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ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(36)

第八章 結婚外交(その1)

 使者も決まり、トッツガー家に婚約の履行を求める動きは進み始める。
 その使者に決まったイック=レックの自宅に、今、ある訪問者があった。年の頃は四十過ぎ。顔立ちはイックに似ているものの、貧弱な体格でひょろりと背の高いイックと違って、中背で肩幅の広いがっちりとした体型である。
 訪問者と呼ぶのは適当ではないかもしれない。彼の名はジョー=レック。イックの年の離れた弟で職業は薬の行商人、本来はこれがレック家の家業である。もともとユックル近郊の村で家族ともどもイックと同居していたが、ちょうどハッシバル家とバグハート家の戦いが始まる直前に行商の旅に出ており、イックとは半年以上ものあいだ顔を合わせていなかった。
 「いったい何がどうなってるんだ。」疲れと呆れといくぶんの腹立ちを込めた口調で、兄に向かってジョーは言う。「旅先でハッシバル家とバグハート家の戦の話を聞きつけて、慌ててユックルに帰ってみれば家はもぬけの殻。驚いて近所のみんなに尋ねて回ったら、兄さんはハッシバル家に仕官して、俺の家族も連れてネビルクトンに越して行ったって話じゃないか。もう何が何やら……。」彼は大きなため息をついた。
 「書き置きを隣のンボマの家に預けておいたはずだ。」とイック。
 「あんな短い手紙で話が分かるかよ。さっき、先に女房に話を聞いてようやくいきさつを呑み込めたところだぜ。だいたい、せっかく学問を修めたくせに仕官もせずに村の木戸番と手習いの師匠で細々と暮らしてたのが、その年になって突然仕官する気になったのはどういう風の吹き回しだ。」
 「思うに、ニルセイル子爵もメイル子爵も仕えるに足る人物ではなかった。」少し遠い目になりながら、独り言のようにイックはつぶやく。「たとえバグハート家に仕えたとしても、おそらくはメイル子爵に疎まれ、讒言(ざんげん)を受けて罪に落とされていただろう。だから世を避けて難を逃れていたまでだ。だが、ティルドラス伯爵は違う。ようやく仕えるべき君に巡り会えた気持ちだ。」
 「兄さんはそれで良かったかもしれないけど、家族はたまったもんじゃないぜ。おかげで義姉(ねえ)さんがどれだけ苦労したと思ってるんだよ。」
 「確かにあれには苦労をかけた。これからは、いくらか楽をさせてやらぬとな。」イックは頷いて立ち上がる。「ちょうど良い。お前を伯爵に推挙しようと思っていたところだ。これから登城する。ついて来い。」
 「冗談じゃない。俺は薬の行商人だぜ。いきなり宮廷に連れて行かれても、お役人なんか務まるかよ。」驚いたように言うジョー。
 「いいから来い。今、伯爵の周囲には人材が必要なのだ。お前なら堀の埋め草くらいにはなるだろう。」
 「なんて言い草だ。こっちの都合も聞かずに……。兄さん、お役人になってわがままに磨きがかかったんじゃないのか。」ぶつぶつ言いながらもジョーは宮廷に連れて行かれ、そのままアンティルと面会することになった。
 「私の弟でジョーと申します。非才ながら、伯爵のお役に立てればと思い連れて参りました。」そう言ってジョーをアンティルに引き合わせるイック。
 「お初にお目にかかります。私はペジュン=アンティルと申す者。ティルドラス伯爵のお側に仕えます郎(ろう)でございます。」紹介を受け、ジョーに向かって頭を下げるアンティル。
 「いやその……。ご丁寧に痛み入ります。」周囲の雰囲気とアンティルの丁重な態度に気を呑まれたのか、へどもどと挨拶を返すジョー。
 「伯爵のご家臣に推挙したいとのお話ですが、いかなる才をお持ちの方でございましょうか。」イックに向かって尋ねるアンティル。
 「そう、例えて申すならば、ウェスガー家の筆頭軍師・ディディエのような役割を期待していただければ……。」
 「おい、止めてくれよ兄さん。」その知略を天下に知られ、さらに自ら軍を率いて武勇を示すこともあるディディエを引き合いに出されて、ジョーは困った顔になる。
 「それはつまり、策を立てるも自ら軍を率いて戦うもこなせる人材ということでございますかな?」驚く様子も呆れる様子もなく、あくまで真面目な面持ちでアンティルは言った。
 「左様。むろんディディエには遠く及びますまいが、私と違って武勇の腕もあり、天下を歩き回っていたため各国の事情にも詳しく弁も立ちます。以前、行商の途中に追い剥ぎに襲われ、五人の相手を一人で斬り伏せて難を逃れたこともございました。身内を推挙するのは気が引けますが、間違いなく今の伯爵のお役に立てましょう。」
 「止めてくれって。」とジョー。
 「一つお尋ねしたいが、これまでにトッツガー領、特に国都・アシュアッカを訪れられたことはございますかな?」彼の困惑には構わず、アンティルは尋ねる。
 「アシュアッカなら二度ほど……。」
 「そこに顔見知り、特に、以前世話になったような人物はございますか?」
 「五年ほど前、行商でアシュアッカに滞在していた時に病で倒れて、宿も追い出され行き倒れになりかけていた時に、私を助けて病が治るまで家に置いてくれた商家の主人がいました。恩を返したいと思いながら、それ以来アシュアッカに行っていないので、そのままになっています。」
 「素晴らしい!」目を輝かせるアンティル。「では、こういたしましょう。ジョー=レックどのは、今回、案内役を兼ねた付き添いとして兄上どのに同行していただきます。アシュアッカでその恩人に会って手厚く礼をし、その際に今回の使者の用向きを打ち明ければ、あとは策を弄さずとも伯爵がミレニア公女との縁談をトッツガー家に申し入れた件は世人に知られることとなるはず。伯爵ご自筆の礼状もあれば、さらに評判は広まりましょう。」
 「おお、なるほど。世評を背景に、トッツガー家が縁談を認めざるを得ぬ機運を作るわけでございますな。それは妙案!」彼の言葉にイックも頷く。
 「勝手に話を進めないで下さいよ。」困惑したように声をあげるジョー。
 ともあれ、こうして人員もそろい、交渉の方針も固まるが、最後の大きな問題が残っていた。パドローガルの銀器を伯爵家の宝物庫から持ち出すことである。
 むろん、伯爵家の至宝であるパドローガルの銀器を勝手に持ち出して引き出物とするなどサフィアが許すはずもなく、結局、盗み出すような形にならざるを得ない。
 「これは伯爵ご自身でなさらねばならぬ事。」厳しい口調でアンティルが言う。パドローガルの銀器をトッツガー家への引き出物としたことはいずれ大々的に世間に公表する必要がある。その時、持ち出しを実行したのが他の者では、それがたとえティルドラスの命令であったとしても伯爵家の宝物を盗んだ罪を問われることになり、おそらく死罪は免れない。「それも、一つとして欠けてはならぬのは無論のこと、箱書きまで揃った完全な形で持ち出す必要がございます。機会は一度きり。失敗すれば二度目はないことはご承知おき下さい。それはすなわち今回の縁談そのものが潰(つい)えることも意味します。」
 「分かった。そもそも全ては私自身の縁談のため。お前たちを危険にさらすわけには行くまい。ただ、手筈だけは考えてほしい。」
 「万全を尽くすようにいたします。」頭を下げるアンティル。
 本物と入れ替えるための偽の箱は、ティルドラス自身が使っている工房を借りてオールディンが手作りする。外見を似せて作った木の箱に、松脂(まつやに)や煤(すす)、柿渋などで古びた感じを出し、箱書きや印章も注意して見ねば気付かぬほどのそれらしいものに仕上がった。
 「器用なものだな。」出来上がった箱を眺めながら感心したように言うティルドラス。
 こうした動きの中に、なぜかチノーの姿はない。そもそも最近彼は尚書たちが事務を行う部屋に詰めることが多く、ティルドラスの前に姿を現す回数さえ減っている。『尚書としての仕事が忙しいのであろう。』ティルドラスはそう考えて、さほど気にも留めずにいた。

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