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ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(29)

第六章 公子ジュベ(その4)

 暗い森の中をカーヤに先導されてしばらく行くと、突然、目の前が開け、広い空き地へと出る。そこでは二十名ほどのハッシバル兵が集まって野営の準備をしていた。「!」思わずたじろぐジュベ。
 それをなだめるように、カーヤがこちらを振り返って声をかける。「心配いらないよ。客人のお供だ。あんたに手出しはしないさ。馬を繋いでこっちに来な。」
 『客人? この呪われた魔の森を訪れる客がいるのか?』ジュベは考える。
 空き地の中央には一つの岩山があり、戸口や窓があって中が住居になっている様子がうかがえる。その岩屋の前に、褥(しとね)を幾重にも重ねた席が設けられており、華やかな膝掛けで腰の周りを覆った少女が一人座っていた。
 「ようこそ。私はアーネイラ。この岩屋の主です。」彼女の前へと通されたジュベに向かって、少女はそう挨拶する。
 「私は、子爵ティム=カイガーの一子・ジュベ=カイガー。」彼女に挨拶を返すジュベ。
 「これは奇遇。私はハッシバル家当主、ティルドラス=ハッシバルです。」アーネイラと並んで腰掛けていた、年の頃は二十前後、黒髪で穏やかな顔立ちの青年が言う。
 「ハッシバル伯爵!?」目を見張るジュベ。
 「道に迷われたのですか。何事も起こらぬうちにお連れできて何よりでした。」アーネイラが言葉を継いだ。
 まさか当のティルドラスを目の前にハッシバル家の様子を探りに来たとも言えず、狩りの最中に獅子狒(ラブーン)に襲われたということで通しながら、ジュベはここにやって来るまでの顛末を物語る。
 「それは大変でした。」話を聞いて、同情するようにティルドラスが言う。「さぞお疲れでしょう。ちょうど供の者が食事を作っております。よろしかったらご一緒にいかがですか。」
 一瞬、ジュベの顔に警戒の色が浮かぶ。親切ごかしに食事を勧め、毒でも盛るつもりなのではないか――。だが、この森の中で供も連れず一人きりの自分を害するつもりであればわざわざ毒を盛るまでもないことに気付き、「かたじけない。」と頷く。
 実際、朝早くに食事を済ませてから、午(ひる)になろうとするこの時刻まで何も食べていない。森の中を彷徨(さまよ)っていた時はそれどころではなかったものの、今はとにかく空腹で何か食べたい気持ちだったのである。
 草の褥(しとね)の上に巨木を輪切りにして脚を付けただけの素朴な食卓が用意され、カーヤがアーネイラを恭(うやうや)しく抱き上げてその前に座らせた。その時ジュベは初めて、アーネイラの腰から下が石であることに気付く。
 混乱する気持ちを辛うじて抑えながら、自分もティルドラスと共に食卓に着くジュベ。ややあって、カーヤが鉢に盛られた炊き込み飯、その他二、三品の料理を運んできて彼らの前に並べる。
 「供の者がマクドゥマルで覚えてきた料理です。お口に合えばよろしいが。」とティルドラス。
 彼の言葉におっかなびっくり料理を口に運ぶジュベだったが、一口味わってから「ほう、これは。」と声をあげる。「いや、大変に美味い。この森の中で、このような物が食べられるとは思いませんでした。」
 「本当。美味しいわね。」アーネイラも驚いたように頷く。
 「私もこのような料理は存じませんでした。お気に召したのであれば、後で作り方を聞いて参ります。」彼女の傍らで給仕をしながらカーヤが言った。
 彼らの様子を少し離れた場所から眺めながら、不満げにぼやくハカンダル。「畜生め。残り物を期待してたのに、客が増えたおかげで、俺にまで回ってこなくなっちまった。」
 「うう、感激だ。俺の作った料理が、ティルドラスさまやアーネイラさまだけじゃなくって、よその国の公子さまにも召し上がっていただけるなんてよ。」その横で感極まったようにバーズモンがつぶやく。
 「けっ、この間抜けめ。自分で食えねえご馳走に喜んでどうするんだ。だいたい何を見てやがる。てめえは公子さまってぇがな、ありゃあ――」
 「大声出すなよ、兄貴。カーヤ婆あがこっちを睨んでるぜ。」ケスラーがハカンダルをたしなめる。
 「それにしても――、」ようやく人心地つき、いくぶん気持ちも和らいで、ティルドラスに尋ねるジュベ。「なぜ、ハッシバル伯爵がこの呪われた――いやその、人の近寄ることも稀なこの森を訪れておられるのでしょう。」
 「さしたる事ではありません。以前世話になり、以来、折に触れて訪ねるようになったのです。」そしてティルドラスは、ダンとの跡目争いの際に捕り手から逃れてシュマイナスタイに迷い込み、アーネイラに助けられたことを物語る。
 彼の話を聞きながらジュベは考え込む。いったいこの人物はどういう人間なのだろう。事情は分かったが、伯爵になった後も、この呪われた森に足繁くやって来ては、臆することもなくこうして平然と談笑している。それだけではない、初対面で気心も知れず、実際、ハッシバル家に敵対的な意図を持ってこの地にやって来た自分に対してさえ、こちらが戸惑うほどの大らかで親しげな態度を取ってくる。
 だからといって、決して愚かで物事の道理も分からないような人間というわけでもなさそうである。むしろ、話し方も筋道立ち、物腰は礼儀正しく、ハッシバル家からの書状にあったような傲岸不遜さとは、およそかけ離れた印象だった。
 「そういえば、私の留守中に、叔母が貴国に宛てて無礼な書状を送ったとか。何とぞご容赦願いたい。」そのジュベの気持ちを読んだかのように、ティルドラスが言う。
 「い、いえ……。」少し虚を衝かれて口ごもるジュベ。
 そのあとも穏やかな雰囲気での会話が続く中、用足しのため席を立ったティルドラスにカーヤが歩み寄り、小声で耳打ちする。「一応教えておくよ。気付いてないだろうが、あの子はね――」
 「いえ、気付いています。」彼女の言葉にかぶりを振るティルドラス。「いろいろと事情もあるのでしょう。ここは、あまり深く問い詰めないでおきます。」
 「……まあ、あんたがそう考えるなら、別に口出しはしないさ。」とカーヤ。
 やがて食事が終わり、頃合いを見計らってジュベは切り出す。「残してきた供の者たちが心配です。戻りたいのですが、案内していただけますか。」
 「送って参ります。」アーネイラの傍らに控えていたカーヤが頷いて立ち上がった。
 アーネイラとティルドラスに別れの挨拶を済ませ、カーヤに案内されて森の中へと入っていくジュベ。「どうやら、あんた、お姫(ひい)さまに気に入られたみたいだね。」森の中を歩きながら、カーヤは一枚の紙を取り出してジュベに手渡す。「これを渡しておこうか。この紙に報せを書いて、鳥の形に折ってから『シュマイナスタイへ』と声をかければ、あたしたちの所に飛んできてくれる。また来たくなったら、これを使って報せな。」
 いくらも経たないうちに二人は森を抜け、先ほどの草原に出る。見れば、少し離れた場所に供の者たちが三、四人集まり、おろおろした様子で何やら話し合っていた。馬に鞭を入れ、そちらに向かって走り出すジュベ。同時に供の一人がその姿を認めて「ジュベさま!」と声をあげる。
 続いて別の一人が腰に下げた角笛を取り上げ、二度、三度と高らかに吹き鳴らす。その音に応じて、周囲に散ってジュベを探していたらしい者たちが、草原のむこうや森の中から次々に馳せ戻ってきた。「おお!」「よくぞご無事で!」「お怪我はございませんでしたか?」
 「皆、無事だったか?」集まった者たちに声をかけるジュベ。
 「獅子狒(ラブーン)どもはなんとか追い払いました。アペルホフがかなりの深手を負わされましたが、命に別状はございませぬ。後の者たちは薄手でございます。ただ、馬二頭が殺されました。」供の一人が答える。
 「この方が――」傍らを振り返るジュベ。だが、その時にはもうカーヤはそこにはおらず、ずっと向こうに、森の中に戻っていく彼女の後ろ姿だけが見えた。
 ともあれ、こうなっては偵察どころではなく、一行はそのままトーラウに戻る道をたどる。『ティルドラス伯爵……。』馬を進めながら考えるジュベ。『思っていたのとは全く違う人物のようだ。というより、何やら捉えどころのない人物だった。よく分からぬ。』

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