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ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(44)

第九章 位牌の前で(その4)

 「迂闊(うかつ)でございました。」とアンティル。「パドローガルの銀器は見る者の心を奪う魔性の品。身近にあれば、当然我が物としたくなりましょう。」
 「ただちに叔母上のもとに行き、本物を取り戻して――」そう言って席を立ちかけるティルドラスを、アンティルは鋭い声で遮(さえぎ)る。
 「なりませぬ! いずれ露見することを摂政が予想しておらぬはずがございませぬ。」知らぬ存ぜぬを通されれば、証拠もない現在の状態では、こちらとしてはそれ以上追求できなくなる。「それだけではありませぬ。おそらく使者のお三方に、道中銀器をすり替えたとの罪を着せる手はずが整っておるはず。偽の証拠・証人さえ準備しておりましょう。」
 「では、どうすれば良い?」
 「銀器を摂政から取り戻すのはおそらく不可能でございます。ここはトッツガー家に釈明の書状を送り、交渉の再開にこぎ着けるしかありますまい。」アンティルは言う。「そもそもメイル子爵がパドローガルの銀器を手に入れたというのが間違いであった、本物はハッシバル家がキナイからエル=ムルグ山地へと逃れる中で失われ、未だ所在がわからぬままである――。」
 ――銀器が偽物であったことに気付かず、貴国に対して大きな非礼を行ってしまったことは真(まこと)に遺憾であるが、しかし我が誠意は理解いただけたかと思う。いずれ本物を取り戻すことがあれば、その時こそ礼を篤くして貴国に進呈することをお約束する。今回の銀器は我が気持ちの証(あかし)として、何とぞお受け取り願いたい。――この書状はその日のうちに駿鷹(ヒポグリフ)でアシュアッカのイックたちのもとに届けられ、翌日再度行われた引見の場でイエーツに手渡される。
 苦しい言い訳である。トッツガー家にしても、おおよその真相は察しが付いているだろう。だが、なんとか場を取り繕(つくろ)って交渉を再開させ、一方でイックたちがサフィアによって罪に落とされるのも防がねばならないティルドラスとしては、他に方法はなかった。
 書状に目を通したイエーツは一言も答えぬまま使者たちを退出させ、自分も謁見の間を後にして奥まった部屋に一人向かう。香の臭いが立ちこめる薄暗いその部屋には、壁にしつらえられた祭壇に数多くの位牌が並べられていた。
 ミスカムシルでは古くから、石や木、陶器(故人の遺灰や遺髪などを混ぜて焼くこともあった)などで作った位牌を死者の魂の依(よ)り代(しろ)として祭礼に使う風習があった。特に戦乱に明け暮れたこの時代には、異郷の地での戦死や行き倒れで遺体が遺族のもとに帰らないことや、故郷を追われて先祖代々の墓所を訪れることができなくなることが頻繁に起きたため、代わりに位牌を作り、それを用いて死者への祭礼を行う文化が広まったと『ミスカムシル史大鑑』は述べている。貴族の家などでは位牌を安置する専用の部屋が設けられることも多く、この時イエーツが訪れたのも、そのための一室だった。
 並んだ位牌の中から一つを手に取り、愛(いと)おしさと悲しさの混じった眼でそれを見つめながら、イエーツは呟く。「ピウツ……。なぜ死んだ……。」
 ピウツ=トッツガーはイエーツが二十一歳の時に生まれた長男である。母は当時イエーツの正妻だったティキナ、キッツ伯爵の旧主であったナブルグ=オリディオンの一族の娘である。高慢で嫉妬深く細かなことに口うるさい女性で、夫婦仲は決して良くはなかったものの、それでも当時は、ピウツの存在が二人の仲をつなぎ止めてくれていた。
 ピウツは幼いころから明るく活発でしかも聡(さと)く、人の心を魅了するところがあった。当時ハッシバル家の主であった開祖・キッツ伯爵もピウツをことのほか可愛がり、よく彼を膝の上に抱き上げながら言ったものである。
 ――イエーツどのは良いお子を持たれたな。このお子がおれば、トッツガー家の未来は安泰というもの。いやはや、妬ましささえ感じてしまうわ。――
 ――そうじゃ、お主、サフィアの婿にならぬか。そうなればお主も儂の息子じゃぞ。――
 希代の誉め上手といわれたキッツ伯爵である。こちらをおだてて良い気分にさせるためなのは分かっていた。騙されまいとも思っていた。そもそもキッツ伯爵がピウツを児小姓(こごしょう)として当時のハッシバル家の国都・キナイに留め、トッツガー家の本拠地であるアシュアッカに帰すことがほとんどなかったのも、彼を一種の人質とする意図があったのだろう。だが、ピウツ自身はそうは思わなかったらしい。長じて後もキッツ伯爵との思い出を懐かしげに語り、事あるごとにハッシバル家への忠誠心を口にするのだった。
 しかし、キッツ伯爵の死後、跡を継いだフィドル伯爵の失政により求心力を失ったハッシバル家は、属国や武将の離反、各国からの間断ない攻撃によりじわじわと国力を磨り減らしていく。その中でピウツは、二十前の若さにも拘わらず、トッツガー家から派遣された軍を率いてハッシバル家のため各地に転戦を続ける。歳の離れた妹であるミレニアがティルドラスの婚約者としてハッシバル家に送られることが決まった時も、一族の誰よりも熱心にそれをイエーツに勧めたのがピウツだった。
 ハッシバル家の未来は危うい、忠誠を尽くしてはかえって災いに遭いはせぬか――。ピウツを眺めながらイエーツは密かに心配していた。その危惧は的中する。ピウツが校尉として守備に加わっていたアダルの砦がデクター家の大軍に急襲され、奮戦も空しく全滅したとの情報が飛び込んできたのである。
 ――聞くところでは一兵たりとも生き残らなかったとか。――
 報せを受け、目の前が真っ暗になるイエーツ。何かの間違いであってほしいという願いも空しく、次々に入る続報によって、それが事実であることが裏付けられる。その中の一つ、寄せ手であるデクター軍が公表した戦果の中には、討ち取った校尉の一人としてピウツの名前もあった。
 悲嘆に暮れるイエーツに、さらに追い打ちをかけるような話が伝わってくる。アダルの砦の陥落の報せにフィドル伯爵が言い放ったという言葉である。「砦の一つや二つ、何ほどの事があろう。我が国の領土はまだ広い。余が人生を楽しむに足るだけの富はまだまだ残っておるはず。憂うほどの事ではあるまい。」
 『あれがその報いか。』位牌を手にイエーツは、その言葉を伝え聞いた時の憤怒を思い出す。『ピウツの忠誠も死も、ハッシバル家にとってはその程度のものだったのか。』
 フィドル伯爵の言葉は、単に負け惜しみの虚勢だったのかもしれない。しかし、だからといって許すことはできない。
 もともとイエーツ自身はハッシバル家への忠誠心は薄かった。機会があればハッシバル家の支配を脱し、できることなら取って代わってやろうとも思っていた。だが、ピウツの死がなければ、それを実行に移すことなどなかったかもしれない。
 アダルの砦の陥落後、天下の諸侯は同盟を結んでハッシバル家を攻撃する動きを見せる。これに対してフィドル伯爵は、当時のハッシバル家尚書令・トリドゥン=イシュルティに全軍の指揮を委ね、各国の侵攻を迎撃するよう命じた。その中でイエーツも、ハッシバル軍の主力として諸将を統括する重要な役割を与えられる。だが、彼自身は命じられるままハッシバル家のために働く気などない。逆に、配下として指揮を任されたハッシバル家の武将のうち、本来文官であるイシュルティの指図を受けることに不満を持つ者を焚き付け、迷っている者は脅し、貪欲な者には利益をちらつかせて、密かに味方に引き込んでいった。
 間もなく諸侯の連合軍とハッシバル軍はシュムナップの地で激突する。総大将として自ら先陣を務めたイシュルティは、まずは手持ちの兵力で全力を挙げて敵を食い止め、後方からイエーツ率いる主力が到着するのを待って一気に反撃に転じる作戦を立てた。彼の作戦通り、ハッシバル軍は数に勝る敵の猛攻に耐え、援軍の到着まで持ちこたえる。あとはイエーツが疲れた敵を撃破し、勝利を確実にするだけだった。
 だが、到着した援軍は、イエーツの命令一下、逆に疲れ切ったハッシバル軍めがけて襲いかかる。裏切った味方と前方の敵の挟撃を受けてハッシバル軍は壊滅、従軍していた諸将も、あるいは戦死し、あるいは捕虜となり、あるいは身一つで逃亡して、イシュルティ麾下の軍勢は完全に崩壊する。
 総大将のイシュルティは、捕らえられ、かつての同僚たちから罵りや嘲りの言葉を浴びせられる中でも昂然と頭を上げ続けていた。首を打たれようとする時にも、東を向いて跪かせようとした兵士を「我が君は西におわしまするぞ。東向きで死ぬことなどできぬ! 西を向かせい!」と一喝して西へと向き直り、「天よ、ハッシバル家に栄光を!」と叫んで首を打たれた。
 『なるほど、確かに、お前はお前でハッシバル家に殉じる覚悟を持っていたのだな。覚悟も持たぬまま口先だけ勇ましい言葉を叫ぶ卑怯者でなかったことは認めてやろう。』イエーツは考える。
 シュムナップの敗戦により、フィドル伯爵はキナイを捨ててエル=ムルグ山地へと逃亡。諸侯の側に寝返ったトッツガー家はハッシバル領の半分を手に入れ、一躍、天下有数の大国となる。
 だが、それでピウツが帰ってくるわけではない。彼を失ったことで、もともと良くもなかった正妻・ティキナとの関係は冷え切り、程なく破局を迎える。以来、イエーツは正室を持たぬまま、各地で女を漁り続けた。女を漁れば、いつかまたピウツのような息子を得られるのではないか――、そんな気持ちもあったらしい。
 確かに聡(さと)い息子はいる。武勇の息子はいる。だが、ピウツのように自分が築き上げたものの全てを安心して遺(のこ)すに足るだけの息子は、ついに得られぬままだった。
 『そう、迷うことなどなかったのだ。』位牌を手に、イエーツは独り考える。『渡すものか。息子を奪われ、さらに今また娘までをくれてやるいわれなどない。所詮ハッシバル家など、我が一族にとっては災いしかもたらさぬ。いずれは滅ぼすべき敵よ。』ミレニアには、ティルドラスよりもっと良い夫を自分が見つけてやろう。パドローガルの銀器など、いつか自分の力で奪い取ってやれば事足りる。そう、それで良いのだ――。
 翌日、トッツガー家はミレニアとティルドラスの縁談を拒絶する旨を公式に通達し、イックたち三人に国外への退去を命じる。同時にアシュアッカの街には、ミレニアの縁談についての話を禁じ、違反した者は重く罰する旨の布令が出された。市民たちは怯えて口をつぐみ、ティルドラスのミレニアへの求婚そのものが、あたかも存在などしなかったかのように、人々の会話から、そして脳裏から消えていく。
 ジョーを助けた商家の主人は、流言を広め公爵家への誹謗を行ったとして投獄され、そのまま獄死する。後にそれを知ったジョー、そしてアンティルは、終生、彼を災いに巻き込んでしまったことを悔やみ続けたという。
 影響はトッツガー家の上層部にも及ぶ。ハッシバル家との縁組を強く主張したヤヤンとキンダルは、これをきっかけにイエーツに疎まれるようになり、数年後、共にイエーツの命により自害に追い込まれることとなった。
 交渉は失敗に終わったのである。

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