サッカー場

『犬をサッカー場から連れ出す仕事』

 ぼくはサッカー場に入ってきた犬を連れだす仕事をしている。サッカー場にはたくさんの犬が入ってくる。芝生を楽しそうに駆けまわったり、ボールを追いかけたりする。彼らがいるとサッカーができないので、そのたびに審判はホイッスルを吹いて、試合が中断する。選手たちは動くのをやめて、犬がいなくなるのを待つ。
 ぼくは試合が止まっている間に、彼らを追いかけたり、声をかけて呼び寄せたり、ときにはむりやり抱き抱えたりして、なんとか会場から出そうとしてみる。ぼくはまだ小学生だから、大きなやつを捕まえるのはすごく大変だ。暴れたり、逃げ回ったりもする。小さくても、わがままなやつだと、簡単には連れ出せない。ぼくは息を切らして彼らを追う。
 今日も試合中に白い犬が入ってきた。ボールに向かって一直線走っていく。ホイッスルが鳴った後、ぼくはサッカー場に入って、やつを追った。ぼくはもうこの仕事に慣れているので、だいたいの扱いはわかっている。
「おいで! ほら、おいで!」
 そう言って、手をパンパン叩くと、楽しそうにこっちにやってきた。試合をしていた人たちは、その乱入者をぼーっと目で追っている。
「ワン!」とその犬は鳴いた。
「よしよし」
 その背中をなでてやる。すると喜んで腹を見せてくれた。すかさずお腹の方もなでてみる。嬉しそうに身をよじらせている。そろそろ頃合いだな、と思い、その白い犬を抱きかかえた。中くらいの大きさだから、両腕で持つのはけっこう大変だ。ぜんぜん暴れなかったから苦労しなかったけど、気性が荒いやつだとこうはいかない。
 ぼくが彼と一緒にサッカー場を出ると、またホイッスルが鳴って、試合が再開した。選手たちは何事もなかったかのようにボールを追いかけ始めた。


 ぼくはこの仕事を、学校が終わった後とか、休みの日にやっている。ちょっとしたおこづかい稼ぎだ。時間は一時間とか二時間くらい。長い日でも三時間くらいだ。サッカーは毎日、ずっとやっているので、犬を追いかける仕事は大事だ。
 学校が終わって、サッカー場に行くと、すでに試合は始まっている。というか、試合は終わることもなければ、始まることもない。試合時間もないし、コールド負けもない。点数を数えている人もいないから、今どっちのチームが勝っているのかもわからない。ぼくが知る限り、試合が終わったなんて話は聞いたことがない。一年中、二つのチームがひっきりなしにサッカーをしているのだ。
 昨日と同じ人がピッチにいることもあれば、見たこともないような選手が平気な顔でドリブルをしていることもある。みんな無表情に、淡々とサッカーをしている。誰かがシュートを決めても、喜んだりしないし、悲しんだりもしない。すぐにネットからボールが出されて、次に進む。もちろん、彼らは「右サイド!」とか「ラインあげろ!」とか叫ぶことはある。汗をかいて、息を切らして場内を駆け巡る。でも、見ている感じだと、選手の人はみんな冷静で、そんなにサッカーに熱があるわけじゃなさそうだった。
 両チームに監督はいたけれど、二人ともベンチの前に立って腕組みをしているだけで、チームに指示をしたり、声をかけたりはしなかった。ときどきプレイヤー交代のために審判と話をするだけで、他の時間は冷たい目でゲームの流れを眺めていた。点数を入れても、入れられても、彼らはまったく動じなかった。ゲームの成り行きに関心がないみたいだった。
 ぼくは小学生用のサッカーウェアに着替えて、専用のゼッケンをつけてベンチで待っている。なんだかんだ言って、サッカーの試合を間近で見るとけっこうな迫力だ。観客席に観客は一人もいないけど、両チームの腕前はプロ級だから見ごたえがある。でも、犬はいつも唐突にサッカー場に侵入してくる。いったいどこから入ってきたのかわからない。彼らは弾丸のようにフィールドを横切って、思い思いの遊びを楽しむ。ホイッスルが鳴って、試合が止まると、選手たちはその場に立ち止り、無表情に犬を眺める。誰も彼を連れ出そうとはしない。それはぼくの仕事だからだ。ぼくは慌ててフィールドに入り、すぐにでも試合を再開させるために、彼らを追いかける。
 やつらが入ってくるのは毎回とは限らない。二日続けて入らないこともあれば、連続して二匹も侵入してくることもある。ぼくは「どうやって入ってきているんだろう」と首をひねってしまう。誰かがわざとピッチに放っているんじゃないかと思うくらいだ。柴犬とか、ゴールデンレトリバーとか、ブルテリアとか、チワワとか。
 ぼくはこの仕事が好きだった。だって、彼らをつまみ出す人がいないと、サッカーの試合ができないじゃないか。もちろん、ぼくは入ってきた犬を恨んでいるわけでも、嫌いなわけでもない。ただフィールドであんなに自由にされてはサッカーどころじゃない。選手のためにも、監督たちのためにも、ぼくは頑張って追いかけまわさないといけない。


 ある日のことだった。ぼくはいつものように、サッカー場のベンチに座って、待機していた。目の前では、昨日や一昨日と同じように、サッカーの試合がくり広げられていた。雨がぽつぽつと降っていて、フィールドの状態はあまりよくなかったけど、当の本人たちはあまり気にしていないようだ。雪が降っても、雷が落ちても、どうでもいいのかもしれない。空はどんよりとくもっていて、夕方なのにけっこう暗かった。
 後ろから、急に声が聞こえた。
「ふむ、みんな、なかなか元気にやっているな」
 振り返ると、そこには見知らぬ男の人が立っていた。年齢は四十代くらいで、ひょろりと背が高い。赤いジャケットを着て、ネクタイを締め、背筋をピンと伸ばして立っている。口には細長くまとめたヒゲを生やし、まるでツノのように顔の横まで伸びていた。目を見開いているように見えるのは、目が大きいせいからかもしれない。
 初めて見る人だった。サッカー場の関係者だろうか。
 男の人は、ぼくの方をちらりと見た。
「君、もしやドッグボーイかね」
 ドッグボーイというのは、サッカー場に入ってきた犬を連れ出す仕事をする人のことだ。
「はい、そうです」とぼくは答えた。
「ふむ。小学生かね」
「はい、小学五年生です」
「ふむ、そうか。五年生か」、彼はうんうんとうなずいた。「この仕事を、どれくらいやっているんだい」
 ぼくは言った。「二十年です」
「ほお、二十年か。そうか、そうか。二十年というのは、長い年月にも思えるし、場合によっては短いとも感じる。光陰矢の如しとも言うしな。二十年間、君は犬を追いかけ続けたわけだ」
 彼はそういって、自分の細長いヒゲを指先でいじった。
「犬というのは実に明示的だ。ノラ犬ともなれば自由な雰囲気さえある。神聖なフィールドに足を踏み入れ、傍若無人な態度で遊びの限りを尽くす。それは災害と同じだ。人は地震を止められるか? 雨の代わりに槍が降るのを予知できるか? できないだろう。ゆえに事後措置として君たちが存在する。どう思うね?」
 ぼくは首を振った。「わかりません」
 男はうんうんとうなずいた。「うむ、それでいい。細かいことはわからんでよろしい。ところで話がある。明日、このサッカー場に、ある一匹が入ってくる。必ずだ。そいつの特徴を教えてやろう。雑種で、顔つきはパリア種に近い。パリア種はわかるかね?」
 ぼくはうなずいた。インドの犬だ。「はい、わかります」
「よろしい。それはメスなのだが、おそらくここに入ってきた後、場内をゆっくりと歩き回るだろう。君は普段通りに捕まえてくれればいい。簡単なことだ。普段通り仕事をこなせばいい。だが、そこで一つ、要望があるのだ」
 男の人はポケットから小さなビニールの袋を取り出し、ぼくに手渡した。手のひらに収まるくらいの大きさだ。袋に中にはビスケットが一枚入っていた。
「それを捕まえた後、このビスケットを食べさせてやってくれないか。腹を空かしているだろうから必ず食べるだろう。で、それを見届けたら、やはりサッカー場から外に出してやってくれ。彼女はおとなしくここを後にするだろう。できるかね?」
「でも……」
「大丈夫。きちんと関係者には話を通してある。あの走り回っている連中も気にせんよ。彼らは何に対しても関心はないのだ。それにこれは大事な仕事なのだ。極めて大事なのだ。きちんとできるかね?」
「わかりました」、ぼくはうなずいた。
 男は満足そうにうなずいた。
「よろしい。なに、すべてはうまくいくだろう。心配することは何もない。いずれは誰かがやるべきことだしな」
 彼はそう言って、くるりときれいに振り返り、ベンチを後にしていった。歩き方はやけに演技っぽくて、軍隊の行進みたいにきびきびとしていた。
 あの人は何者なんだろう。この会場に入ることができるのだから、ただの不審者ではないはずだ。それどころか、サッカーの試合にお金を出している偉い人かもしれない。もしそうなら、あの人にお願いされたことを無視するなんてできない。ぼくはもらったビスケットを、袋ごしにまじまじと見つめた。ただの丸いビスケットだ。一枚だけ入っている。どうしてこれを、入ってきた犬に食べさせてあげるんだろう。ぼくにはよくわからなかった。


 細長いヒゲの人が来てから、一週間後のことだった。ぼくはサッカー場に来て仕事をしていた。いつ犬が入ってきてもいいように、ベンチで待機している。選手は相変わらず、真剣な顔つきでサッカーをしていた。
 でも、普段と違うことが起きた。審判が急にホイッスルを鳴らしたのだ。ぼくはとてもびっくりした。だって、犬が入ってきたわけでも、プレイヤーが交代したわけでもなかったからだ。彼らは走るのをやめてゆっくりと歩き出した。誰もボールを追わない。誰も声を出さない。重い足取りでベンチに向かっていく。
 ぼくはようやく気付いた。試合が終わったのだと。これは中断ではないのだ。二人の監督は帰ってきたチームメンバーを、あいかわらず無表情で、出迎えていた。選手の顔には喜びや悔しさのようなものは浮かんでいなかった。達成感もない。
 ぼくは意味がわからなかった。今までずっと、一日中、一年中続いていたサッカーが、どうして今日終わらなくてはならないのか。チームの得点数もわからず、どっちが勝ったのかもわからない。試合の終了時間が来たのか、それとも他の特別な理由があったのか。誰も教えてくれなかった。
 翌日、サッカー場に行っても、試合をしてはいなかった。そこに人は一人もいなかった。殺風景なフィールドが広がっているだけだった。昨日までずっと続いていたのに。ぼくはベンチに一人で座り、ぼーっと芝生を眺めていた。試合の迫力はずっと昔のことのように思えた。もうここに犬は入ってこないだろう。彼らにとって、ボールもない、プレイヤーもいないこの場所は、もう遊び場ではないのだ。
 ぼくは考えずにはいられなかった。ヒゲを生やした男の人がくれた、あのビスケットのせいじゃないか、と。ぼくはそれを受け取るべきじゃなかったのかもしれない。あのメス犬にそれをあげるべきじゃなかったのかもしれない。ぼくのせいで試合は終わってしまったのかもしれない。
サッカーが行われなくなったことで、困る人がいるのだろうか。観客は一人も来ていないし、点数は数えられていなかったし、スポンサーもついていない。チームメンバーの誰も、試合に対して強い思い入れはなかったと思う。
 それでも、ぼくの胸にはぽっかりと大きな穴が開いていた。もう試合も見れないし、あのやんちゃな犬たちを追いかけることもできない。おこづかいももらえない。これから、学校が終わった後は何をすればいいんだろう。休みの日はどうやって時間をつぶせばいいんだろう。ぼくはさみしかった。

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