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ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(26)

第六章 公子ジュベ(その1)

 ハッシバル領の西の外れに位置し、魔の森・シュマイナスタイに隣接するキクラスザールの街。そこから西にしばらく行けば、カイガー家との国境地帯に差しかかる。
 国境といっても現代の我々が考えるような明確なものではない。国の存続さえ安定したものではなく、その勢力も目まぐるしく変わる戦国の時代、しかも人口密度が低く開発も進んでいない辺境の荒野である。とりあえず帰属が明らかな集落が国境地帯の両側に点在し、その間には人跡さえ希な荒野が渺茫(びょうぼう)として広がる。
 百年後のソン=シルバスの時代には、秋になれば一面に稲穂が波打つ大穀倉地帯となったこの周辺も、当時は、北西の山脈から雪解け水を集めて流れ下る名もない川が幾筋も荒れ地を走る原野だった。こうした川に沿った低地は、頻繁に起こる氾濫によって森林の発達が妨げられ、背の高い草が一面に茂る草原となっている。
 その草原を、わずかな供回りとともに馬を駆って走り抜ける一つの人影があった。
 腰に下げた剣と狩猟用の小弓、胴を覆うだけの軽装の革鎧、その上に羽織られた母衣(ほろ)。母衣の背には白地に青くカイガー子爵家の水晶の紋が染められていた。ジュベ=カイガー。カイガー家の当主・ティム=カイガー子爵の一子で、今年十六になる若武者である。
 長い黒髪を背後で束ねて背中に垂らし、兜代わりに頭にはめた金輪の正面には猛々(たけだけ)しい毒竜(ドラゴン)の頭部の彫刻が飾られている。だが、その装飾の下の褐色の顔は凜々しい一方でなよやかに優しく、どうかすると見目麗しい少女のようにも見えた。
 しかしその優しい面(おもて)には、暗い憂いと、時として激しい憤怒の表情が浮かぶ。
 『おのれ、ハッシバル家め。』心の中でつぶやくジュベ。『今に、目にもの見せてくれる!』
 ここからそれほど遠くないカイガー家の国都・トーラウの宮廷に、ハッシバル家から摂政・サフィアの名で高圧的な書状が届いたのは三か月ほど前のことだった。
 ――ハッシバル家よりカイガー子爵に、謹んで書簡を送り御起居の如何(いかん)を伺う。今や我がハッシバル家は、新伯爵・ティルドラスと摂政・サフィアのもと、無道なるバグハート家を討ち滅ぼし、再び開祖・キッツ伯爵の時代の栄光を取り戻さんとしている。近隣の国々がその威徳に服す日は遠くないであろう。にもかかわらず、貴国はティルドラス伯爵の即位の式典に使者を遣わして以来、折に触れて行うべき我が国への挨拶を怠り、隣国としての礼を疎(おろそ)かにしている。今年の新年にも、国主あるいは近親の者が自らネビルクトンを訪れて慶賀の意を表すべきであるにも拘わらず、使者すら遣わすことがなかった。来る三月に行われる先代・フィドル伯爵の一周忌の祭祀には、かような非礼を行わず、両国の友誼(よしみ)に相応しい対応を取るよう望むものである。――
 それが書状のあらましだった。『我が国を属国とでも見ているのか。侮るにも程があろう!』ジュベは唇を噛む。
 腹立たしいのは、かつて驍勇(ぎようゆう)で名高かった父が、こうした傲岸な書状に何の抗弁もせず、むしろハッシバル家の機嫌を取るようなへりくだった態度さえ見せたことである。
 父・ティム=カイガー子爵は一種の立志伝中の人物である。生まれはアシュガル大公国の領内で、爵位こそないものの、一族で広い土地を所有する豪族の家系だった。
 ティムが十七歳の時に父が亡くなる。遺された土地の相続をめぐって親族との間に揉め事が起き、うんざりしたティムは、ある日周囲に向かってこう宣言したという。
 「大丈夫(だいじょうふ)たる者が、この乱世にありながら天下に名を挙げる志も持たず、ただ先祖からの区々たる土地にしがみついて一生を終えるなどあって良いものか。エル=ムルグの山関の地は僻遠(へきえん)にして人跡稀ながら、土地は広く地味は肥え、まさに覇業を為すべき地と聞く。一剣を携えて一国を建てる地があるとすれば、まさにその地に他ならぬ!」
 彼は土地を一族の者たちに譲り、それと引き換えに金と武器、馬などを手に入れ、郎党や友人たちを引き連れてエル=ムルグ山地を目指す。出発にあたって、彼はとある名高い占い師のもとを訪れ、自分の未来を尋ねたという。
 「位は公爵・侯爵の高きに昇るでありましょう。」占い師は言った。「そして、やがてあなたの血筋から、諸侯・万民を統(す)べ、天が下を掌(たなごころ)の内に握る人物が現れましょう。」
 「ハッシバル伯爵のようにか?」ティムは勢い込んで尋ねる。当時、既に覇者として天下にその威を奮っていたキッツ伯爵。一介の雑兵から身を興してその地位にまで上りつめた彼の名は、ぎらぎらした野心を内に秘めた同時代の若者たちにとって、単なる憧れ以上のものを呼び起こす存在だったのである。
 しかし、彼の問いに占い師は声をひそめながらかぶりを振った。「いえ。それよりさらに上、尊きこと、言葉に尽くせぬほどの位でございます。」
 この占いにも勇気づけられ、ティムは勇躍エル=ムルグ山地へと乗り込む。目指すは、当時、村落単位の小領主が乱立し、統一的な支配者を持たなかったアシルウォクトーの湖の北方である。
 その後の話は『ミスカムシル史大鑑』に記されたティムの一代記に詳しいが、長くなるためここでは略する。わずか数年の間に、ティムはトーラウを根拠地として周囲一帯の土豪たちを切り従え、ついに二十代半ばの若さでティンガル王家から子爵の爵位まで授けられた。
 しかしカイガー家の伸張の時期はそこまでだった。ティムが子爵となったその年に、西隣のケーソン子国が長きにわたる戦いの末に宿敵・チャプタイ子国を亡ぼしてエル=ムルグ山地西部一帯を制圧する。時をほぼ同じくして、エル=ムルグ山地東部で最大の勢力であったシーエック子国が山脈を越えてこの地に手を伸ばしてきたハッシバル家の圧力の前に戦わずして屈服。娘・ルロアがハッシバル家の跡継ぎ・フィドルに嫁ぐにあたっての婚資という名目で全領土を差し出すことにより和を請い、そのあおりを受けて、エル=ムルグ山地東部から南部にかけて割拠していた大小の独立勢力が次々にハッシバル家の傘下に入ってしまったのである。
 東には天下に覇を唱える超大国のハッシバル家、西にはエル=ムルグ山地西部一帯を支配するケーソン家……。一転して、カイガー家は二つの強国の間に挟まれた小国となる。
 それでも当初の状況はそれほど切迫したものではなかった。ハッシバル家は中央での戦いに忙しく、特に敵対的な態度を見せるわけでもない辺境の小国など眼中になかったし、新たに得た領地の安定に忙しいケーソン家も、ハッシバル家との緩衝地帯として、むしろカイガー家を後押しする態度を取っていた。だが、フィドル伯爵の代にハッシバル家がシュムナップの戦いでの大敗によって領土の大半を失い、エル=ムルグ山地東部に勢力を持つだけの小国に転落してから、状況はさらに複雑となる。ハッシバル家・ケーソン家ともに、時には甘言や威圧によってカイガー家を服従させようと試み、時には虎視眈々(こしたんたん)と侵入の機会をうかがう。その中にあって、両国との決定的な対立を避けながら一方では国内の充実にも力を注がねばならない。
 ティムの後半生はそれまでから一転して、一代で建てた国をいかにして存続させるかに汲々とするものになる。
 幸い、ティムには武勇だけでなく民政の才もそれなりにあった。戦乱で故郷を失った流民たちを受け入れて人口を増やし、領内を回っては領民たちの意見や要望を聞き、群盗が現れれば時には自ら軍を率いて鎮定する。彼とともに国を建てた同志やその子供たちも、決して豊かとは言えない国の中で、おのおの実直に役目を果たして彼を支え続けた。
 「国は小さく民は少なく、天下にその名を知られる賢人も名将も得られなかったとはいえ、百官は精励して職務に当たり、租税・賦役は軽く、法は簡便で守りやすく官吏の腐敗・汚職は少なく、これにより民は貧しいながらも安らかな生活を送ることができた。もとより天下を平らげて万民を救う道ではなかったにせよ、少なくとも乱世にあって小国をよく保ったとは言えよう。」ソン=シルバスは『ミスカムシル史大鑑』の中でティムの治世をそう評している。

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