物語における分かりやすさと面白さについての話

はじめに

 この文章は以下の一連の記事を読んで頭の中に溜まってきたものを吐き出すための長い独り言である。

 これらの記事を現代の映像コンテンツの消費状況を表す部分に絞って要約すると、次のようになる。

 近年の視聴者はテロップだらけのテレビ番組のような「わかりやすい」コンテンツに慣れている。そのため映画・ドラマ・アニメ等の映像作品も、セリフで状況や心情を全て説明するような分かりやすいものが増えてきている。そんな中、NETFLIXのようなサブスクライブサービスの普及によって映像コンテンツは供給過多になった。大量の話題作や気になる作品を手早く消費しなければならないという必要に応じて、倍速視聴という手段が普及し始めた。近年のコンテンツはセリフさえ聞き取れれば話の内容が分かるようなものばかりだし、問題なかろうというわけである。

 映画の倍速視聴がそこそこ広まっているということが驚きだったし、その理由についての議論も面白くて良い記事だった。オススメなので是非読んでほしい。以下では、特に「分かりやすい作品が好まれるようになった」ということに関連して考えた様々なことについて書いている。倍速視聴に関することは既に元記事で十分説明されているし、特に付け加えることもない。

意味密度

 僕が最初に「分かりやすすぎてなんだか陳腐だなあ」と思ったのは「とある魔術の禁書目録」というアニメを観たときだ。2009年のアニメなので、既にもう12年前の思い出らしい。

 あのアニメはすごい。登場人物の心情が、ほとんど一欠片も余すところなく、セリフで説明されている。あんまり覚えてないけど、僕の頭の中ではこんな感じだ。ファンの人には本当に申し訳ない。

 主人公の上条当麻と敵が対峙し、睨み合う。そして敵は自分が悪行に走った理由を全部説明する。

「おれは昔こんなことがあったんだ!許されて良いのか!奴らを同じ目に合わせてやる!」

 それに対して主人公はカッコいいことを全部言う。

「だからってこんなことをしてもあの子が喜ぶわけないだろ!あの日の気持ちを思い出せ!おれはあいつらのためにも負けるわけにはいかないんだよお!」

 戦闘開始!

 これそこまで間違ってないんじゃないかと思う。本当に全部言ってしまうのだ。一番熱いメッセージ性のある部分とか、切ない裏事情を抱えた敵の葛藤とか、全部。「分かりやすいアニメ」というものの原点はここなんじゃないかと思えてならない。

 ここで、セリフの意味密度について考えてみよう。意味密度とは、ひとつのセリフやシーンに込められた意味の密度を指す概念で、僕がたった今作ったものだ。上記の上条当麻のセリフには、言外の意味はほとんど込められていない。だって全部言ってるからね。よって意味密度はかなり低いということになる。反対に、発せられた言葉以上の意味を視聴者が感じられる場合、そのセリフの意味密度は高いということになる。

 ちなみに僕が知る中で最も意味密度の低いセリフは、「パプリカ」の頭がおかしくなった人の発するセリフだ。言外の意味どころか、言内の意味すら無い。頭がおかしくなってますよ~という意味は一応あるけど、逆に言うとそれしかない。あんなに意味のない文章を考えられるなんて本当にすごいと思う。墓から蘇ってくれ今敏。

 そんな余談は置いておいて、僕はひとつの何気ないセリフにものすごく濃密な心情や意味が込められているシーンが好きだ。つまり意味密度の高いシーンが好きなのだ。

 例えば「灰羽連盟」で主人公のラッカが「いいのかなぁ?私、こんなに幸せで」と漏らすシーン。優しいひとびとに囲まれて本当に幸せな生活を送っているのだけど、心の奥に自分でもよくわからない罪悪感を抱えていることとか、助けてもらうばかりで自分は何もできていないことに対する情けなさとか、この一言の背景にいろんな心情が感じ取れる。あのアニメの魅力は何気ないシーンの心情的意味密度の高さだと言っても良いだろう。

 他にも「無限のリヴァイアス」の終盤で、主人公の冴えない兄がイケイケな弟と対話するシーンとか。このシーンのやりとりにはそれまでの24話分の重みが一気にのしかかっている。言葉で説明できるレベルを超えた意味密度だ。めちゃくちゃ面白かった。

 アニメに限らず文学でも同じだ。太宰治の「人間失格」の最後、確か主人公の行きつけの飲み屋の女将さんが、「でもあの人、本当にいい人だったのよ」みたいなことを言うところとか。この一言でもう何ていうかやり切れない気持ちになるのだ。このセリフも意味密度が説明可能な範囲を超えている。

 さらに文学シリーズでいくと、大江健三郎の「他人の足」なんかも好きだ。これもラストはある看護婦(当時)のセリフで終わる。「近頃、皆少し変だったじゃない?私そう思っていたのよ」。短編なので良かったら読んでみてほしい。本当にこの何気ない一言にゾッとしてしまうから。

 挙げ始めるときりがないけど、映画だと「田園に死す」のラストシーンもよかった。もうこれはセリフすら無い。あまりにも斬新で奇抜な演出によって、その映画の主題が鮮烈に表現されていた。

 ほとんど説明を放棄しちゃったけど、これらは本当に印象に残っている好きなシーンだ。というかそもそも、言葉であっさり説明できちゃうような作品にそこまで魅力を感じない。基本的に僕は、その作品を観たり読んだりしなければ味わえない「何か」を求めて鑑賞しているように思う。その「何か」はおそらく、シーンや作品全体の意味密度が僕の説明可能な範囲を超えたときに出現する。説明可能な範囲内のものが「何か」になることはできない。

分かりやすさ・面白さ・意味密度の関係

 意味密度の高いシーンは確かに、そこに含まれた意味を読み取るためにある程度のリテラシーが必要となる場合もある。その点において比較的「分かりにくい映画」となるのかもしれない。ただ意味密度と分かりやすさは互いにある程度独立した変数として捉える必要がある。ぼーっと観ているだけですごく伝わってくるような、分かりやすくて意味密度の高い作品もあるし、そこまで内容は無いのにやたら難しく作られた映画もあるからだ。基本的に上に挙げた好きなシーンは、分かりやすくて意味密度の高いものばかりである。僕はそういう「分かりやすくて意味密度の高い映画」が好きで、「分かりにくくて意味密度の低い映画」があまり好きではない。

 少し脇道に逸れるが、「分かりにくくて意味密度の低い映画」の例を少し挙げておこう。このタイプの映画には大きく分けて2つのパターンがあるように思う。ひとつは、シーンごとの繋がりを省いたり時系列を乱して物語自体を分かりづらくし、パズルのような構造になっている映画である。例えば「マルホランド・ドライブ」みたいなものだ。もうひとつは、映像の中に色々な暗喩とか細かすぎる伏線が張られていて、気づいた人がニヤッとするタイプの映画だ。これは例えば「ゲット・アウト」みたいなものである。

 「マルホランド・ドライブ」については、混乱しながらも2時間以上のめり込んで観てしまうくらいの魅力はあった。その点でここに挙げるのはちょっと違うかもしれない。だが基本的にああいうわざとややこしく作られた映画は、「いや普通に伝わるように描いてよ」と思ってしまう。わざわざパズルにする意味ある?パズルがしたいときはパズルゲームしたりミステリーでも読むよ。まあこの辺は趣味の問題で、映画でパズルしたい人もいるのだろう。

 「ゲット・アウト」については本当につまらなかった。終盤衝撃の展開が1度あるだけで、9割ずーっと退屈だった。PrimeVideoのレビューに★1で長文を投稿してしまうくらいのつまらなさだ。ただこの映画はアカデミー賞をとっていて、レビューの評価もすこぶる良い。何が評価されているかというと、おそらく黒人差別の問題を比喩的に扱っているという点だろう。一応ネタバレに配慮してオチには触れないが、随所に黒人差別を暗喩するような表現が隠されている(らしい)。最初に轢かれて死んでいる鹿(Black Buck)が黒人男性を表すスラングだったり、破れた椅子から綿を摘み取るシーンが黒人のプランテーションを暗喩していたりというものだ。また随所に、ラストの展開を示唆する伏線が張られている。

 暗喩については一応シーンの意味密度を高める効果をもっていると言える。だが、その意味は映画の外の現実世界に関連したものだ。映画を観ているときは基本的に映画の世界に浸っていたい。こういった映画の外の世界を暗喩するシーンが映画内にあると、「あ、この映画はこういう問題を提起するための道具なんだな」と我に返ってしまう。

 一方で隠された伏線は一応映画世界の意味密度を高める効果をもっていると言えるかもしれない。だがそういった伏線は先の展開を示唆するだけに過ぎず、作品の持つ意味自体を豊穣にするわけではない。

 このように見ると、分かりやすさと意味密度がそこまで強い関係を持っていないことが分かるだろう。僕の中での概念図式を整理すると次図のようになる。面白さと各概念の結びつきは個々の感性によるので、あくまで僕の場合だ。

画像1

 線の太さが関係の強さを、線に添えられた「+」「ー」の記号が相関関係の正負を表している。意味密度と分かりやすさの間には、弱い負の相関がある。先に述べたように、シーンに込められた意味を読み取るためには一定のリテラシーが要求されるからだ。また、分かりやすさと面白さの関係が点線なのは、この部分の関係が疑似相関的だからである。分かりやすい映画は、その映画の持つ意味を鑑賞者に伝えやすい。よって鑑賞者はその映画の意味を余すところなく味わうことができ、その結果面白く感じるだろう。しかし分かりやすいこと自体が面白さを引き上げているわけではない。作品が十分な意味密度を持っていなければ、いくら分かりやすくてもつまらない。要するに分かりやすさは、意味密度を経由して間接的に面白さに影響を与えているに過ぎないということだ。

 意味密度と分かりやすさが独立したものだとすると、その2軸を使って座標平面を作り、そこに作品を位置づけて遊ぶこともできる。これだけで全ての作品の面白さを表現できるとは思わないが、「意味密度」という概念がそもそもぼんやりと広いものだから、ある程度は網羅できるかもしれない。「面白いーつまらない」のグラデーションの在り方は人によって異なるだろう。例として各象限に当てはまる映画をひとつずつ入れてみた。

図

 ここで冒頭の記事の話に戻ると、近年は分かりやすい映画が求められていて、製作委員会から「もう少し分かりやすくしてくれ」というオーダーが出るほどだという。それはつまり、「座標の右端に位置するような作品にしてくれ」ということだ。ただし、意味密度と分かりやすさの間には弱い負の相関があると考えられるから、右上端に位置するような作品にするのはかなり難しく、そうそう連発できるものではないだろう。よって「分かりやすい」作品は次図の右下の三角形に多く分布することになる。

図2

 この細い逆スイカバーの中は「面白い」ことを表す水色の面積がかなり狭くなっている。「分かりやすい作品が増えるとつまらなくなる」という現象は、一見「分かりやすい←→面白い」という1本の対立軸の議論のようだが、実際はこのような構造になっているのだと思われる。「分かりやすく」という要求は、確かに多くの人の消化不良を防ぎ、作品の持つ意味を伝えやすくはするだろう。しかし同時に「多くの意味を込める」ということを困難にし、作品の豊かさを犠牲にせざるを得なくなる。「分かりやすさ」を要求する製作委員会は結局自分の首を締めているようなものではないだろうか。

おわりに

 なんだか簡単な話を分かりにくく書いただけのようにも見えるが、自分の中の「面白い」という感覚の構造をきちんと整理しておくことには意味があるように思う。自分にとって何が面白く、世間の人々にとっては何が面白いのかよく理解しておくことは大切だ。好きな作品が世間に評価されなかったり、嫌いな作品がめちゃくちゃ評価されたりしても飲み込むことができる。また、人に作品を紹介するときも、相手の「面白い」という感覚の構造を理解していれば、よりフィットするものを提示できるだろう。

 今回はネット記事からの着想を元に、よく取り沙汰される「分かりやすさ」に注目して「面白さ」との関係を整理した。この「分かりやすさ」という概念についてこれだけ書いてしまったのは、忘れられない思い出があるからだ。それは安部公房の「箱男」を読んだときである。読んだのは15年以上前だと思うが、正直言って今でもあの作品の意図を全て汲み取れる自信はない。だが当時読んだときに頭の中で展開された独特の世界がとても心地よく、まだその感覚の欠片を覚えているほどだ。だがその直後、文庫の最後についていた「解説」を読んで、その世界はぶち壊されてしまった。その解説は非常に分かりやすかったし、納得もできた。おそらくその解釈は大筋で間違っていないのだろう。しかしそれでも僕は解説まで読んでしまったことを深く後悔した。突然自分の部屋に侵入してきた「間取りアドバイザー」みたいなやつに、気に入っていた部屋の間取りが勝手に変えられてしまったような感覚である。確かに新しい間取りは合理的で使い勝手がいい。しかし僕は前のままが好きだった。僕の部屋を返してくれ。だがもう元には戻せない……。このときに僕は、合理性や整合性は物語に対する愛情とは関係が無いことを知った。それ以来、したり顔で解説したがる人間を目の敵にしている。僕にとってこの出来事は、かなり意味密度の高い悲劇だったといえるだろう。

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