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映画「ハウス・ジャック・ビルト」がとってもサイコー/殺人シーンへの愛着について

愛好家へのラブレター

 ↓この映画の話。
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0826DCVYJ/ref=atv_dp_share_cu_r

 リンク先にも書いてあるけど、あらすじを簡単に説明すると「殺人衝動に目覚めたおじさんがむごたらしく人を殺す」という話。この時点で興味の湧かない人には全然おもしろくない映画だ。まじで観なくていい。お、今日は人殺す映画の気分だな~って人には最高の映画だ。絶対に観たほうがいい。

 この映画に何か監督からのメッセージが込められているとしたら、それはおそらくたったこれだけだ。

「キミこういうの好きでしょ?オレも好き^^」

 僕は心の中で、「大好き!」と答えずにはいられなかった。この映画は、残虐な殺人シーンに謎の快感を覚えてしまう僕らへのプレゼントであり、「こういうのいいよね^^」というラブレターであり、そんな妙な嗜好を持つ監督自らへの自虐も込めた、地獄のようなコメディである。笑っちゃうくらい残虐で、偏執的で、哀れな殺人おじさん「ジャック」に謎の愛着を覚えながら、人が死ぬ度に大喜びしちゃう、そんな映画なのだ。

殺人嗜好の謎

 それにしてもなんでこんなに映画の殺人シーンに惹かれてしまうのだろう。そういった嗜好の無い人からしたら、僕は殺人衝動を映画で発散しているやばい人間に見えるのだろうか。実際のところ全然そんなことはなく、世の中から暴力は無くなってほしいと思っているし、困っているお年寄りがいれば声をかけるくらいには善良だ。若くして死んでしまった友人のことを度々思い出しては悲しい気持ちになったりもする。心温まる映画だって大好きで、割とすぐ感動して泣いてしまう。それなのに、ジャックのナイフが女の心臓を貫いた瞬間、思わず声を上げて笑っちゃうのだ。ぴゅ~っと吹き出す血を見ると笑いが止まらない。なんでこんなに楽しいのか、自分でもいまいちよくわからない。

 一方映画の中の殺人おじさんは、回りくどい例え話や腐敗の美学などを語り、自分の殺人衝動を芸術に対する衝動と同一のものであるかのように説明している。だがそんな高尚な理屈など後付で、結局殺人の中毒性や強迫観念に駆られてやめられなくなっているだけなのは明らかだ。作中でもそのことは謎のじいさんに看過されている。

ルーツ

 思えば、僕のこの嗜好の原点は高校3年生の頃に遡る。僕は受験生で、元々教育熱心だった親は余計に勉強しろ勉強しろと燃えていた。勉強しろと命令するだけで、何のためにしなければならないのかは説明しない。今となっては、説明しなかったのではなくできなかったのだろうという事はわかる。ただ漠然と「良い人生を送らせるには勉強させなければならない」と信じていただけだ。しかし当時はそんなこと分からない。子供よりは賢く正しいはずの親が勉強しろと命じるのであれば、子供としては従うほかない。だが何故そうしなければならないのかはよくわからない。この「自分が納得して受け入れたわけではないルールに従わされる感覚」というのが、僕には巨大なストレスだった。

 そんなストレスフルな生活の中で、なんとなく惹かれて読んでいたウェブサイトがあった。今奇跡的にタイトルを思い出してウェブアーカイブを発見したのだが、「プロファイル研究所」ってところだ。懐かしきテキストサイト。トップの紹介文に「このサイトは、猟奇殺人を科学的・総合的に研究することを目的としています」とある通り、世界中の猟奇殺人のケースをかなり詳細に紹介し、まともな論考がなされたサイトである。犯罪学の歴史についても詳しい。今読んでもなかなかおもしろい。管理人は何者だったんだろう。ともかく、僕はこのサイトの記事を貪るように読んでいた。既成の秩序や一般的に「成功」とされるライフコースを正しく信奉することができない自分と、秩序から思いっきりはみ出した猟奇殺人犯たち。当時、「こんなにイカれた人間がたくさんいるんだから、自分なんてすごくまともだ」という安堵を得る一方で、彼らの持つ独特の世界観に魅せられていたように思う。秩序の中に身を置こうとしながらも、確かに逸脱への憧れを抱いていた。

解放への憧れ

 この嗜好の源泉は何なのか。言葉にしてしまうと陳腐だが、どうにか説明しようとするなら一番近いのは秩序からの解放への憧れだと思う。社会には無数の規則や常識や価値基準がある。多くの人はそれらの既製品に疑問を持たず、あるいは持ちつつも上手に受け入れ、自然に溶け込めているように見える。だが僕はまるで溶け込めなかった。そんな中で残虐な殺人シーンは、僕を別の星へ連れて行ってくれるロケットのようだ。その突き抜けた逸脱性によって、もはや重力の檻と化した社会秩序を振り切ってくれる。おそらくそんなところに、愛しさを感じてしまうのだろう。

 アルジェント作品みたいなめちゃくちゃな映画が好きなのも、この辺の話が関係しているように思う。そういう映画は「映画ってこういうもの」という僕の認識の枠組みを破壊することによって、心をより自由にしてくれる。いわゆるハリウッド的なエンターテイメント映画を毛嫌いしているわけではないが、興奮度はやはり下がる。そういった映画は僕にとって「めちゃくちゃクオリティの高い吉本新喜劇」である。お決まりのパターンで安定して面白いが、僕に浸透した秩序を揺るがしてはくれない。新喜劇は脱出ロケットにはなり得ない。

結局この世の中が嫌いだって話

 多分そういうことだ。だから別の世界に連れて行ってくれそうなものに惹かれるのだろう。殺人シーンもそのひとつである。幸福な家庭で幸福な幼少期を送り、多くの良き友人に恵まれ、認め合える同僚たちと幸福な職業生活を送っている人には、おそらくこの「ハウス・ジャック・ビルト」は楽しめないどころか、嫌悪感すら覚えるだろう。これは僕のような鬱屈した人間が、同じように鬱屈しているであろう監督と傷を舐め合うための最高に美味いエサである。お前らには一口もやらない。




おまけ:最後の展開について(ちょっとネタバレ)

 冒頭でこの映画はおじさんの殺人を楽しむだけの映画だと書いたが、最後の展開を観てもう少し哲学的な何かがあるんじゃないかと考える人もいるかもしれない。最後は明らかにダンテの「神曲」のパロディである。問答相手として出てくる謎の爺さん「ヴァージ」の名前はダンテの地獄旅行を案内する詩人ウェルギリウス(Vergilius)からとっているのだろうし、「神曲」に挿絵を描いていたウィリアム・ブレイクの名前も出てくる。だが、それがどうしたって感じだ。こんなもの、映画の中でジャックが自身の殺人衝動を高尚なものであるかのように語ったのと同じで、「高尚な映画ごっこ」というギャグに過ぎないのではないだろうか。だってあまりにも「パロってますよ!」というのが露骨で、見せびらかすように手がかりを提示している。ただ「神曲」のパロディを最後に持ってきたのは割と洒落が効いていると思う。あの本読んでみると、ローマ帝国の歴代皇帝や有名な哲学者など名だたる歴史上の人物が好き放題に地獄にぶち込まれている。それがなんだか深刻だけどコミカルなのだ。ダンテ氏にはとてつもなく失礼かもしれないが、好き放題に人を殺してそれをコミカルに描くこの映画となんだか近しいものを感じてしまう。そんなことまで意識して作られているのかはわからないが。

 ともかく、地獄のシーンにそこまで重要な意味が込められているとは僕には思えない。それよりもスタッフロールの後に出てくるテロップが好きだ。飛ばした人は是非観直してほしい。内容は書かないので伝わりにくいと思うけど、あれは、僕があれを読んで「良かった~」と安心しながら、その安心の持つ矛盾に自分でも気づいているということを予期していなければ言えないジョークだ。きっと監督も同じ矛盾を共有しているはずだし、もしかしたら「スプラッター/スラッシャー映画ファンあるある」なのかもしれない。このように、この映画は最後の最後まで殺人シーン愛好家への深い共感に満ちており、込められたメッセージはやはり「キミこういうの好きでしょ?オレも好き^^」なのだ。大好きだよ。

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