれたから、すべてがうまくいったんだよ。キミのその信じる力が、キミ自身と、たくさんの空クジラを救ったんだよ。本当にありがとう」
 まあ、終わりよければすべてよし、というところだろう。危うく命を落とすところだったけど。妹や母親を悲しませることはなくなった。ほっと胸をなでおろす。
「ところで、あの男、食っちまったのか?」と俺は尋ねた。
 少女はうなずいた。「うん。でも空クジラは思い出しか消化できないから、しばらくしたら生きたままおしりから出てくるよ。うんちと一緒にね。それまでに、ほら、あの機械を止めないと」
「ああ、そうだな。二度と機能しないように、徹底的に壊しておこう。設計図も燃やしておこうか」
 すると、どこかからくぐもった声が聞こえた。
「やめろぉ! あの装置には再現性がないんだ! 一度壊したらもう作れなくなるかもしれん!」
 どうやらあの男が空クジラの中から叫んでいるようだ。一見する限り、透明な体の中に、やつの体はどこにも見当たらない。どういう原理だ。でも、彼はまだちゃんと生きているようだ。よほどあの装置に執着しているらしい。
「うるさいなぁ」、少女は顔をしかめてクジラを見上げた。「もっと奥まで飲み込んじゃえ」
 空クジラのお腹がぎゅるぎゅると鳴り出した。
「うわぁよせ! なんだここは、くっさぁ! くさいぞ、うぅ――」
 男の声が聞こえなくなった。
「ぞっとするね」と俺は言った。心からぞっとしていた。
「さ、早く、壊しにいこ」
 クジラ姫の声は明るかった。

5 もう堕ちるな、友人たちよ

 暗黒の世界が、一気に先ほどの研究所へと戻った。俺と少女は、あの空クジラ座礁装置の部屋にいた。気分はどこでもドアである。どうなっているんだ。でも、あまり真剣に考えないことにした。ただニコニコしているだけにした。そうじゃないと、頭がおかしくなっちまいそうだ。
 電力供給を止めたせいで、装置は一時的に停止していた。当然電波は流れていないのだが、これではコンピューターを操作することもできない。なので、まず非常電力を作動させて、一度電気を通すようにした。次にそのコンピューターのシステムを完全にデリートし、あらゆるデータのバックアップも消去した。クラウド上の記録も問題なく抹消できた。これで装置は完全に停止し、二度と機能しなくなった。かなり複雑なシステムを使用していたようで、これだけ入念にデリートすれば、全く同じものを作ることは不可能だろう。そして最後のダメ押しに、研究所内にある、研究データをすべて削除させてもらった。これには、あの所長らしき男のIDを使わせてもらった。ああ、貴重な空クジラのデータが失われていく。さようなら。だが、これでいいのだろう。あのクジラたちは、謎のベールに包まれ、人々の関与しないところで平和に生きていくのがふさわしいはずだ。
 そういった作業を終えると、我々は足早に研究所を出た。停めておいた車まで戻り、海辺へ向かった。
 砂浜では、最初に会った大きな空クジラが待っていてくれた。自分たちがここから離れている間、誰にも見つからなかったのだろうか? そんなことが現実的に――やめだやめだ。そんなこと考えても無駄だろう。俺もぼちぼち学ばなくては。
「ありがとう」と少女は言った。「キミのおかげで、たくさんの空クジラを救うことができたよ」
「どういたしまして」と俺は言った。「ところで、あのマッドサイエンティストはどうすんの?」
「しばらくしたら、どっかで空クジラにうんちさせて、出してあげるよ。しばらくあいつの行動も見張っておくね。まあ、もうあの装置は作れないとは思うけど、念のためね」
「なるほど」と俺は言った。
「何度も言うけど、キミには本心からカンシャしてるよ。キミがいなければ、いつまでも空クジラは座礁していただろうね」
「お、言えたじゃん。座礁って」
 少女は顔を赤くした。恥ずかしさと、寂しさの入り混じった表情だった。それを見ると、なんだか寂しいという気持ちが湧いてきた。
「なんかさ、君とは今日会ったばかりなのに、昔からの友だちと別れるような気分だよ」と俺は言った。
 彼女は首を振った。「そんなことないよ。キミとは昔会ったんだよ」
「ああ、あの日? 俺が自転車でコケたときのことでしょ? まあ、あれは君の方が一方的に見てたわけじゃん」
「ふふ」と少女は微笑んだ。「ねえ、あの子に触ってみて」
 そう言って、彼女は空クジラを指差した。
「え? 空クジラを? 触ってもいいの?」
「いいよ。さあ、早く」
「手袋とかしなくて大丈夫?」
「いやいいって。なんで今さらそんなこと気にしているの」
 わけもわからないまま、空クジラの方へ歩み寄った。手を伸ばし、その皮膚に触れてみる。すると、その透明な皮膚に波紋が広がった。ちょうど川面に石を投げ込んだときみたいに。まるで本物の水みたいだ。
 ゆっくりと、右手をその皮膚の中に入れていった。それは森の奥を流れる穏やかな川のように、ひんやりとしていた。それは心を洗い流すような、さわやかな冷たさだった。とても心地のいい感じだ。目をつむると、まるで自分が水の中に漂っているかのような感覚を抱いた。肘の手前くらいまで腕を入れて、そこで止めた。
 はっと息を呑む。
 クジラから手を伝って、何かが流れ込んできた。それは淡い光を放ちつつ、一瞬にして、俺の体に入り込んだ。記憶がよみがえる。それは色とにおいと感触を含んだ記憶だった。色鮮やかな思い出だ。
 脳裏に、過去が映像のように蘇った。


「あーあ、もったいな」
 俺はそう言ってため息をついた。チャリでコケたあげく、制服は砂まみれ、しかも空クジラを見逃してしまうなんて。俺ってば、なんてツイてないんだろう。いつもこうなんだから。やれやれ。
「だいじょうぶ?」
 びっくりして顔をあげた。まさか、目の前に人がいたなんて。そんな気配はまったくなかったというのに。
 そこには女の子が立っていた。ふしぎなかっこうをした女の子だ。ハーフのワイドパンツに、セーラー服のようなものを着ている。まだ俺より三つか四つほど年下に見えた。小柄な少女だ。その顔立ちは美しい。彼女は微笑みを浮かべて、こっちを見ていた。
 俺はその青い髪の色に目を奪われていた。綺麗な色だ。海の中に太陽の光が差し込んだときのような、深い青色だ。
いけない。じろじろ見てしまった。慌てて立ち上がる。
「ああ、大丈夫だよ」
 そう言って、ズボンについた砂を払う。パンパンパン。自分のスクールバッグをちらりと見る。やべ、マンガとエロ本が見えている。すぐさま本をカバンの中に押し込んだ。
「み、見なかったことにしてね……」と俺は言った。
 少女は笑顔でうなずいた。「わかったよ。今はね」
 それから、俺たち二人はどこかに座って、話をした。色んな話をした。主に自分のことだ。どうして初対面の女の子に、しかも年下を相手にここまで話をしたのかわからない。でも楽しかった。うれしかった。このひと時は俺にとって大切な思い出になるはずだった。
 唐突に、少女は尋ねた。
「ねえ、キミは空クジラが好きなの?」
 少し考えてから答えた。
「ああ、好きだよ」
「それはどうして?」
「うーん、やっぱり、見ていて綺麗だから、じゃないかな」と俺は言った。「なんでだろう、なぜか心惹かれるんだよね。まるで……俺とすごく近い存在に思えてくるんだ。他の何ものよりも、ずっと近しく感じられるんだ」
 俺は苦笑した。
「変な話だろ。誰にも言ったことないんだぜ、こんなこと」
「そんなことないよ」と彼女は言って、くすりと笑った。
「そう?」
 不思議な女の子だった。そうとしか、覚えていない。なぜだろう。よく分からないけど、俺と少女は妙な親和性があるような気がした。親戚のような、あるいは古い友人のような、そんな親しみが感じられたのだ。
 少女の表情に、わずかに影が差した。
「いつか、キミにお願いする日がくるかも」
「え? お願い?」
「キミに、世界を救ってもらうの」
 笑ってしまった。冗談かと思ったのだ。
「本当だよ」、少女はちょっとムッとした顔で言った。
「わかった、わかった。信じるよ」と俺は言った。「そのときまでに、俺も成長しておかないとね。世界を救うくらい」
「約束だよ」
「ああ」
 すると、青い髪の少女は思い出したように言った。
「ねえ、キミに、私の名前を教えてあげる」と彼女は言った。「キミにしか教えないことだよ。しっかり覚えていてね」
「わ、わかった」、よく分からないがとにかく返事をした。
「私の名前は、『クジラ姫のウバ』。空クジラは、世界中の思念を循環させる生き物。そして、私はそれを表象する存在」
「ウバ……」
「そう」
「変わった名前だな」、俺は眉を寄せた。「ウバって……紅茶の名前でしょ?」
「うん」
「ふーん。まあいいや。ちゃんと覚えておくよ」と俺は言った。「俺の名前は――」
「しっ」、少女は人差し指を自分の口の前で立てた。「知ってるよ。私は知ってる。だから、だいじょうぶ。私はあなたたちのことを、良く知っているから」
 あなたたちって……
 この子はどこまで知っているんだ? 
 俺は……


 意識が戻ったとき、砂浜に一人、立ち尽くしていた。あたりを見回す。空クジラも女の子もいない。耳に届くのは、浜に打ち寄せる波の音だけだった。目に映るのは、闇夜の海岸だけだった。
 深く息をした。今まで何を見ていたんだろう? 何をしてきたんだろう? すべては幻だったのか。体の疲労感は……元からあったものだろうか? 現実とそうでない世界の区別がつかない。「空クジラは色んな世界を行き来できるの」とクジラ姫は言った。
 俺は元いた世界に戻って来られたのか?

 次の日、朝はいつもの様子でやってきた。朝食の席には眠たそうな顔をした妹と、浄水器の調子が悪いと文句を言いながら卵焼きを焼いている母の姿があった。
「あんた、どうしたの? 変な顔して」と母親が聞いた。
「変な顔しているのは元からでしょ」と妹が言った。
「そうだな」と俺は言った。変な顔は元からだ。
 少なくとも、日常に戻ることはできたようだ。非日常は昨夜のひと時だけだったらしい。街にはいつもの活気があるし、太陽はぽかぽか、職場には仕事がわんさか山積みときている。いつもの変わりない日々が始まったのだ。俺はいまいち釈然としない気持ちを抱えたまま、数週間を過ごしていった。
 一方で、やはり変わったことはあった。なんと最近、空クジラの座礁がめっきり減ったとのことだ。と言うか、一件も報告されていないらしい。新聞やテレビではいろんな意見が飛び交った。環境が変わっただの、生態系の変化など。その中には、今まで誰かがわざとクジラを座礁させていて、ある事情でそれが止まってしまったのではないか、という考えもあった。まさにその通りだが、その誰かはクジラにぱっくんちょされてしまったというわけだ。まあ、すでにうんちと一緒に排出されているのだろうが。
 しばらくあの連中からの報復を警戒していた。やつらの野望を止めてしまったのは、他の誰でもない、この俺だ。あいつらからしたら、俺は報復の対象になるはずだ。ところが今のところ、自分の身に危険は及んでいない。平和で変わりない毎日が続いていた。それもあのクジラ姫のおかげかもしれない。全てが丸く収まった、ということだろうか?
 今でも夜の海辺を車で走ることがある。晴れた夜空が見られる日でも、空クジラを見かけることはあまりない。でも、たまに見かけることもある。今までは会いたくても会えなかったのに。まるでコツをつかんだみたいだ。俺は車を停めて、空を優雅に泳ぐクジラを眺める。あの空クジラは今、少女を乗せているのだろうか。そして彼女もまた、こっちを見下ろしているのだろうか。そんなことを考えながら、打ち寄せる波に耳を傾ける。
「座礁」と俺は言った。ざそうでもなく、じゃそうでもない。
 なんにせよ、人々の思い出を運ぶ空クジラは守られたわけだ。それは喜ばしいことなのだろう。それを手伝ったごほうびとして昔の思い出を取り戻すことができた。あれはおそらく、忘れてはならない記憶だったんだろう。でも思い出は頭の片隅に追いやられていた。まるで凶暴な獣に威嚇され、部屋の隅で震えている小動物のように。命を懸けて空クジラを救ったおかげで、俺はその小動物を助け出すことができたわけだ。もっともあの夜の出来事が、実際に起こったとするならば、だが。
 クジラ姫のウバ。それが彼女の名前らしい。ウバ、か。舌足らずで、梅こぶ茶が好きで、いくらか怒りっぽい女の子。
 そして空クジラを表象する存在。
「お」
 思わず声を出した。夜空に空クジラが飛んでいるのが見えた。車を降りて、空を見上げた。
「あの子が乗ってたらいいんだが」
 そう呟いて、上空を浮かぶクジラに手を振った。あの子ならきっと手を振り返してくれるに違いない。こっちには見えないが、それでも十分だった。
「友人たちよ」、俺は小さな声で言った。「もう、堕ちるなよ」
 

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