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ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(45)【最終章】

終章 旅立ち

 縁談が失敗に終わったという情報は、その日のうちに、駿鷹(ヒポグリフ)とともにトッツガー領からの退去を命じられたバグハート忍群の忍びたちによってネビルクトンにもたらされる。
 「申し訳ございませぬ。」ティルドラスに向かって深く頭を下げるアンティル。「あれだけのことを申しておきながら、伯爵のご期待に背くこととなってしまいました。」
 「お前が悪いわけではない。お前は万全の手立てを考えてくれた。むしろお前の立てた策があったからこそ、あと一歩の所まで漕ぎ着けることができたのだ。」深い落胆を隠せぬ面持ちで、それでもティルドラスは静かにかぶりを振る。「他の者たちもそれぞれ最善を尽くしてくれた。誰を責めることもできぬ。」
 黙り込む二人。ややあってティルドラスは独り呟くように「ケーシに赴き、王家への参朝を行うこととする。」と口を開く
 「下策を取られるおつもりですか?」目を見張るアンティル。ケーシへの参朝を行い、ティンガル王家のお声掛かりでトッツガー家にミレニアとの結婚を承知させる策。だが、彼がこの時期に長期に渡って国を離れれば、その間、サフィアは彼の不在を良いことに国政を壟断(ろうだん)し、国のあり方そのものを自分に都合の良いように変えてしまうだろう。そうなればティルドラスが国権を取り戻すことはいよいよ難しくなる。「しかも、王家のお声掛かりがあったとしても事が成るとは限りませぬ。成功する見込みは十のうち一か二といったところでございましょう。」
 「それでも良い。」苦渋に満ちた表情でティルドラスは言う。「たとえわずかでも望みがあるならば、私はそれに賭けたいと思うのだ。分かって欲しい。」
 アンティルはしばらく黙然としていたが、やがて、ため息をつくような口調で言った。「そこまでの仰せであれば、もはや私が申し上げることはございませぬ。事がならなんだのは、摂政がパドローガルの銀器をすり替えている可能性に思い至らなんだ私の責任でもございます。――ただ、残念ながら、私はケーシにお供することはできませぬ。」
 「ついて来てはくれぬのか?」驚くティルドラス。
 「おそらく私がお供しても、伯爵の助けにはなりますまい。」身分・官位に極端にうるさいティンガル王家の朝廷では、官位の低いアンティルは朝廷の高官と直接口をきくことさえ許されない。ティルドラスに同行する随員も高い官位の者たちで固められることになり、アンティルが指示を与えることはできないだろう。「それよりは、国に残り、少しでも劣勢を挽回するよう努めさせていただきます。」
 「……残念だ。いろいろと助けてもらいたかったものを。」彼の言葉に肩を落とすティルドラス。
 「せめて、ご出立までの間に、伯爵がなすべき事、知っておくべき事を能(あた)う限りお教えするようにいたします。」アンティルは続ける。「おそらく今回のケーシへの参朝は、伯爵にとって失うものは多く、得るところは少ないものとなりましょう。ただ、その中で他国と誼(よしみ)を結び、猛士・賢者を得られるならば、あるいは凶を転じて吉とすることができるかもしれませぬ。それを心がけられますよう。」
 報せを受けてサフィア一派は快哉を叫ぶ。ミレニアとの結婚が破談となり、ティルドラスがトッツガー家の後ろ盾を得て自分たちの権勢を脅かす心配はなくなった。パドローガルの銀器を密かに偽物とすり替えたことも、バグハート家が銀器を手に入れたという話自体が間違いであったとされたことで事実上不問となる。さらにティルドラスが自ら進んでティンガル王家への参朝を行うという。これで、ティルドラスがいない間、自分たちは国内で思うままに権力を振るうことができる!
 「いやはや、ここまで事がうまく運ぶとは思わなんだ。」内輪で行われた宴席で、杯を手に、令尹のアッサウが上機嫌で言った。
 「欲を言うならば、使者の三人を、道中銀器をすり替えた罪に問うておきたいところでございましたな。わざわざ証拠証人まで集めて告発の手筈を整えておりましたものを。」とネイカー。
 「ともあれ、伯爵が仇敵たるトッツガー家の娘を娶るようなことにならなんだのは重畳(ちょうじょう)。」サフィアが言う。「あとは王家への参朝にあたって、伯爵が朝廷に礼を失せぬよう、しかるべき者をお付きに選ばねばのう。フォンニタイ、やってくれるか。」
 「お任せ下さい。常にお側にあって、伯爵が道を踏み外さぬよう見守らせていただきたいと存じます。」とフォンニタイ。
 その時、一人の小吏が小走りに現れ、何やらネイカーに耳打ちする。ネイカーは頷くとサフィアに向かって言った。「チノーが次の間に参っておるとのこと。お目通りを許してよろしゅうございますか?」
 「おお、呼ぶが良い。」頷くサフィア。
 「このたびはチノーも役に立ってくれましたからな。ねぎらいの言葉をかけておかねばなりますまい。」とネイカー。ここしばらく、チノーは彼に命じられてティルドラスの動向をサフィアに説明することが多く、その中で今回のトッツガー家との交渉の詳細についても、巧みに誘導されてかなりのことを聞き出されてしまっていた。
 間もなく取り次ぎの小吏に案内されてチノーがサフィアの前に進み出る。「お呼びにより参上致しました。おくつろぎのところ、失礼致します。」
 「構わぬ。役目、大義じゃ。」鷹揚に頷くサフィア。「今日呼んだのは他でもない。知っての通り、近く伯爵がケーシに上り、王家へのお目通りを行うこととなった。ついては、以前からの話の通り、お主を尚書丞(しょうしょじょう)に任じ、伯爵の王家への参朝にあたって万事を取り仕切らせることになる。一両日中に昇進の辞令が下されよう。心して待つが良い。」
 「有り難き幸せ。」そう言って頭を下げたものの、チノーの表情は複雑だった。果たして自分はこんな所にいて良いのだろうか。
 「参朝にはフォンニタイも同行する。二人で伯爵をお助けして万事滞りなく運ぶよう勤めるとともに、伯爵のご動向についてネイカーにも子細に報告を行うよう、しかと命じておくぞ。」
 こうしてサフィア一派が嬉々としてティルドラスを送り出す準備を進める中、ティルドラスは残されたわずかな時間を縫ってシュマイナスタイのアーネイラを訪れる。今回はチノーは供回りに加わらず、代わってアンティルが彼に同行した。自分が不在の間、アンティルがアーネイラの力を借りねばならぬようなことがあるかも知れない、そう考えて二人を引き合わせておく意図も、ティルドラスにはあったようである。
 森ではアーネイラ、そして、あらかじめ彼が来ることを知ってトーラウから駆けつけたジュネが彼を待っていた。ただ、ティルドラスを迎える二人の態度はどこかぎこちない。アーネイラもジュネも、ティルドラスがミレニアとの婚約を履行するようトッツガー家に使者を送ったこと、結局その縁談がまとまらずに終わったことは伝え聞いている。さらに、今回のケーシへの参朝が、おそらくティルドラスが最後の望みをかけて、ティンガル王家にミレニアとの結婚の口添えを頼みに行くものであることも薄々察していた。
 ぽつりぽつりと弾まぬ会話が続く中、ティルドラスがしばらく席を離れたのを見計らい、アーネイラはアンティルに改まった口調で尋ねる。「アンティル、一つ尋ねたいことがあります。あなたはティルを、どういう人物と見ていますか?」
 「今の世に、乱世を平らげ万民の苦しみを救う人物がいるとすれば、あのお方以外にはあり得ぬと思っております。」きっぱりとした口調でアンティルは言った。
 「そう……。そうかもね。」アーネイラは静かに、そして、どこか寂しげに頷く。
 「驚いたご様子がございませぬな。」少し意外そうな表情を見せるアンティル。
 「世の人々を苦しみから、破滅から救う……。もしも自分が、自分だけがそれができる立場に置かれたら、やはり、全てを捨ててそれを為さねばならないものなのでしょう。そう、何度でも。」遠い目でアーネイラは独り言のように言う。「でも、人々を救ったとしても、それで自分自身が幸せになれるわけじゃないの。誰からも感謝されず、人に知られることもなく、自分がやったことが本当に正しかったのかさえ確信が持てないまま、ずっと苦しみ続けなければならないことさえある――。確かに、ティルにはあなたが言うような力があるのかもしれないと私も思います。でも、ティルは世の人たちを幸せにするための生け贄なんかじゃないの。たとえ乱世を終わらせて世の人を救うことができたとしても、そのためにティルが不幸になるのを私は見たくない。だからアンティル、ティルの幸せのことも考えてあげて。」
 「――心いたしましょう。」彼女の言葉に何かを感じ取ったのだろうか、アーネイラに向かってアンティルは静かに頷いた。
 やがてティルドラスが戻り、とりとめのない会話が日が傾くまで続いたあと、彼は席を立ち、アーネイラとジュネにいとまを告げる。
 「無事にミレニア公女と縁談がまとまったら、ここにも連れてきてね。私も会ってみたいから。」馬にまたがり出発しようとするティルドラスに向かって、弱々しい笑みを浮かべながらアーネイラは言った。
 「うん。そうするよ。」やはり寂しげな微笑とともに、ティルドラスは馬上で頷く。
 カーヤに案内されて森の中へと消えていくティルドラスの姿。彼を見送るアーネイラとジュネの面(おもて)には、どこかもの悲しい表情が浮かんでいた。
 そして今、ティルドラスの長い旅が始まる――。《了》

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