エゴイズムと"ファンの気持ち"
「昔は自分のやりたい音楽だけをかき鳴らしていたが、今は聴き手のことを考えるようになった。それが一番の変化だと思う」
僕が歳を重ねるごとに、僕が昔から好んで聴いているアーティストも歳を重ねていく。当たり前のことだが、時々それが奇妙に感じる時がある。改めてその事実を文章として書き起こしている今がまさにそうだ。そして、彼らは今や「中年」から「壮年」と言われる年齢層に差し掛かっていることも多い。そんな彼らは、奇妙にも似た言葉を発し始める。それが、冒頭の言葉だ。その言葉を目にする度に、僕は軽い混乱状態に陥る。
「本当か?」、と。
確かにデビューしたばかりの楽曲と現在の楽曲を比べると、シャウトも減り、スローテンポの曲も増え、音数も洗練されてていく傾向がある。しかし、それらの楽曲の変化は、「聴き手のことを考えるようになった」からなのだろうか。単純に体力の低下と嗜好の変化が主な要因なだけなのではないだろうか。そんなことをどうしても思ってしまう。
そして、いくらシャウトも減り、スローテンポの曲も増え、音数も洗練されていたとしても、僕が好んで聴くアーティストの曲は相変わらずクセが強いままだ。どういったポイントで「聴き手のことを考えている」のか詰問していきたい。とても一般受けはしないし、長年の聴き手(ファン)のことを考えているとも思えない。もしもあれで本当に聴き手のことを考えているのだとしたら、相当見当違いであるとしか言いようがない。
でも、それでいい。
僕はそう思ってしまう。聴き手のことを考えているといいながら、結局アーティストの消すことのできないエゴイズムが楽曲にしっかりと反映されてしまっている。それは白いワイシャツについたカレーのシミのように、何度洗っても消すことができない刻印だ。過去の軌跡が、繊維の1つ1つに分子レベルで結合してしまっている。そのもはや目視できないエゴイズムの破片を感じる瞬間こそが、至高なのだ。
もはやこの分子レベルに分解され、楽曲の裏拍にひっそりと散りばめられたエゴイズムですら、アーティストによって計算されているものなのだろうか?そうだとしたら、僕は認識を根底から改めなければならない。
僕らはアーティストの「エゴイズム」を求め、アーティストはエゴイズムではなく「聴き手の気持ち」を考えている。
両者の出発点は、見事にすれ違っている。JR東京駅の線路のように、決して交わることが無いように思える。しかし、そうはならない。なぜかそれが、両者の想いが1つの楽曲で合致してしまうのだ。そのことが、不思議でならない。
アーティストは「聴き手のために」とウンウン頭を捻り、一方我々は「誰にも影響を受けず、好きなようにやってくれ」と切に願いながら次のアルバムを待っている。両者はその出発点と過程で圧倒的にそれ違いながら、結果として楽曲で繋がり合うことができる。
その様子は、どこか小学生の不器用な恋愛みたいで、かわいい。
僕はそんなことを感じてしまう。