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ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(27)

第六章 公子ジュベ(その2)

 だが、そうした努力を重ねても、小国は所詮小国のまま。ハッシバル家の見下したような態度にも、黙って耐えるしか道はない。
 フィドル伯爵の一周忌の式典には、令尹(れいいん)で尚書令を兼ねるファイチャイ=ナックホン、そして筆頭将軍のクシル=シェルベンベの二人を派遣して列席させる旨を回答する。二人とも、ティムと共に国を建てた同志の息子で、行政と軍事の分野でそれぞれ子国の筆頭にある人物である。ハッシバル家としてもそれで体面が保てると思ったのか、特に苦情めいたことも言ってこなかった。
 しかしジュベの気持ちは収まらない。「父上、なぜ、ハッシバル家に対してここまで卑屈な態度を取られるのですか!」二人の列席者を送り出した数日後、家臣たちも出席しての朝議の席で、ジュベはそう父に食ってかかる。
 「やむを得まい。」ため息をつくような口調でティムは言う。「ハッシバル家がバグハート家を亡ぼしてその領土を併せた今、我が国との力の差は歴然たるものがある。ここは礼を尽くして両国の間に波風を立てぬようにするべきであろう。」
 「納得いきませぬ!」とジュベ。「我が国は小国との仰せですが、今であれば土地を広げることは可能です。先にハッシバル家はフィドル一世の後嗣をめぐる争いとティルムレチスの戦いで国力を磨り減らし、さらにその後ミストバル家との戦いで大敗、そして休む間もなくこのたびの戦。結果としてバグハート家の領土を併せたとはいえ、兵は疲れて戦いどころではないでしょう。今、ハッシバル家の衰えにつけ込んで兵を動かせば、キクラスザール、いや、あわよくばネビルクトンさえ我らのものとなります。ハッシバル家に目にもの見せてくれようではありませんか!」
 「そうした甘い見通しで軽々しく兵を動かしたがために、バグハート家は国を亡ぼすこととなったのだぞ。」ジュベをたしなめるようにティムは言う。
 「しかし父上――。」
 「儂としてはむしろ、ハッシバル家との友誼(よしみ)を深めたいと考えておるのだ。」ティムは続ける。「建国以来、我が国はハッシバル家との間に事を構えたことはなく、当代のティルドラス伯爵は温厚で信義に厚い人物とも聞く。その育ての母であるルロア太夫人の実家・シーエック家にも、かつてひとかたならぬ恩義を受けた。」そしてティムは、何やらジュベから目をそらしながら、歯切れの悪い口調で言う。「お前もむしろ、ネビルクトンに赴いて、ティルドラス伯爵やルロア太夫人に見(まみ)えてみてはどうかと思う。考えてみてはくれぬか。」
 「それは……」父の言葉に息を呑むジュベ。「それは、私を人質としてハッシバル家に差し出すということですか。」
 「人質というわけではない。ただ……、それが我がカイガー家にとっても、お前自身にとっても、あるいは最善の道なのではないかと……。」言葉を濁すティム。
 「父上!」叫ぶジュベ。「そのような憂き目に遭うくらいなら――、私はハッシバル伯爵と刺し違えて死ぬ道を選びます!」そしてジュベは、痛ましげに自分を見やる家臣たちの視線の中、広間を飛び出していった。
 そのあと自分の館に籠もって誰にも会わぬまま鬱々とした日々を過ごしたあと、ジュベは唐突に宮廷を離れて東に向かう。目指すはキクラスザールの西方、ハッシバル家との国境地帯だった。父のティムには狩りに行くと言付けたものの、本心では偵察行動である。
 数日の間、ジュベはわずかな供の者と共に国境周辺を歩き回っては周辺の様子を探り続ける。『辺りに砦や大規模な兵営を設けている様子はない。見回りの兵の姿も見かけぬ。国境付近の警備は手薄と見た。』その日もシュマイナスタイの森に近い人気のない荒野を馬で巡りながら、ジュベは内心考える。『おそらくハッシバル領内に攻め入ること自体は容易だろう。問題は、キクラスザールの周辺にどの程度の兵力を配しているかだが……。』
 と、その時、彼らのすぐ近くで何やら呼び交わすような吼え声が響いたかと思うと、少し離れた草むらをかき分けて、たてがみに囲まれた巨大な青黒い頭部と黄褐色の体を持つ、人の背丈より大きな猿が五、六頭姿を現した。
 「獅子狒(ラブーン)だ!」供の者たちが叫ぶ。群れをなして獲物を襲う、獰猛で狡猾な肉食性の猿である。
 同時に、ジュベの乗った馬が悲鳴のようないななきを上げ、制止も何も意に介さず無茶苦茶に走り出す。
 「ジュベさま!」慌ててジュベの後を追おうとした供の者の背後から一頭のラブーンが躍りかかり、彼の肩口に鋭い爪を突き立てた。馬から転げ落ち、地面に転がる供の者。彼の上にのしかかり、喉笛を食い破ろうとするラブーン。しかしその背中めがけて、別の供回りの一人が馬上から深々と槍を突き刺す。刺されたラブーンは甲高い吠え声を上げ、横に飛びすさって身構えた。そのすぐ横で、乗り手を失ったまま走り出そうとした馬の首筋に別のラブーンが喰らいついて地面に引き倒し、さらに別の一頭がその腹を喰い破ってはらわたを引きずり出す。
 背後に絶叫と荒々しい吼え声を聞きながら、恐怖に駆られて疾走する馬をジュベは辛うじて御し続ける。背後から追ってきた二頭のラブーンを弓で射すくめ、一方で振り落とされぬよう必死で馬上にしがみつく中、馬はラブーンたちを引き離して手近の森へと駆け込んだ。生い茂る木々の間をしばらく走り続けたあと、やがて馬が幾分落ち着いて歩みを緩めるのを待って、ジュベは手綱を引き締め馬を止める。
 「ここは?」辺りを見回すジュベ。気がつけば、そこは鬱蒼と巨木が茂る、人気のない森の中だった。「戻らねば。確かあちらの方角から来たはずだ。」
 先ほどのラブーンたちがどこかに潜んでいないか周囲に注意を払いながら、弓を手にゆっくりと馬を進めるジュベ。だが、進めば進むほど森はいよいよ深く、日の光さえ射さない場所が次第に多くなっていく。
 「おかしい。この方向で間違いないはずなのだが。」額に浮かぶ冷たい汗を拭いながら、ジュベはそう独りごちた。
 その時、少し離れた場所に何か人影のようなものがあるのが眼に入った。「?」多少警戒しつつそちらに歩み寄るジュベだったが、十歩ほど進んだところで慄然(りつぜん)として目を見張る。
 それは生きた人間ではなかった。灰色の顔色に大きく見開かれた瞳のない眼。半ば上げかけた手を前に突き出した姿勢で身動き一つせずその場に立ち尽くす、人の形をした一個の石塊だった。
 「石人の森――シュマイナスタイ!」息を呑むジュベ。「どうしよう。迷い込んでしまった……!」


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